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「大西洋三角貿易」とは? 三角貿易の意味や黒人差別との関連をわかりやすく解説!

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三角貿易って何?

大西洋三角貿易と奴隷の関係は?

大西洋三角貿易アヘン戦争三角貿易は違うの?

 

このページに来てくれた皆さんは、そんな疑問を持っているかもしれません。

 

大西洋三角貿易とは、17世紀から18世紀にかけてイギリスがおこなった貿易です。

 

イギリスはヨーロッパからアフリカに武器を輸出し、アフリカで黒人奴隷を乗せ、南北アメリカプランテーションに売却しました。

 

そして、この黒人奴隷の「輸出」が現在、アメリカで起きている黒人差別の根源となります。

 

黒人に対する差別は決して過去のものではありません。

 

2020年5月25日にはミネソタ州ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警察官に取り押さえられ、手錠をかけられた状態で首を圧迫され死亡しました。

 

こうした白人警察官による黒人への暴力は、かつてのアメリカでは日常的に発生していました。

 

いったいなぜ、このような白人警察官による黒人容疑者への暴力が繰り返されるのでしょうか。

 

その起源はアメリカ大陸にアフリカ系の人々が奴隷として連れてこられた「大西洋三角貿易」にさかのぼることができるでしょう。

 

人間を商品として売買するという非人道的な奴隷貿易である大西洋三角貿易を知ることは、現在のアメリカで起きている黒人差別問題を知るうえで必要な知識ではないでしょうか。

 

奴隷貿易について知りたい方は、こちらのリンクもご参照ください

 

ja.wikipedia.org

今回は、大西洋三角貿易の背景や内容、貿易によってもたらされた影響についてまとめます。

 

欧米の歴史について知りたい方は、他の記事もどうぞ!

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奴隷狩りの様子

引用:奴隷貿易 - Wikipedia

 

三角貿易とは

三角貿易とは、三つの地域を結ぶ国際貿易のことです。

 

二国間貿易では利益を出しにくい場合、もう一つの国を加えることで貿易の効率を上げることができます。

 

たとえば、大西洋三角貿易の場合、ヨーロッパからアフリカに輸出して利益を上げられる商品は武器です。

 

武器を輸入した沿岸部の黒人部族はは内陸部の黒人部族を襲撃し住民を捕らえます。

 

しかし、ヨーロッパでは黒人奴隷を必要としません。したがって、武器を持ってきた船は高い利益を上げる商品を持ち帰ることができません。

 

そこで、ヨーロッパの船は奴隷を農場労働力として必要としている南北アメリカに運びます。

 

南北アメリカで生産された砂糖や綿花はアフリカに運ぶよりヨーロッパに運んだ方が高値で売ることができます。

 

奴隷を運んだ船は砂糖や綿花をヨーロッパに持ち帰ります。そうすると、船は常に利益率が高い商品を積むことができるのです。

 

この仕組みは19世紀に行われたイギリス・清・インドの三角貿易でも同じでした。

 

大西洋三角貿易の中心を担ったのはイギリス

大西洋三角貿易の主役となったのはイギリス人です。なぜ、イギリスが大西洋の制海権を取ることになったのでしょうか。

 

大航海時代の当初、大西洋はスペインの海でした。中南米を征服したスペインは大量の銀を本国に運びます。スペインの銀船隊はスペインの富の象徴でした。

 

しかし、17世紀以降、オランダやイギリスが台頭すると制海権はオランダやイギリスに移ります。

 

17世紀半ば、イギリスとオランダは貿易の利権などをめぐって激しく戦いました。これが英蘭戦争です。戦争に勝利したのはイギリスでした。

 

こうしてイギリスは大西洋の制海権を手中にし、大西洋三角貿易の主役となったのです。

 

大西洋三角貿易の背景とは

 

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大西洋三角貿易の背景には、大航海時代の始まりと、ヨーロッパ人による南北アメリカ大陸の植民地化がありました。

 

ヨーロッパ人は原住民のインディアンやインディオから土地をとりあげ、大農園を開きます。

 

