「鴻門之会ってどんな話?」
「鴻門之会に出てくる人物とは?」
「鴻門之会のあらすじが知りたい」
このページをご覧になっている方は、そのようなことをお考えかもしれません。
鴻門之会とは、紀元前206年に鴻門という場所で行われた項羽と劉邦の会見のことです。
会見前、項羽は劉邦の振る舞いにとても腹を立て、項羽の軍師である范増による劉邦謀殺に賛成していました。
しかし、実際に劉邦に会うと項羽は謀殺する気が失せてしまいました。
項羽に殺す気がなくなっても、将来の禍の種を除きたい范増は、項荘を使い劉邦暗殺を謀ります。
それを察した項羽のおじの項伯は、項荘の動きを阻みますが、劉邦のピンチは変わりません。
このとき、劉邦の命を救ったのは軍師張良の機転と豪傑樊噲の乱入でした。
今回は、鴻門之会の登場人物やあらすじ、鴻門之会後の動きなどについてまとめます。
「鴻門之会」とは?
「鴻門之会」は、司馬遷が書いた『史記』に登場する名場面の一つです。
紀元前206年、ともに楚の将軍だった項羽と劉邦は目的だった秦の討伐を成し遂げ、鴻門で会見することになりました。
劉邦が函谷関を閉じて項羽を締め出したと思った項羽が怒っていたため、劉邦は急いで項羽のもとに駆け付け、謝罪します。
項羽はそれを受け入れようとしますが、軍師范増が劉邦の謀殺をはかりました。
しかし、劉邦は項伯や張良、樊噲の助けによって虎口を脱し、命からがら逃げかえります。
「鴻門之会」の主な登場人物
鴻門之会に登場する主な人物は7人です。
項羽側
項羽(こうう)
楚の項燕将軍の孫で、叔父の項梁とともに秦打倒の兵を挙げました。
身長8尺2寸(188.6cm)の大男で、腕力に優れ、戦いでは無類の強さを発揮します。
また、プライドが高く気概に満ちた人物で、英雄豪傑を好むところがありました。
項梁戦死後、楚の主力軍団を率いて秦の章邯将軍と戦い、これに勝利します。
秦の主力軍団に勝利した項羽は、秦の都である咸陽に兵を進めていました。
劉邦が函谷関を閉じたことを知ると激怒し、40万の大軍で函谷関を攻め落とすと、鴻門に陣営を構え劉邦を威圧しました。
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范増(はんぞう)
はじめ項梁に、項梁の死後は項羽に仕え、彼の軍師となりました。
項梁に仕えた時、范増はすでに70歳を越えていました。
まだ20代で若い項羽は、范増を”父に次ぐもの”という意味の「亜父(あふ)」と呼び尊重し、彼の言葉に耳を傾けました。
鴻門之会のとき、范増は劉邦の危険性を見抜き、この機会に謀殺してしまうことを提案しましたが、項羽は范増のいうとおりにしませんでした。
項伯(こうはく)
項羽の叔父。
項羽が劉邦の振る舞いに怒っていることを旧知の友である張良に伝え、彼だけでも難を逃れるよう説得します。
しかし、張良は劉邦の元を離れず、それどころか項伯と劉邦を引き合わせ、義兄弟にしてしまいました。
止むなく、鴻門之会では劉邦を助けるため尽力します。
項荘(こうそう)
項羽の部下の一人。
しかし、項伯に阻まれ、目的を達成できませんでした。
劉邦側
劉邦(りゅうほう)
楚の一地方である沛県の出身で、秦を倒す反乱に参加しました。
そのため、この当時の劉邦は沛出身の将軍といった意味で、沛公とよばれます。
項羽が主力を率いていたのに対し、劉邦は別動隊を率いて秦の都咸陽を目指しました。
その後、咸陽の南にあった武関を攻略し、項羽よりも早く咸陽を占領します。
しかし、函谷関を閉じて項羽軍の進軍を妨げたため、項羽の怒りを買いました。
項羽軍が函谷関を攻め落とすと、項羽の怒りを鎮めるため急いで項羽の陣営に駆け付けます。
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張良(ちょうりょう)
劉邦の軍師の一人。
劉邦は、「夫れ籌策(ちゅうさく:はかりごと)を帷帳の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決するは、吾(劉邦)子房(張良)に如かず」と評した天才軍師です。
咸陽に入り、有頂天になっている劉邦に、咸陽の都で好き放題することなく、郊外に陣を構えるべきだと進言しました。
加えて「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、良薬は口に苦けれども病に利あり」と述べて、耳が痛いことでも聞き入れるよう劉邦を諭しました。
その後、項羽軍が函谷関を突破し鴻門に布陣すると、劉邦と共に釈明の使者の一員として項羽の陣営を訪れます。
