「年収の半分近くが税金や社会保険料に消えていく」—これが現代日本の現実です。
令和7年度の国民負担率は46.2%に達し、江戸時代の五公五民とほぼ同水準となりました。
しかし、高負担にも関わらず、私たちの生活は本当に安定しているでしょうか。
歴史を紐解けば、後北条氏の「四公六民」や上杉鷹山の藩政改革など、「民を豊かにしてこそ国も豊かになる」という「富国安民」の思想が日本を支えてきました。
人口減少や経済停滞という危機に直面する今こそ、この古くて新しい知恵に学ぶべき時ではないでしょうか。
税の取り方、使い方を見直し、国民の可処分所得を増やす政治への転換が求められています。
現代日本が直面する「重税」と「富国安民」の必要性
現代の日本では、私たちが支払う税金や社会保険料の割合が非常に大きくなっています。
令和7年度の国民負担率は46.2%と予測されており、これは私たちの収入のほぼ半分が国や地方自治体に納められることを意味しています。
国民負担率とは、私たちの所得に対して税金や保険料がどれだけの割合を占めるかを示す目安です。
この数値が上昇すると、自由に使えるお金が減少し、日々の暮らしに影響を与えます。
日本の税について知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。
この状況は、実は江戸時代の年貢制度と似ている点があります。
当時は「五公五民」と呼ばれ、農民が収穫した米の40~50%を藩に納めていました。
江戸中期には「定免法」という制度が導入され、収穫量に関わらず一定額の年貢を納めることになったため、不作の年には農民の生活はより厳しくなりました。
それまでは、「検見法」という仕組みが採用され、米の取れ高によって税収が決まったいました。
定免法の採用により幕府財政は安定しましたが、農民の生活は苦しくなったといえます。
歴史を振り返ると、「富国安民」という考え方は江戸時代から明治にかけて重要視されました。
この考え方は、国を豊かにしながらも国民の生活を安定させるという理想を表しています。現代においても、この考え方は変わりません。
税金は社会保障や公共サービスを支える大切な財源ですが、過度な負担は国民の生活を圧迫する恐れがあります。
そこで問いかけたいのは、「私たちの日常は本当に安定しているのでしょうか?」という点です。
これからの日本が目指すべきは、国民生活が安定し、国民一人ひとりがゆとりを持って暮らせる社会でしょう。
高齢化社会において福祉や医療の充実は欠かせませんが、同時に若い世代が将来に希望を持てる経済環境も必要です。
そのためには、現役世代の負担をある程度軽減し、経済を成長させ、成長の果実を国民で分け合う必要があるのではないでしょうか。
富国安民の歴史と成功例
民間の税負担を軽くして、経済発展を促す考え方は、今に始まったことではありません。
ここでは、戦国大名である後北条氏が行った政策と江戸時代の米沢藩主上杉鷹山が行った政策を取り上げます。
後北条氏が行った「禄寿応穏」の政治
後北条氏(以後、北条氏)は、善政を行った戦国大名として知られています。
北条氏が印判に用いた文字が「禄寿応穏」です。
「禄寿応穏」とは、財産や生命が穏やかで人々が平和に過ごすことを祈願したスローガンです。
北条氏の初代である北条早雲は、下剋上で伊豆・相模の支配者に上り詰めた人物として知られています。
近年の研究により、まったくの浪人ではなく、室町幕府執事だった伊勢家の出身であり、幕府官僚であった可能性が指摘されています。
早雲が伊豆を平定したころ、伊豆国は堀越公方や伊豆守護だった山内上杉氏の重税で苦しんでいました。
その様子を見た早雲は、税率を「四公六民」に定め、民の経済的安定を図りました。
当時は室町幕府の力が弱体化していたため、「年貢は取れるだけ取る」としている支配者も存在していました。