過酷な労働や白人との争い、白人が持ち込んだ天然痘などの病気が原因でインディオやインディアンたちの人口は激減してしまいます。

 

大航海時代の始まり

 

15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ諸国の航海技術が一気に発達し、「大航海時代」が始まりました。

 

航海技術が発達したことで、これまで、陸地の近く中心で航行していた船が、陸地を遠く離れた外洋まで航行できるようになります。

 

ヨーロッパの船乗りたちが目指したのは、インドでした。インドにはヨーロッパ人が求める香辛料があったからです。

 

1488年、ポルトガルバルトロメウ・ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達します。

 

アフリカ廻で先を越されたスペインは、コロンブスが提案した西廻り航路でインド到達を狙います。

 

1492年、コロンブスカリブ海サンサルバドル島に到達しました。ここから、スペインによる中南米の植民地化が始まります。

ちなみに、大航海時代全体の流れを知りたいならこのマンガがオススメ!

最近はやりの流れをつかむことを重視したマンガ本ですので、とっても覚えやすいんです。

ぜひ、読んでみてください! 

南アメリカの植民地化とインディオ人口の激減

中南米に進出したスペイン人たちは、もともとあったアステカ王国マヤ文明インカ帝国などを滅ぼし、中南米をスペインの植民地とします。

 

スペイン人たちは原住民のインディオたちをキリスト教に改宗させる一方、彼らを農園や鉱山の労働力として強制的に働かせました。

 

過酷な環境で働かされたインディオたちはどんどん死んでしまい、あっという間に人口は10分の1以下に激減したといいます。

 

カリブ海で本格的にサトウキビ生産がはじまると、農場主のスペイン人たちは労働力を確保するため、奴隷を欲しがりました

 

サトウキビについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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大航海時代カリブ海で覇権を競ったスペインやイギリス、オランダなどの諸勢力覇権争いと植民地支配を追体験できます。

個人的にとてもはまっているゲームです。

アメリカの植民地化

中南米だけではなく、北米にもヨーロッパ人たちがやってきました。北米に進出したのはイギリスとフランスです。

 

最初、イギリス人やフランス人は大西洋の沿岸部を植民地としました。毛皮取引が中心で、商人など少数の人たちが渡ってきただけでした。

 

ところが、イギリス人は家族ぐるみで移住し、大西洋沿岸に強い植民地をつくりあげます。

 

イギリス本国で清教徒革命などの内乱がおき、宗教的に迫害された人々がアメリカにやってきたことも、植民地拡大の理由となりました。

 

イギリスは17世紀から18世紀にかけて、世界各地でフランスと戦います。

 

どちらがより大きく植民地を獲得するかで、イギリスとフランスは何度も戦争しました。

 

戦争の結果、勝ったイギリスは世界各地で広い植民地を手に入れました。

 

1775年、イギリスの植民地だった13州植民地はイギリス本国と税金や貿易などをめぐって対立し、戦争となりました。アメリカ独立戦争です。

 

戦争に勝利した13州植民地は、アメリカ合衆国となりました。

 

アメリカ合衆国は原住民のインディアンと戦い領土を広げます。アメリカ南部ではイギリス系の白人が広い土地を所有する大農園が発達しました。

 

広い農地を手に入れた白人農場主は、労働力として奴隷を欲しがります。

 

大西洋三角貿易の内容とは

 

大航海時代後に、ヨーロッパ人が大西洋沿岸で行った貿易を大西洋三角貿易といいます。

 

ヨーロッパ人(主にイギリス人)たちはヨーロッパの港を出るとき、武器や酒、綿織物などを積み込みました。彼らの行き先はアフリカ大陸です。

 

西アフリカにたどり着いたヨーロッパ人たちは、沿岸部の黒人たちと取引します。ヨーロッパ人たちは黒人たちに武器を与え、内陸部に住む黒人を「狩らせ」ました。

 

ヨーロッパ製の武器で武装した沿岸部の黒人たちは内陸部の黒人との戦いに勝ち、彼らを捕虜として沿岸部に連れてきます。

 

ヨーロッパの商人たちは、彼らのうち、長距離の航海に耐えられる屈強なものを選んで買い取りました。

 

