「中納言参りたまひての登場人物は?」
「中納言参りたまひてのあらすじは?」
「中納言参りたまひてに出てくる敬語とは?」
この記事を見てくださっている方は、このような疑問を持っているかもしれません。
「中納言参りたまひて」は清少納言の随筆『枕草子』の102段に収められているお話です。
この話には関白藤原道隆の子の「中納言」藤原隆家と彼の姉である中宮定子、定子の女房の一人である清少納言の3人が登場します。
あるとき、中納言隆家が定子の部屋を訪れて扇の骨を自慢します。
そのときに、清少納言が機知に富む返しをしたというのがこのお話でした。
今回は、「中納言参りたまひて」の登場人物の人物像や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項についてまとめます。
平安時代全体の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
- 「中納言参りたまひて」の登場人物と人物像
- 「中納言参りたまひて」のあらすじ
- 「中納言参りたまひて」の面白さとは?
- 平安貴族のマストアイテムだった扇
- 係り結びの法則
- 最高ランクの人にしか使われない「二重敬語(最高敬語)」
- まとめ
「中納言参りたまひて」の登場人物と人物像
中納言(藤原隆家)
文中に出てくる中納言は藤原隆家のことです。彼は時の関白藤原道隆の子でした。
彼の一家のことを「中関白家(なかのかんぱくけ)」といいます。
隆家は979年に誕生しました。
そして、一条天皇時代の989年に元服し11歳で従五位下侍従に任じられ貴族の一員となりました。
その後、父道隆の手によりどんどん位階を引き上げられ、995年には中納言に任じられます。
このとき、彼は16歳の若者で、明るい未来が待っているように思われました。
しかし、彼が中納言になって間もなく、父道隆が亡くなります。
このことは中関白家の人々に暗い影を落としました。
996年、伊周と隆家は伊周の女性問題に端を発して花山法皇と対立し、こともあろうに花山法皇を襲撃し、法皇の着物の袖に矢を打ち込んでしまいました。
花山天皇の退位のいきさつについて知りたい方はこちらをどうぞ!
この事件を最大限利用したのが彼らのライバルだった藤原道長です。
道長と伊周の「競べ弓」の話を知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
これらの事件の責任を追及された伊周は太宰府に、隆家は出雲にそれぞれ左遷されてしまいました。
この「中納言参りたまひて」は、若き日の隆家の屈託ない様子を描いた貴重な記録で隆家の人物像をうかがい知ることができるエピソードです。
また、隆家は激しい性格でしたが、一本気で政敵である道長にも評価されたといいます。
後年、大宰府に勤務した時は善政を施し、北方の異民族が九州を攻撃した刀伊の入寇では現地の武士を指揮し撃退に成功しています。
宮中での出世はかないませんでしたが、剛毅な一生を送った人物でした。
中宮定子
清少納言にとって直接の上司にあたる女性で、『枕草子』もしばしば登場します。
母譲りの漢文の素養や文学に関する深い教養があったようです。
定子の漢文の素養に関してはこちらの記事をご覧ください
999年、定子は一条天皇の皇子を身ごもります。
しかし、後ろ盾となるべき父の道隆はすでに亡くなっていました。
彼女を支えるべき兄の伊周と弟の隆家は花山法皇襲撃事件を引き起こし、定子を頼って彼女が宿下がりしていた二条宮に逃げ込みます。
定子は兄と弟をかくまいました。
しかし、一条天皇が検非違使に二条宮の捜査を命じたため庇いきれなくなります。
この捜査で隆家が逮捕されました。兄の伊周は逃亡後、捕まります。
捕縛された二人は、結局、左遷されてしまいました。
摂関政治の中身もわかるので、古典と日本史の両方を理解するのに役立ちました。
さて、仲の良かった兄たちが左遷された後、定子はどうしたのでしょうか?
