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「江戸の三大大火って何?」「江戸の火災の原因は?」「八百屋お七って何をした?」わかりやすく解説!

江戸の三大火事って何?

江戸の火災の原因は?

江戸時代の火消しや火災対策はどうなっていたの?

八百屋お七って何をしたの?

 

この記事を読んでいる方はそのようなことをお考えかもしれません。

江戸の三大火事とは、明暦・明和・文化の3つの大火のことです。

江戸の主な火災原因は、人口増加や放火、乾燥しやすい冬の気象条件でした。

特に、放火は厳罰に処せられても後を絶ちません。

八百屋お七はそうした放火犯の一人でした。

 

火事が起きやすい江戸では民間の町火消しが結成され、日よけ地や延焼防止のために道路を広くする広小路もつくられました。

 

今回は、江戸の火災と防火の歴史と大火がもたらす影響についてまとめます。

江戸の三大大火と火災の原因  

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明暦の大火

引用:明暦の大火 - Wikipedia

江戸の三大火事

江戸は火災が多い都市として知られています。

江戸時代270年余の間に大火だけでも49回、記録に残されている火事の合計は1800回弱に及びます。

そのうち、明暦の大火、明和の大火、文化の大火を江戸の三大火事と称することもありますよ。

 

明暦の大火は、1657年1月18日、江戸市中で出火した火災は北西の季節風にあおられて拡大。

江戸の大半が焼失し、江戸城天守も焼け落ちました。

亡くなった娘の振袖をお焚き上げで供養した火が原因との説があり、振袖火事ともいわれ、死者は10万人を越えました。

 

明和の大火は、1772年2月29日、目黒行人坂から出火。

南西風が火災を拡大させました。この時の死者数は1万4700人と推定されています。

 

文化の大火は、1806年3月4日、この時も南西風によって火災が拡大。

多数の大名屋敷や寺社も炎上しました。

 

江戸の火災の3つの原因

急激な人口増大

狭い町人地にひしめき合うように暮らす人々は木造の長屋に住んでいました。

木と紙というとても燃えやすいものでできた長屋は火災になるとひとたまりもありません。

人々が日常使う、薪や行燈の火も火災の原因となったでしょう。

 

そもそも、江戸が人口過密になったのは将軍のおひざ元だったからです。

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引用:江戸城 - Wikipedia

 

江戸城が建てられたのは1456年から1457年にかけてのこと。

戦国初期の名将、太田道灌江戸城を築城しました。

道灌が主家である扇谷上杉氏によって滅ぼされたのち、江戸城は荒廃します。

 

1590年、豊臣秀吉小田原城の北条氏を降伏させ天下統一を達成します。

秀吉は、徳川家康を東海地方から関東へと移しました。

家康が江戸城に入った時、周辺には100軒ほどの家があっただけだったといいます。

 

1603年、家康が征夷大将軍に任じられると、全国の諸大名に江戸の市街地整備を命じました。

3代将軍徳川家光のころの江戸は20~30万人と推定されています。

家光時代に参勤交代が始まると、江戸の人口はさらに増加。

周辺地域も開発し市街地が拡張します。

 

江戸は大名や武士が住む「武家地」と寺院・神社の私有地である「寺社地」、町人が住む「町人地」に分けられます。

武士の街だった江戸では武家地が70%弱で町人地は15%前後に過ぎませんでした。

 

人口については詳しい記録がなく、推定になりますが100万人いたと考えらえていますね。

そのうち、町人地の人口は50万から60万です。

全体の15%の土地に半分の人口が住んでいたわけですから、人口密度が高いのもうなずけます。 

②放火

地方から江戸に働きに出て、生活に困った者が腹立ちまぎれに放火するケースが後を絶ちませんでした。

江戸幕府は放火を重罪とし厳しく取り締まります。

捕らえられた犯人は市中引き回しの上、火あぶりとされましたが放火を根絶できませんでした。

 

放火で有名なのは天和の大火で放火犯として逮捕された八百屋お七です。

彼女は火事で寺に避難した時、寺の小姓と恋仲になりました。

やがて、実家の八百屋が再建されるとお七と一家は寺を出ます。

ところが、お七は寺の小姓と会いたくて仕方ありません。

火事がおきれば、また寺に避難できると考えたお七は放火してしまいました。

このことが発覚し、彼女は鈴ヶ森刑場で火あぶりとされます。

気象条件

晩秋から冬にかけて、関東地方は乾燥した北西風が吹きやすくなります。

この風はとても乾燥しているうえに強風なので、火災を広げる役割を果たしてしまいました。

また、春先には南寄りの強風が吹きやすく、これも火災拡大の原因となります。    

幕府の防火対策

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引用:火消 - Wikipedia

 

8代将軍吉宗の時代、消防組織が十分に編成されていない町人地の防火・消火を行うため町火消が組織されました。

江戸町奉行大岡忠相は地域ごとに「いろは47組」を編成。

各地の防火・消火を担当させました。

 

江戸時代の消火は、現在のように放水を主としたものではありません。

では、町火消はどのようにして火を消していたのでしょうか。

その方法は「破壊消火」。

火が燃え広がらないよう、あらかじめ燃えそうな建物を壊す方法です。

そうすると、火は燃やすものがなくなりやがて鎮火します。

 

町火消は組ごとに「まとい」を持っていました。

火災現場にたどり着くと、最も目立つ場所にまといを立て、その組が消火を担当することを示しました。

 

また、火災が発生しても被害が最小限に抑えられるよう、都市計画の段階で工夫を凝らします。

道路を大きくし、火災が広がらないようにする広小路やわざと空き地をつくって火災の延焼を防ぐ火除地の設定などで火災拡大を防ごうとしました。 

町人たちの火事に対する備え

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江戸において、火事は発生頻度が高いものです。

そのため、町人たちも火事に対して常に注意を怠りませんでした。

冬になると、就寝前に枕元に「避難セット」を準備。

火事が発生したらすぐに避難セットの衣服を着て逃げ出せるようにしていたのです。

 

半鐘が鳴り火災発生を察知すると、火元と風向きを確認。

危険と判断したら、持ち出せない貴重品を土蔵や地下の穴蔵に隠します。

延焼を免れないと判断したら、持ち出せる貴重品だけをもって逃げ出しました。

 

土蔵に比べて安価に作ることができる穴蔵は江戸各地に作られたようです。   

大火後の物価高騰と復興特需 

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大火のあと、住居や商家、寺院などを再建するため多くの物資が必要となります。

そのため、江戸市中の物価だけではなく全国各地の物価も高騰しました。

 

その一方、復興需要が発生するため江戸中で仕事が発生。

多くの人が復興特需で職を得るという側面もありました。

復興特需をうまく利用することで、財を成す商人も現れます。

 

現代でも東日本大震災の直後に震災の特別需要が発生。

土木工事が東北地方各地で行われた結果、資材調達に苦労したようです。

江戸時代において、火事は多くの人命を奪い、人々の財産を焼き尽くしますが、新しい仕事を生み出す機能もあったようです。

  冬場は火災に対する備えを厳重に!

冬になると、日本海側では大雪の対策が必要となりますが、関東地方をはじめとする太平洋側では乾燥した北寄りの季節風が吹きやすくなります。

この条件は今も昔も変わりません。

 

また、火災の原因として暖房器具や火の不始末、放火が多いことも昔と同じですね。

昔に比べ多くの者に囲まれている私たちは、火事で失うものが江戸時代の人より多いかもしれません。

身一つになってしまうと、そこから立ち直るのは大変です。

寒い季節こそ、火の用心。心掛けたいものですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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