黒人奴隷を乗せた船は「奴隷船」とよばれます。奴隷は「黒い積み荷」としてすし詰め状態で船に詰め込まれます。

 

栄養失調や病気の流行で多くの黒人たちが亡くなりました。

 

黒人たちの中には前途を悲観して自殺する者や、反乱を起こすものもいたので到着する前にかなり多くの人が命を落としたと思われます。

 

奴隷船は死者や病気の感染が疑われる奴隷、病人を海に投げ捨てました。そのため、奴隷船の周囲にはサメがまとわりついていたといいます。

 

南北アメリカにたどり着いた黒人たちは、沿岸部で競売にかけられ、それぞれの農場に連れていかれました。

 

奴隷は人間ではなく道具として扱われ、農場では劣悪な小屋に押し込まれます。このことを描いたのが「アンクルトムの小屋」でした。

 

彼らはサトウキビやコーヒーの農園で奴隷労働をします。北アメリカに運ばれた奴隷たちは、アメリカの南部で綿花栽培をしました。

 

奴隷の労働力によって生み出された安い農産物は、ヨーロッパ人商人の手によってヨーロッパに運ばれ大きな利益を生み出します。

 

大西洋三角貿易が各地に与えた影響

 

大西洋三角貿易は、16世紀から19世紀まで盛んにおこなわれます。大西洋三角貿易は、各地域にどんな影響を与えたのでしょうか。

 

大もうけしたイギリス

イギリスは奴隷貿易を独占し、巨額の利益を上げます。

 

アフリカで買った奴隷をアメリカで売りさばき、アメリカの綿花や砂糖をヨーロッパで高く売り払うことで、イギリスはお金を貯めました。

 

貯めたお金は、産業革命のもとてになります。

 

同じく、大もうけした北アメリカ植民地(白人の農園主を中心に)

 

サトウキビを原料とするラム酒や綿花や砂糖、ラム酒を運ぶ船を作る造船業、船でモノを運ぶ海運業が発達しました。

ラム酒は大西洋三角貿易の主力商品としてヨーロッパで人気を博します。

 

ニューヨークやボストンといった街は、奴隷貿易の港として栄えます。奴隷貿易で蓄えた貯金は、アメリカ独立戦争の資金源となりました。

 

サトウキビの島になってしまった西インド諸島

カリブ海に浮かぶ西インド諸島では、サトウキビ生産が盛んになりました。

 

しかし、サトウキビ以外にこれといった特産品がありません。

 

欧米の砂糖業界の景気次第で、西インド諸島の経済が良くなるか悪くなるか決まってしまうというサトウキビに頼りきりの経済になってしまいました。

 

経済が衰退した西アフリカ

 

1000万人近くの人々が生きたままアフリカからアメリカ大陸に奴隷として送られたといいます。

 

途中で亡くなった人などを含めると、数千万人が奴隷狩りの犠牲になったともいわれます。

 

あまりに多くの人口を失った西アフリカ地域は、経済発展が止まってしまいました。

アフリカについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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奴隷解放宣言後も続いたアフリカ系住民への差別

 

南北戦争中に出された「奴隷解放宣言」により、アメリカでは黒人奴隷が解放されました。

 

しかし、その後も差別が継続します。特に南部の州では「ジム・クロウ法」とよばれる人種差別的な内容を含む州法が力を持っていました。

 

黒人が白人と平等になってしまえば困ると考えた、南部の白人農園主たちが奴隷解放宣言を骨抜きにするために作らせたといってもよいでしょう。

 

合法的に黒人や有色人種を差別するジム・クロウ法が1964年の公民権法によって廃止されるまで存在していたことは、しっかりと覚えておかなければなりません。

 

アメリカは、良い点もたくさんある国です。

 

しかし、人種差別など日本人にとってなじみがなくても注意しなければならないことが、最近まで行われ、今も続いているということを忘れるべきではありません。

 

歴史を学ぶことで、自分の国や相手の国の良いこと、悪いことを知るのはとても大事なことではないでしょうか。

 

 

 

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