「保元の乱って何?」
「保元の乱で戦ったのは誰と誰?」
「保元の乱の原因や結果についてわかりやすく解説してほしい!」
このページに来てくださった皆さんは、そんな風にお思いかもしれません。
保元の乱とは平安時代末期の1156年に崇徳上皇と後白河天皇が日本の支配権をめぐって争った戦いです。
藤原氏や源氏、平氏が崇徳上皇側と後白河天皇側に分かれて争います。
戦いは後白河天皇側の勝利に終わります。
その3年後、勝った後白河上皇(保元の乱後、後白河天皇は退位して上皇となりました)の側近たちの内輪もめが原因でおきたのが平治の乱です。
今回は保元の乱の内容や乱の登場人物、平治の乱との違い、乱の原因や結果などについてわかりやすく解説します。
平安時代末期から鎌倉時代初期について関心がある方はこちらの記事もどうぞ!
保元の乱とは
保元の乱とは1156年(保元元年)に京都でおきた政変のことです。
それまで、「治天の君」(朝廷の最高指導者)として日本の頂点に君臨してきた鳥羽上皇が亡くなると、次の治天の君の座をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が争います。
治天の君について知りたい方はこちら
同じころ、摂関家では藤原忠通と藤原頼長の兄弟が争っていました。
皇室の争いと藤原氏の争いに源氏や平氏といった武士たちが絡むことで、二つの勢力が武力衝突します。
戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に流されます。
保元の乱と平治の乱の違いとは?
保元の乱は皇室と藤原家の内紛でした。一方、平治の乱は保元の乱で勝利した後白河上皇の側近(院近臣)たちの争いです。
平治の乱は後白河上皇の側近ナンバー1を決める争いだったといってよいでしょう。
平治の乱に勝利した平清盛はライバルの源氏を排除し、後白河上皇の院政を補佐します。
そして、武士でありながら貴族の最高官職である太政大臣にのぼりつめました。
平治の乱は平清盛が権力を握るスタートといってもよい戦いだったのです。
保元の乱の登場人物
天皇家
崇徳上皇
崇徳上皇は1123年から1141年まで天皇として在位しました。
この間、父の鳥羽上皇が「治天の君」として政治のトップに君臨していたため、彼は天皇でありながら実権はありませんでした。
1141年、崇徳天皇は近衛天皇に譲位し、崇徳上皇となります。といっても、鳥羽上皇が健在のため、上皇になってからも実権はありません。
1155年に近衛天皇が死去した際、鳥羽上皇は崇徳上皇の子ではなく、自分の子を後白河天皇としてたてました。
政権から排除され、鳥羽法皇との関係が良くない状態で1156年に鳥羽上皇が死去します。
鳥羽上皇の死後、崇徳上皇が藤原頼長とともに挙兵するといううわさが流れます。
後白河天皇側が武士を呼び寄せ、追い詰められた崇徳上皇は挙兵せざるを得なくなります。
保元の乱で敗北したのち、崇徳上皇は讃岐に流されました。その後、彼は都に帰りたいと切実に願いますが果たされず讃岐で亡くなります。
後白河上皇のあまりの仕打ちに、崇徳上皇は怨霊となったという伝説が生まれました。
後白河天皇
崇徳上皇や近衛天皇に比べ皇位継承の可能性は低いとみられ、「今様」に明け暮れる生活を送っていました。
それが高じて『梁塵秘抄』という今様の歌曲集まで編集してしまいます。
そんな趣味人だった彼の転機は異母弟である近衛天皇の死でした。
父である鳥羽上皇は崇徳上皇の子ではなく、彼を次の天皇に指名します。
こうして後白河天皇は即位しましたが、当然、兄である崇徳上皇との溝は深まります。
崇徳上皇と藤原家トップの藤原頼長が挙兵するとのうわさを聞いた後白河天皇とその側近たちは、素早く平清盛や源義朝らの武士を動員し崇徳上皇側の先手を打ちます。