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樊噲(はんかい)
劉邦配下の将軍の一人。
もともと、劉邦と同じ沛県の出身で、犬の屠殺業者だったといわれます。
劉邦の妻の姉と結婚していました。
劉邦が咸陽に入り、豪華な財宝や後宮の美女に目がくらんだときに張良と共に劉邦を諫めます。
「鴻門之会」までのあらすじ
秦を倒すために反乱を起こした項梁は、秦に滅ぼされた祖国の楚を復活させようとします。
そのために、楚王の子孫で羊飼いをしていた心という人物を探し出し「楚の懐王」と名乗らせました。
ところが、項梁は秦の章邯軍との戦いに敗れ、戦死してしまいました。
戦いの後、懐王の前で開かれた会議で、楚軍を二手に分け、主力部隊と別動隊を組織し、秦の都咸陽を目指すことが決まりました。
そして、懐王は先に関中(咸陽がある秦の中心地域)に入ったものを関中の王とすると宣言します。
会議では項羽は主力部隊の副将、劉邦は別動隊の大将と決まりました。
しかし、項羽は行軍中に主力部隊の大将を殺し、自ら大将となって秦軍と激突。
項羽率いる主力軍は秦の主力軍に何度も勝利し、降伏した敵兵を穴埋めにするなどしたため非常に恐れられます。
一方、劉邦率いる別動隊は、戦うことよりも敵を降伏させることを重視したため、項羽軍よりも早く進軍。
結果、劉邦軍は項羽軍より早く咸陽を攻め落とすことに成功します。
項羽が関中の入り口にあたる函谷関まで到達すると、函谷関の門は閉ざされ、そこには劉邦軍の旗が翻っていました。
「鴻門之会」のストーリー
項羽の怒り
函谷関に到着した楚軍は、劉邦の兵が関所を守っていたため、それ以上進軍できませんでした。
項羽は劉邦が咸陽を攻略したと聞くと怒り、函谷関を攻略し、秦の中心部である関中に乗り込みます。
すると、劉邦の部下である曹無傷という男が項羽に使いを送ってこう伝えました。
「劉邦は関中で王になろうとし、(元の秦の王だった)子嬰を丞相にして秦の宝を自分のもとにしてしまいました」と。
これを聞いた項羽は激怒し、
「兵士たちの食事をさせよ!明日には劉邦の軍を打ち破るぞ!」と告げました。
しかも、軍の強さは項羽軍のほうが上でしたので、戦えば、ほぼ100%、項羽軍が勝利します。
軍師范増の謀略
そのため、項羽に次のように告げます。
「昔、劉邦は欲張りで女好きでした。今、咸陽に入っても財宝や美女に手を付けていません。これは、劉邦に野心があるからだ。今のうちに討ち取るべきです。決して逃してはなりません。」
こうして、范増は劉邦謀殺の計画を進めます。
劉邦の謝罪
項羽の激怒を(項伯から)伝え聞いた劉邦は、100騎ほどのわずかな兵を引き連れて項羽の陣営に向かいました。
「私は、あなた様と力を合わせて秦と戦ってきました。しかしながら、私のほうが思いがけず早く関中に入って秦を打ち破り、こうして将軍(項羽)にお目にかかることができました。誰か、つまらないものが私と将軍の中を引き裂こうとしているのです。」
弁明を聞いた項羽は
「(私が怒っていたのは)曹無傷が(劉邦が背こうとしている)といったからだ。そうでなければ、どうして私があなたを殺そうとするだろうか。いや、しないはずだ。」
と述べ、両者の和解が成立します。
宴会の始まりと、危険な演武
謝罪を受け入れた項羽は、その日のうちに宴会を開きました。
項羽と項伯は東側を向いて座り、范増は南向きで座りました。
宴会がはじまると。范増は、項羽に何度も目配せして、劉邦を殺す合図を送りました。
しかし、謝罪を受け入れた項羽は劉邦を殺す気が失せてしまったので、范増の合図を無視します。
すると、范増は席を立ち、項荘を呼び出して告げました。
「項羽様は残酷なことができない方だ。お前が宴会の場に入り、健康を祈るとして剣の舞を踊れ。そして、踊りに合わせて劉邦を殺してしまうのだ。」と命じます。
范増に命じられた項荘は、打ち合わせ通り剣舞を始めました。
様子を見ていた項伯は、范増の企みに気づき、剣舞の相手役として立候補し、そのまま、一緒に舞い始めます。
そのせいで、項荘は劉邦を殺すチャンスを見つけられません。
樊噲乱入
項伯の機転により、危険は少し遠のきました。
それでも、劉邦の命が危ないことに変わりありません。
そこで、張良は外にいた樊噲に会い、劉邦がピンチであると伝えました。
すると、樊噲は警護の兵士たちを押しのけて、宴席に乱入しました。
無礼な乱入者に対し、項羽は目を怒らせながら尋問します。
「お前は何者だ!」
すると、樊噲は
「劉邦と(護衛として馬車に)一緒に乗っている樊噲というものです。」
