田沼意次とは?
「田沼意次ってどんな人?」
「田沼が行った政治・経済の改革とは?」
「田沼の賄賂政治を批判した狂歌や川柳って何?」
このページを見ている人はそんな疑問を持っているかもしれません。
田沼意次は9代将軍家重と10代将軍家治に仕え、商業重視の経済政策を展開した人物です。
彼は株仲間を公認し、長崎貿易で俵物の輸出を奨励するなどして幕府財政の立て直しを図ります。
また、意外なことにイケメンとしても知られている人物でした。
今回は田沼意次が仕えた将軍、彼のおこなった改革、彼の政治を批判した狂歌や川柳、イケメンエピソードなどを中心にまとめます。
江戸時代全体の流れや江戸幕府の仕組みを知りたい人は、こちらの記事もどうぞ。
- 田沼意次とは?
- 9代将軍家重、10代将軍徳川家治が田沼を信任
- 田沼が行った政治改革とは?
- 田沼意次と松平定信の関係
- 田沼政治に関連する狂歌・川柳
- 田沼意次に関するエピソード・伝説
- 田沼意次についてのまとめ
田沼意次の年表
田沼意次のプロフィール
田沼意次は1719年に旗本田沼意行の長男として生まれました。
田沼家はもともと紀伊藩の藩士でしたが、紀伊藩主徳川吉宗が将軍となったことで幕臣に編入された家です。
意次は家督相続前から9代将軍となる徳川家重の小姓として仕えます。
1745年、徳川吉宗が隠居し、家重が9代将軍となります。それにともなって、意次も西の丸から本丸に入りました。
以後、家重の側近として重用されます。そして1751年には御用取次に任じられました。
意次は家重の次の将軍である10代家治の御用取次にも選ばれました。
そして、1767年に側用人が復活した時、意次がその職に任じられます。しかも、1769年には老中も兼務するようになりました。
しかし、意次の時代に賄賂がはやったとして反対勢力がこれを非難します。
賄賂自体は当時の慣習だったのですが、意次の場合、あまりに急速な出世が周囲の妬みを買ったのかもしれません。
1786年に家治が亡くなると、後ろ盾を失った意次は失脚してしまいました。
9代将軍家重、10代将軍徳川家治が田沼を信任
9代将軍となった家重は意次をかなり信任したようです。その証拠が、意次を御用取次に任じたことです。
御用取次とは、徳川吉宗が側用人を廃止して設置した役職です。主な仕事は、将軍と老中の間を取り次ぐ連絡がかかりでした。
御用取次に任じられるのは側衆の中でも将軍の信任が厚い人物だけです。意次がいかに家重から信任されていたかがわかります。
そして、自分が死ぬ間際に家治に引き続き意次を重用するよう遺言しました。
家治の時代になると彼は復活した側用人や幕政のトップである老中などに任じられます。
こうして、のちに「田沼時代」とよばれる意次の政治が展開されたのです。
田沼が行った政治改革とは?
田沼は享保の改革が農業中心の財政政策と年貢増徴を図ったのとは対照的に、商業振興や貨幣政策、俵物の輸出奨励などによる経済政策を展開しました。
また、蝦夷地の開拓にも乗り出します。しかし、印旛沼や手賀沼の干拓事業には失敗しました。
商業政策
株仲間の公認
田沼は商人たちの同業者組合である「株仲間」を公認する代わりに、その見返りとして幕府に運上や冥加という名の営業税を納めさせる仕組みをつくりました。
新たな財源を探していた田沼は都市の商業資本に目を付けます。
江戸幕府は土地や土地を耕す農民に対して幾重にも支配・課税の仕組みを整えていたのに比べると、都市での課税が軽微でした。
そこで田沼は都市の富裕な商人から税をとろうとします。
しかし、むやみやたらと商人に課税をしても彼らが衰退してしまえば財源が失われます。
そこで、田沼は彼らの商売を「公認」し、独占権を認める代わりに彼らから冥加金を受け取るようにしました。
商人たちは幕府公認となることでライバルとの競争で有利になり、幕府は収入を得られるという仕組みです。
専売制の拡充
田沼時代、高い利益を上げることができる4つの産品を幕府の専売としました。
その産品とは、銅・鉄・真鍮・朝鮮人参です。銅は長崎貿易の輸出品として重要でした。
鉄や真鍮は手工業の原材料として使います。朝鮮人参は高価な薬として利用されました。
いずれの産品も幕府の専売制にすることで確実に利益を上げることができるものです。
田沼はそれぞれの産品で商人たちに座を作らせ独占販売を認める代わりに、運上や冥加を得ました。
南鐐二朱銀の鋳造
南鐐二朱銀とは、「二朱」と額面が決められた銀貨です。江戸時代、東日本では小判をはじめとする金貨、西日本では量って使う銀貨が使われていました。
金貨は現在の私たちのお金と同じく額面がついていました。金1両は4分、1分は4朱でした。ということは、金1両は16朱となります。このような貨幣を計数貨幣といいました。
一方、銀貨は使うときに秤で重さを図って、〇〇匁(もんめ)と割り出してから使います。このような貨幣を秤量貨幣といいました。
商業活動が西日本・東日本の圏内にとどまっているならよいのですが、江戸時代は日本全国をまたにかけた商売が盛んになります。
金貨と銀貨の交換をスムーズにするため、「二朱」という額面付きの銀貨が作られました。それが南鐐二朱銀です。
これで、いちいち量らなくても金1両=南鐐二朱銀8枚という交換が可能となりました。
大坂と江戸で商売するような人にとってとても便利な通貨が誕生したことになりますね。
貿易政策
俵物の輸出
田沼は長崎貿易の赤字を解消するため、俵物とよばれる海産物の輸出に力を入れました。
長崎貿易は中国産の生糸やオランダ船が持ち込むヨーロッパ製品を輸入し、金・銀・銅などを輸出する貿易です。
幕府は長崎貿易によって貨幣の原料となる金・銀・銅が輸出するのは好ましくないと考え、長崎貿易を制限するようになりました。
田沼はそれとは違い、新たな輸出品を作り出すことで金・銀・銅の輸出を抑えようと考えました。
田沼が目を付けたのは海産物、とくに干しアワビやいりこ、フカヒレなどを詰めた俵物でした。
これらの品物は中華料理の原料として高値が付くため、利益が出せる輸出品となります。
積極的な俵物輸出の奨励により長崎貿易での金・銀・銅の輸出を抑制することができました。
農業政策
印旛沼・手賀沼の干拓
印旛沼も手賀沼も千葉県北部にある湖沼です。徳川吉宗の時代、新田開発の一環として開拓が試みられましたがうまくいかなかった場所でした。
田沼は利根川水系の開発で水運の強化と新田開発の一挙両得を狙います。
しかし、工事がある程度進んだ頃に関東平野を大規模な水害が襲いました。そのせいで印旛沼・手賀沼の干拓は失敗に終わります。
『赤蝦夷風説考』を読み蝦夷地探査を実行
田沼は仙台藩出身の工藤平助が書いた『赤蝦夷風説考』を読み、ロシア帝国が蝦夷地に迫っていることを知りました。
田沼はそれまで松前藩によって独占されていた蝦夷地を本格的に探査しようと考えます。
松前藩について知りたい方はこちらもどうぞ!