保元の乱に勝利した後白河天皇は二条天皇に譲位し、院政を始めました。
その後、34年にわたって治天の君として君臨します。
摂関家
藤原頼長
藤原頼長は1130年に11歳で宮中に出仕すると、1131年には従三位、1134年に権大納言、1136年に内大臣になりました。
そして、1149年には左大臣に登ります。
いかに摂関家の人間とはいえ、頼長は異例の昇進を遂げました。
その背景には父のひきたてや本人の才能があります。
幼いころから博学多才で知られた頼長は左大臣となり朝廷のトップとなると、学術の再興や弛み切った朝廷の政治の引き締めをおこないます。
また、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人の捕縛騒動や仁和寺・興福寺の僧侶を捕らえようとしたことなどで寺社勢力と対立します。
現状よりも理想を重視し妥協を知らない厳しい姿勢は人々の反発を呼びます。
そのため、「悪左府」とあだ名され、次第に鳥羽法皇の信任を失いました。
鳥羽上皇から遠ざけられた頼長は近衛天皇死後の次の天皇決定にかかわることができません。
政権から追われつつあった頼長は一発逆転を狙わざるを得ない立場となっていたのです。
藤原忠通
藤原忠通は藤原忠実の長男です。父が白河上皇と対立して失脚したのち関白に任ぜられました。
白河上皇がなくなり鳥羽上皇が治天の君となると、父の忠実が復権します。
忠実は忠通よりも弟の頼長を偏愛したため、父子関係は悪化し、藤原氏のトップの座である「一の長者」の地位を忠通からとりあげ弟の頼長に与えてしまいました。
また、忠通は長い間男子に恵まれなかったため、弟の頼長を養子に迎えます。
しかし、実子が生まれると頼長との養子縁組を破棄してしまいました。
こうして、忠通と忠実・頼長の関係は修復不可能な対立関係となったのです。
源氏
源為義
源為義は白河上皇の引き立てにより京中の警備を担当する検非違使に任じられました。
同じころ検非違使だった平忠盛は昇進し国司になったのに対し、源為義は検非違使のまま据え置かれます。
かねてから本人や郎党たちが粗暴な振る舞いをしていたのが出世できない理由でした。
鳥羽上皇の信任がない為義は摂関家に近づきます。1154年に子の一人である為朝の乱暴の責任をとって為義は官職を解かれ、家督を源義朝に譲ります。
さらに、朝廷でおきていた藤原忠実・頼長への圧迫に巻き込まれ鳥羽上皇の怒りを被ってしまいました。
追い詰めらえた為義は事態打開のため忠実・頼長に味方します。
源義朝
為義の子の源義朝は関東で少年時代を過ごします。
彼は鎌倉周辺を本拠地とし、20代前半には現在の神奈川県にあたる相模国に強い基盤を築きました。
東国の勢力基盤を子の義平に任せた義朝は京都に戻ります。
帰京した義朝は鳥羽上皇や藤原忠通と結びつき、出世の糸口を探ります。
そして、1153年に従五位下となり下野守と右馬頭を兼任しました。
これは、父為義の地位を大きくしのぐものです。
保元の乱とき、父や他の一族と袂を分かち後白河天皇側につき勝利します。
しかし、3年後の平治の乱では平清盛に敗れてしまいました。この義朝の子が、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝です。
平氏
平忠正
はじめ、父の正盛とともに朝廷の武士として仕えていました。
しかし、鳥羽上皇の怒りをかって官職を辞任します。
その後は摂関家の家人として活動していました。
鳥羽上皇の信任が厚かった兄弟の平忠盛やその子の平清盛とは不和だったともいわれます。
乱後、平清盛の手によって斬首されました。
平清盛
平清盛は院政と深く結びついて勢力を拡大した伊勢平氏の棟梁です。
