「清盛の祖父や父はどんな人?」
「平清盛がおこなった貿易とは?」
このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。
平清盛は彼一人の力で出世したのではなく、祖父の正盛、父の忠盛が蓄えた力によって前人未到の大出世を遂げました。
清盛は伊勢平氏の努力の積み重ねで出世したのです。
今回は、清盛出世の基盤となった正盛、忠盛の事績や清盛自身の活動、清盛がおこなった日宋貿易などについてまとめます。
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伊勢平氏三代の出世物語
平清盛が政権を握り、日宋貿易を進展させる前、平正盛や平忠盛は、上皇が行う院政に結びつき平氏の力を強めていました。
清盛の祖父、平正盛
平安時代後期、世の中の権力は摂関政治を行っていた藤原氏から、天皇家の長として天皇を補佐する上皇の手に移っていました。
上皇というのは天皇を引退した元天皇のこと。元天皇である上皇が、院という場所で政治を行い、天皇や朝廷に指示を出す仕組みを院政といいます。
今でも、社長を辞めた人が陰から権力を握って会社を動かすことを院政などといったりしますよ。
白河上皇は摂関家の力を抑える一方、院近臣とよばれる自分の側近たちを使ってこれまでの政治家よりも強い権力で政治をおこないます。
院近臣として取り立てられた人物の一人が清盛の祖父である平正盛でした。
正盛は院の警備を行う北面の武士になり、京都の治安維持を行う検非違使や諸国の盗賊を討伐する追捕使として活躍します。
1107年、正盛は隣国である出雲国(島根県西部)で暴れる源義親の討伐を命じられました。1108年、正盛は源義親の討伐に成功します。
白河上皇はことのほか喜び、兵庫県北部にあたる但馬国の国司に任じました。白河上皇は正盛だけではなく、子供たちにも官職を与えます。
清盛の父、平忠盛
平安時代、朝廷を悩ませたものの一つは大寺院による強訴でした。強訴とは、大寺院が神社のみこしを担いで朝廷に要求を突きつけること。
明治時代に神仏分離が行われるまでは、大寺院は神社と結びつくのが当然でした。
たとえば、比叡山延暦寺の僧兵は日吉神社や祇園社などの神輿を、興福寺の僧兵は春日神社の神輿などを担いで朝廷に要求を突きつけます。
神輿を担ぐ僧兵は寺院に所属する僧侶兼兵士といってもいい存在。
一番わかりやすいのは、武蔵坊弁慶でしょう。 忠盛は1113年に興福寺の強訴を防いで白河上皇の印象を良くしました。
1119年の賀茂臨時祭では華やかな装いで舞い、参列者を驚かせます。白河上皇にひきたてられた忠盛は備前守となり、出世街道を歩み始めました。
白河上皇が亡くなり、最高権力者が鳥羽上皇になっても忠盛は出世を続けます。
1147年、清盛の家来が祇園社(今の八坂神社)とトラブルを起こしたとき、祇園社のバックにいた比叡山延暦寺は清盛と父の忠盛の流罪を求めて強訴しました。
この時は、鳥羽法皇の信任があり流罪を免れます。1153年、忠盛は公卿の地位を目前にこの世を去ります。忠盛が築いた地位や地盤は息子の清盛に受け継がれました。
太政大臣に出世した平清盛
忠盛の跡を継いで伊勢平氏の棟梁となった平清盛は鳥羽上皇に奉仕することで順調に昇進を果たします。
1156年、最高権力者(治天の君)だった鳥羽上皇が死去しました。鳥羽上皇の後に治天の君になるのは誰か、鳥羽上皇は明確に定めずに亡くなったため権力争いが起きます。
治天の君の座をめぐって争ったのは崇徳上皇と後白河天皇でした。平清盛は後白河天皇に味方し、崇徳上皇を支持する勢力と戦います(保元の乱)。戦いは後白河法皇側の勝利に終わりました。
1159年、今度は後白河上皇の側近同士で内紛が起きます。清盛は信西入道を支持しますが、藤原信頼・源義朝ら反信西派の奇襲により信西が討ち取られてしまいました。
熊野詣で京都を留守にしていた清盛は直ちに京都六波羅にあった平氏の本拠地に戻ります。
清盛は後白河法皇と二条天皇を信頼派の手から脱出させました。清盛は後白河法皇を仁和寺に行かせ、二条天皇を六波羅の屋敷に迎え入れます。
官軍となった清盛は六波羅の館で信頼派を迎え撃ち、これに勝利します(平治の乱)。
保元の乱・平治の乱で勝利した平清盛は朝廷内での地位を確たるものにします。
二つの乱の前後に、瀬戸内海交易の重要地点である播磨国の国司と九州太宰府の副長官(太宰大弐)に就任し交通の要衝を抑えました。
その後、1167年に太政大臣に任官します。これまで、太政大臣になることができたのは天皇の一族か藤原氏のみでした。