こうして、最上徳内らをメンバーとする蝦夷地探検隊を組織します。
最上徳内らは1785年と1786年に千島列島を探査しました。田沼失脚後も蝦夷地探査は続けられ、幕府による蝦夷地直轄に繋がります。
田沼意次と松平定信の関係
松平定信は田沼意次の失脚後、老中首座として寛政の改革を行った人物です。
定信について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
彼は徳川吉宗の孫で、白河松平家に養子に出されていなければ将軍になれた可能性があった人物でした。
この養子縁組に田沼が関わったとする説がありますが、定かではありません。
将軍家治の死によって田沼が失脚したのち、定信は老中首座となり、改革を実施しました。
この改革では質素倹約が奨励されました。しかし、 田沼政治の全てを否定したわけではありません。
南鐐二朱銀など先進的な経済政策は継続させています。
田沼政治に関連する狂歌・川柳
狂歌 「年号は安く永しと変われども諸色高直いまにめいわ九」
田沼時代の明和九年、年号が安永と改元されました。しかし、諸色=米以外の物価は高値で年号が「安く永し」となっても生活が苦しいと皮肉っています。
川柳「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ」
にぎにぎとは賄賂のことです。役人となると仕事よりも賄賂を受け取ることばかりがうまくなるという皮肉です。
田沼時代は幕府の保護を受けた商人や商人からわいろを受け取る役人たちにとって有利な時代で、自分たち庶民は何の恩恵もないという庶民の嘆きが聞こえてくるようです。
田沼意次に関するエピソード・伝説
田沼がイケメンだったって本当?
田沼意次は若いころから「イケメン」として有名でした。
彼は将軍付きの小姓として家重に仕えます。将軍後継者のお供ですから、当然、大奥の女性たちの目に触れる機会も多かったでしょう。
大奥の女性たちは豆まきのイベントの際、無礼講なのをチャンスとして将軍側近などの男性陣の中から「年男」を簀巻きにしていたずらすることをしていました。
ところが、意次はそのターゲットにされたことがありません。
その理由は、あまりにイケメン過ぎて、神々しくて近寄りがたかったからとのこと。
現代なら、さしずめジャニーズのアイドルのような扱いだったのかもしれませんね。
田沼は気遣いで出世!
田沼は気遣いの人でした。彼が仕えた9代将軍家重は病気で言葉が不明瞭な人物でした。
田沼は丁寧に家重の意向を聞き、気持ちを察して行動したといいます。こうした日頃の言動が家重・家治から絶大な信任を得た理由です。
彼が気を使ったのは目上だけではありません。部下たちにも気を使いました。
ある寒い日、都城を控えた田沼は寒さに震える部下たちに酒をふるまい、体を温めさせます。
それだけではなく、酒を飲めないもののために温かい食べ物も用意したといいます。田沼は細やかな気遣いができる人だったことがわかります。
田沼の部下がもらった「京人形」とは
田沼の権勢を物語る伝説として「京人形」の話があります。
あるとき、田沼の部下である勘定奉行の松本秀持は大坂の商人から大きな箱の贈り物をもらいました。
その箱には「京人形」が入っているといいます。あけてみると中から美しい着物を着た京人形が現れました。
等身大の美しい人形でしたが何か変です。よくよく見ると人形は息をしています。そう、その人形は生きた美女だったのです。
現代的な価値観で見れば、人間を贈り物にするというのはとてもひどい話に聞こえますが、当時としてはしゃれた贈り物のつもりだったのでしょう。
田沼意次についてのまとめ
今回は田沼意次について紹介しました。
田沼は江戸時代に主流だった農業中心の改革と一線を画す商業重視の政策を行いました。
これにより、幕府は新たな収入源を確保することができました。
また、長崎貿易の収支を改善し金銀などの流出を抑えることにも成功します。
しかし、田沼の商業重視は賄賂政治を招いてしまい世間の反発を買ってしまいました。
そのため、彼を信任していた9代将軍家重、10代将軍家治がこの世を去ると後ろ盾を失った田沼は失脚してしまいます。
この記事を読んで田沼意次の政治やエピソードが「わかった!」と思っていただけたら幸いです。