伊勢平氏は父の忠盛の代から院政と近い関係を持ち、鳥羽上皇から絶大な信任を受けた一族でした。
父忠盛から引き継いだ瀬戸内海交易は清盛に莫大な富をもたらします。
保元の乱では源義朝とともに後白河天皇側の主力として活動しました。
3年後におきた平治の乱では対立していた院の近臣や源義朝の排除に成功し、後白河上皇の側近筆頭となりました。
その後、武士出身としては異例の昇進を遂げ最高官位である太政大臣に上り詰めます。
登場人物についてより深く知りたい方は、大河ドラマ『平清盛』がオススメ!保元の乱や平治の乱についてもわかりやすく描かれています。
保元の乱の原因は天皇家と摂関家のあとつぎ争い
白河上皇が院政を始めてから、政治の最終決定権を持つ人物を「治天の君」とよびます。
鳥羽上皇の死後、上皇と関係が悪化していた崇徳上皇は治天の君の座をめぐって後白河天皇と対決します。
その崇徳上皇と結びついたのが鳥羽上皇やその側近と対立し、事実上失脚していた藤原頼長でした。
源氏や平氏は朝廷・貴族に仕える立場で、それぞれの主のために戦います。その意味では、保元の乱は貴族たちの戦いと言えるでしょう。
保元の乱は後白河天皇の勝利で決着
鳥羽上皇の死後、都で「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞が流れます。
彼らが共謀して国を傾ける、つまりクーデタを起こすといううわさが流れたのです。
これにもとづき、後白河天皇側が兵を集めたため、拘束されると恐れた崇徳上皇は京都郊外の白河に逃れます。
そして、彼らは兵を集めます。このとき、源為義や平忠正らも崇徳側に加わりました。
後手に回った崇徳上皇側では、源為義が後白河側への夜襲を提案します。
しかし、頼長は興福寺の援軍を待つとしてこの提案を退けました。
そうこうしているうちに、今度は源義朝と平清盛が崇徳側への先制攻撃を主張し、これが採用されます。
1156年7月11日未明、後白河方の源義朝と平清盛が白河の崇徳上皇方を攻撃し戦いの幕が上がりました。
戦いは一進一退でした。
彼は得意の強弓で次々と後白河側の武士を討ち取ります。
しかし、最終的に崇徳上皇方の防衛ラインは突破され保元の乱は後白河天皇勝利に終わりました。
保元の乱の結果
戦いは後白河天皇の勝利に終わりました。
崇徳上皇は後白河天皇側に投降したのち、讃岐に島流しにされます。
天皇経験者の配流は奈良時代の淳仁天皇以来、400年ぶりの出来事でした。
藤原頼長は戦いで首に矢を受ける重傷を負います。奈良に逃れていた父の忠実に面会しようとしましたが、乱に無関係な立場を取りたかった父は頼長との面会を拒否します。
それから間もなく、頼長は死去しました。これにより摂関家の家督は忠通で確定します。
後白河天皇側の主力として活動した源義朝と平清盛は恩賞として官位の昇進を果たします。
しかし、二人の待遇は徐々に差がつき、やがて両者の確執は平治の乱の原因の一つとなりました。
また、源為義や平忠正らは朝廷の命により反逆者として処刑されます。
この時処刑された数が多かったのは源氏でした。
平氏に比べると相対的に源氏の勢力が弱体化したといえるでしょう。
まとめ
今回は保元の乱についてまとめました。
保元の乱は崇徳上皇と後白河天皇による日本の支配権をめぐる争いでした。
これに、藤原摂関家の家督争いが加わることで争いの規模が大きくなります。
双方とも源氏や平氏といった武士たちを動員し、京都周辺で激しく戦いました。
戦いは後白河天皇の勝利でおわります。
3年後、この時の勝者である後白河上皇の近臣同士が争う平治の乱がおきました。
これに勝利した平清盛は出世街道を駆け上がり、太政大臣に上りつめます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。