武士である清盛の太政大臣就任は歴史的快挙だったのです。
清盛が行った日宋貿易
平清盛は日本と中国の貿易である日宋貿易を盛んに行った人物でした。
これまで、日本と中国の貿易は国同士の正式な交渉が中心でした。しかし、中国で唐が滅び、日本でも律令国家が崩れてからは国同士の正式な貿易は途絶えます。
その一方で、民間レベルの貿易はとても活発に行われていました。清盛は、民間貿易を活発化させることで利益を上げようとしたのです。
瀬戸内海水運の要所を抑えていた平清盛
物を運ぶ時、陸上を運ぶのと海上を運ぶのではどちらが一度に大量の物資を運ぶことができるでしょうか。答えは海上交通。船は現代でも最も安く大量に物資を運ぶ手段です。
平安時代、京都の平安京に西日本各地の物資を運ぶのに大活躍したのが瀬戸内海の水運でした。
瀬戸内海沿岸の港で詰め込まれた各地の年貢や特産品は、船によって神戸・大阪方面に運ばれます。
そこから、淀川をさかのぼり京都に運び込まれました。中国や朝鮮半島からの物資は博多に到着後、瀬戸内海航路で京都に運ばれます。
清盛は保元の乱や平治の乱の活躍で播磨守と太宰大弐に任じられていました。
ということは、瀬戸内海の入り口である太宰府(博多)と京都への入り口である播磨の支配者ということになりますよね。
瀬戸内海の入り口と京都への入り口を抑える清盛は、瀬戸内海交通で大きな影響力を行使することができるのです。
博多港と大輪田泊の整備
博多は九州の玄関口となる場所です。九州全土を管理する太宰府は、中国や朝鮮半島との外交を担いました。博多は太宰府の玄関口と考えるとよいでしょう。
1161年、平清盛は博多に日本初の人工港である袖の湊を建設したとされます。
博多には中国人商人たちが軒を連ねていたとの記録も残されており、清盛が何らかの拠点を博多に置いていた可能性は高いでしょう。
現在の神戸にあたる地域には、清盛以前から港がありました。清盛は大輪田泊を整備し、大型船舶が入港できるよう設備を整えます。
これにより、中国(宋)からやってきた大型船が直接、大輪田泊に入港できるようになりました。
日宋貿易の始まり
1126年、中国では靖康の変が起きました。中国北方にあった金が宋の軍を破り、都の開封を占領し皇帝を連れ去ります。宋の皇族の一人が長江の南に逃げ宋を復興します(南宋)。
金の支配から逃れた人々は南宋に集まりました。南宋が都をおいた華中・華南は急速に経済発展を遂げます。
そのため、木材などの需要が急増しました。南宋の商人たちは豊富な森林資源を持つ日本に注目し、交易を求めて日本にやってくるようになります。
日本側が一番欲しかったのが中国の貨幣(宋銭)でした。
日本でも貨幣を作っていたことはあったのですが、経済が未発達だったせいで貨幣はあまり一般で使われることなく、いつのまにか、作られなくなります。
平安時代後期になると、日本でも経済活動が徐々に活発化。物々交換では不便だと思う人々が増えていました。
そこに登場したのが日宋貿易で日本に入ってきた宋銭です。
東アジアの中心国家である中国の銭ということもあって、宋銭は日本でも信用され流通するようになりました。
貨幣を使う一番のメリットは、商売がやりやすくなること。物々交換は、各地に相手と交換できるかどうかわかりません。
貨幣だと、モノの値段が数字で表されるので、お互いに取引がやりやすくなったでしょう。
モノの価値をはっきり示すことは貨幣の最も得意なこと。生産力が増え、モノが余り始めていた(余った生産物を余剰生産物といいます)。
人々は、モノを「売る」ことで、自分が必要な別のモノを「買う」ことができるようになります。
こうして、日本全国でモノの売り買いが盛んにおこなわれるようになりました。清盛が導入した宋銭は鎌倉時代にも引き続き使われます。
室町時代には宋銭にかわって明銭が使われるようになりました。信長の旗印として有名な永楽通宝は代表的な明銭ですね。
永楽通宝は永楽帝の時代につくられた銅銭でした。
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さいごに
平清盛は祖父や父の築いた基盤をもとに出世し、最終的には太政大臣までのぼりつめます。
彼の力の源は武力だけではありません。日宋貿易で得た財力、これが清盛のもう一つの力の源でした。
武士であり、政治家であり、経済人としての力もあった平清盛。時代は違いますが、先見性という点では織田信長に通じるものがあるかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。