と名乗ります。
項羽は
「壮士(勇敢な男)だ。このものに酒をふるまえ」と命じます。
樊噲は、立ったまま項羽に与えられた酒を飲み干しました。
その様子を見た項羽は
「この男に、豚の肩の肉を与えよ」と命じました。
樊噲は、与えられた肉を自分の盾の上にのせ、持ってきた剣で豚肉を切って貪り食いました。
項羽は
「壮士だ。まだ飲めるのか?」と聞いたので、
樊噲は
「私は死すら恐れません。大杯の酒をどうして断るでしょうか。いや、断りなどしません。」
「秦は虎狼の国(残酷な国)だったので、中国全土の民が背きました。」
「懐王は、先に秦を破り咸陽に入ったものを王とするとおっしゃいました。」
「劉邦様は、咸陽を攻め落としましたが秦の財宝に手を付けていません。その理由は、あなた様(項羽)を待っていたからです。」
「兵を派遣して函谷関を閉じたのは、盗賊を警戒してのことでした。」
「ところが、あなた様はつまらないものの悪口を聞いて功績ある人物(劉邦)を殺そうとしている。これでは、秦と同じではないですか。そのようなことは、あなた様のためにも賛成できません。」
と項羽に訴えかけました。
項羽は樊噲に「座れ」といいました。
劉邦の脱出
樊噲が関を与えられ着席し、しばらく時間が過ぎた時、劉邦は厠に行くため席を立ちました。
劉邦は樊噲を呼び、いっしょに(宴会場の)外に出ます。
劉邦は樊噲に
「外に出てしまったが、まだ、別れの挨拶をしていない。どうしたらいいだろうか」
すると樊噲は
「大事の前の小事だから、小さな礼儀にかまっている暇はありません。」
「そもそも、私たちはまな板の上の魚と同じ(くらい危ない)だから、別れのあいさつなどにこだわっていられるでしょうか。(いや、こだわらず去るべきだ)」
といいました。
張良は劉邦が持参したお詫びの品を受け取り、謝罪役を引き受けます。
劉邦は「自分が、陣営に帰ったあたりを見計らって項羽に謝罪せよ」と張良に命じ、一目散に逃げだしました。
劉邦が逃げ延びたころ合いを見計らい、張良は項羽に謝罪を始めます。
張良は「劉邦様は酔ってしまい、退去のあいさつができなくなりました。かわりに、項羽様に白壁一対、范増様に玉斗一対を献上いたします。」といい、宝物を献上しました。
張良は「項羽様に過失をとがめられると聞いて、抜け出して自分の陣地に帰ってしまいました。」と述べます。
項羽は素直に白壁を受け取りましたが、范増は怒りのあまり玉斗を地面に置き、剣で壊してしまいます。
范増は「この若造(劉邦を殺さなかった項羽のこと)め!。ともに天下のことを語るに足りないやつだ。項羽の天下は劉邦に奪われてしまい、わが一族は劉邦にとらわれてしまうだろう!」と嘆きました。
「鴻門之会」は『史記』の名場面の一つで、しばしば、高校古典の教材としても取り扱われてきました。
「鴻門之会」のその後
項羽による秦都咸陽の略奪
そこで、項羽軍は咸陽の都を略奪・破壊し、秦の最期の王である子嬰とその一族を処刑します。
咸陽は焼き払われ、『史記』によれば、3か月もの間、炎が消えなかったといいます。
「楚人沐猴而冠」
咸陽を炎上させ、目的を達した項羽は軍を東へと返そうとしました。
ある人が、「秦の地は土地が豊かで天下を治めるのにふさわしいから、この地にとどまったらどうか」と提案しましたが、項羽は聞き入れませんでした。
項羽は「富貴を得て、故郷に帰らないのは錦を着て、夜出歩くことと同じである。誰も知ってくれはしない(だから、故郷に帰るのだ)」と述べています。
それを知った提案者は「楚の人間は猴(サル)が冠をかぶっているのと同じだ(楚人沐猴而冠)というが、全くその通りだな」と不満を漏らしました。
これを伝え聞いた項羽は激怒し、その人物をとらえて釜茹でにしてしまいました。
劉邦の左遷
秦の豊かな地を劉邦に与えると、将来、項羽にとって困った敵になるかもしれないと考えたからです。
そしてひねり出したのが、同じ関中でも辺境といってもよい「漢中」を与えることでした。
漢中が、地図上では中国の中央から外れた左の位置にあることから、劉邦を左に遷す、すなわち「左遷」という言葉が生まれます。
まとめ
劉邦は、項羽に先駆けて咸陽を攻め落としましたが、函谷関を閉ざしたことで項羽の怒りを買い、殺されそうになってしまいます。
鴻門之会は劉邦にとって、一か八かの謝罪劇でした。
そこから逃れるため、劉邦は義兄弟になった項伯や軍師の張良、護衛役の樊噲の手を借りました。
彼らの力があってこそ、劉邦は生き延びたといえるでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。