そうした中で、明確に税率を定めて民の負担を明確化した早雲の施策は、民の生活を安定させるうえで大いに役立ちました。
また、北条氏三代目当主の北条氏康は、農地にかかっていたさまざまな税金を一本化したうえで減税を行います。
今でいう税の簡素化を行いました。
そのため、手間が省けただけではなく、減税となりました。
また、氏康に限らず北条氏は定期的に検地を行うことで税収を正確に把握し、地元有力者である国人らの中抜きを防ぐといった対応も行っています。
現代でも税の簡素化や公平性は重要とされますが、すでに500年近く前にそれを実践したのは驚きです。
ケネディ大統領も尊敬した上杉鷹山が行った「民福主義」の政治
上杉鷹山は江戸時代中期、現在の山形県米沢市を治めた名君です。
本名は治憲といい、1751年に生まれました。もともとは秋月家の出身でしたが、10歳で米沢藩主家に養子入りしました。
17歳で藩主となった際、財政は危機的状況でしたが、「なせば成る」の精神で改革に取り組みました。
贅沢を禁じ、質素な生活を自ら実践。農業や産業を発展させ、教育も重視しました。
「天下の三大改革者」と称され、後の明治維新にも影響を与えています。
「民のことを第一に考える」という理念は、現代のリーダーシップにも通じる教訓となっています。
上杉鷹山の「民を第一とする政治」は、窮地にあった米沢藩を救った革新的な取り組みでした。
彼が藩主となったとき、藩の借金が93万両(現代の約930億円)という危機的状況を打開するため、「民の富みが国の富み」という信念を掲げました。
自らが範を示すため、質素な生活を徹底します。
「身を切る改革」として、家臣の俸禄削減よりも自身の経費削減から始めました。
藩主の食事を一汁一菜に減らし、衣服も粗末なものを着用しました。
産業振興にも力を注ぎ、「漆・桑・楮百万本植立計画」を実施します。
これらを原料とした漆器や絹織物、和紙の生産を奨励し、米沢の特産品として発展させました。
特に「米沢織」は現代まで続く地域産業となっています。
農村支援として新田開発や灌漑整備を進め、食料増産を図りました。
また、凶作に備えて「社倉制度」を設け、飢饉時の備蓄米を確保します。
教育にも熱心で、藩校「興譲館」を充実させ、人材育成に努めました。
これらの政策は「してみせて 言って聞かせて させてみる」の精神で、自らの犠牲を厭わず民の幸せを追求したもので、30年の長期にわたる取り組みにより藩の再建を成し遂げたのです。
民を豊かにする政策が先行することで、米沢藩の財政も好転しました。
現代こそ「富国安民」が必要!
日本は今、多くの課題に直面しています。
人口減少と高齢化が進み、経済成長は長期にわたって低迷しています。
さらに国際情勢も厳しく、アメリカの保護主義的な関税政策など、外部からの圧力も増しています。
まさに"国難"の時代と言えるでしょう。
このような状況だからこそ、"富国安民"の考え方が再び重要になっています。
この言葉は「国を豊かにし、人々の暮らしを安定させる」という意味ですが、現代風に解釈すると新たな可能性が見えてきます。
「富国」の面では、国内産業の活力を取り戻すことが急務です。
技術革新の支援や中小企業の育成によって、日本経済全体を元気にする政策が求められています。
一方「安民」については、市民の経済的負担を軽くする視点が必要です。
現在の税金や社会保険料の負担率は非常に高く、江戸時代の年貢と同程度になっています。
政府が集めたお金を再分配するよりも、最初から国民の手元に多く残す仕組みへの転換が大切です。
実は「安民」の実現こそが「富国」につながる道筋かもしれません。
人々の手元にお金が残れば消費が活発になり、経済全体が潤います。
税負担の軽減は短期的には国の収入減につながりますが、長期的には経済活動の拡大によって税収増をもたらす可能性があります。
現代の難局を乗り越えるためには、国民の活力を引き出す"富国安民"の精神が必要なのです。