左遷を知った定子は自らはさみを手に取って髪を切り、出家してしまいました。
宮廷生活に絶望したのかもしれません。
『枕草子』の記述や、その後の生き方から定子のつつましやかで優しい人物像が伺われます。
その後、一条天皇が兄弟の罪を許したので、定子は再び宮中に入ります。
そして1001年、媄子内親王を出産した直後に亡くなりました。
清少納言
清少納言は966年に生まれました。主人である定子とは24歳差です。
彼女の父は『後撰和歌集』の選者で梨壺の五人の一人に挙げられる歌人、清原元輔でした。
彼女が宮中に出仕したのは993年頃のことで、一条天皇中宮となっていた定子に仕える女房の一人として採用されます。
彼女が華やかな宮中での生活を書き記したのが『枕草子』なのです。
ただ、『枕草子』は全てが事実ではなく多分にフィクションを含んでいるとの指摘もありますので、読み手は注意が必要です。
清少納言についてはこちらの記事でも触れています。
1001年に中宮定子が亡くなった後、清少納言は女房を辞めて宮中を去ったと考えられています。
清少納言の人物像としては才気煥発という言葉がふさわしいように思いますが、同時に、宮中での敵も多かったかもしれません。
周囲の人々(定子付きの他の女官たち)
官職を持ち、宮中に使える女性たちのことを女官といいます。
尚侍、典侍、掌侍などの高位の女官から、雑事をつかさどる一般の女官まで、宮中には様々な女性が働いていました。
清少納言もそうした女官の一人です。
作中に出てくる中宮定子は天皇の后という極めて高貴な身分の女性でした。
彼女の身の回りの世話をする侍女たちは清少納言だけではありません。
しかも、一定水準以上の教養の持ち主が選抜されていました。
「中納言参りたまひて」のあらすじ
彼は、姉である定子に扇を献上します。そして、こんな話をしました。
隆家「私は素晴らしい骨を見つけました。これにふさわしい紙を張り付け、扇として献上したいのですが、ありきたりの紙を張ることなどできません。(だから、ふさわしい紙を)探してるのです。」
定子「(その骨は)どんなものですか?」
隆家「すべてが素晴らしい骨です。人々は「今まで全く見たことがない骨のようすです」と申しています。(私も)本当にこれだけの骨は見たことがありません。と声高におっしゃいました。
それを聞いた清少納言が隆家にいいます。
清少納言「それでは、扇の(骨)ではなく、くらげの(骨)のようですね」
隆家「(それはいい言葉だと思ったので)これは、隆家が言ったことにしてしまおう」
そういって、お笑いになりました。
なんだか自慢話のようで、書かないでおこうと主思ったのですが、周囲の人たち(女房達)「一つも書き漏らしてはいけない」などというので、書かないわけにはいかなくなったので書き記します。
「中納言参りたまひて」の面白さとは?
この話の「面白さ」は、楽しいという意味の面白さ(funny)ではなく、教養があるという点の面白さ(interesting)です。
では、誰の教養なのでしょうか?それは、筆者である清少納言の教養です。
文中で隆家は扇の骨を「見たことがないほど素晴らしい」とほめちぎりました。
それを清少納言は、「見たことがない」→「存在しない」と連想し、そんな見たことがない骨なら、クラゲの骨のようですねと返したわけです。
しかも、そのことを隆家が褒めて、「自分のセリフにする」といいました。清少納言としては自分の機知を褒められ、とてもうれしかったのでしょう。
しかし、そのことをストレートに日記に書くと自慢話といわれます。
だからさいごに「皆が書けっていったから」という言い訳を書いたわけです。
平安貴族のマストアイテムだった扇
扇は平安時代初期に生まれました。
宮中に出入りする貴族たちにとって、扇は欠かすことができないマストアイテムです。
扇には夏用の蝙蝠扇と冬用の檜扇があります。
夏の蝙蝠扇
夏に使う扇は蝙蝠扇とよばれました。蝙蝠はコウモリのこと。
開いた形が翼を広げたコウモリの形に似ていることからそのように呼ばれました。
骨に紙を貼るものですが、紙は扇の表面に貼られ、裏側には骨が露出していました。
文中で隆家はいい骨を手に入れたが、それに見合う(紙)がないといっていることから、彼が作ろうとしていたのは蝙蝠扇だと考えられます。
冬の檜扇
檜扇は木製でつくられた扇のことです。
特に女性の檜扇を袙扇(あこめおうぎ)とよびます。
檜の薄板を重ね合わせ、要の留め具に和紙を用いたものでした。
貴族たちにとって檜扇は正装の一部でとても重要なものです。
檜扇は要を持たず、広げるときには要の少し上を持つのが作法とされました。
顔を見せないのが当たり前の平安女性にとって、檜扇は顔を隠すちょうどよいアイテムとなったでしょう。
扇についてはこちらの記事がとても参考になりました。
気になる方は、こちらもご覧ください。
係り結びの法則
係り結びは「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係助詞(係り)が文中に登場すると文末(結び)が終止形以外の形に変化する法則のことです。
これは古文に使われる表現の一つで、強調や疑問をあらわします。
私たちは文章を書くとき、「!」や「?」を用いることで強調や疑問を表現することができます。
しかし、平安時代にこれらの記号は存在しませんでした。そこで用いられたのが係り結びです。
現代文で「!」にあたるのは、「ぞ」「なむ」「こそ」、「?」にあたるのは「や」「か」です。
これらの言葉が入ると、文末が変化します。「ぞ」「なむ」「や」「か」は文末が連体形に、「こそ」は已然形に変化するのです。
このお話だと「隆家こそいみじき骨は得てはべれ」の「こそ」が係助詞、「はべれ」は「はべる」の已然形です。
「隆家が!素晴らし骨を手に入れた」と自分こそが素晴らしい骨を手に入れたということを強調したいがための表現なのです。
姉に対して「見てみて!」と珍しい骨を持ってきて、褒めてもらいたいかのような隆家の振る舞いはなんともほほえましい限りですね。
最高ランクの人にしか使われない「二重敬語(最高敬語)」
敬語には尊敬語、謙譲語、丁寧語があります。
そのうち、尊敬語は相手の言動に対して尊敬の気持ちを込めて使います。
通常、一つの動作に対し敬語は一つですが、とても偉い人に対しては二重に敬語を使います。
これが二重敬語、または最高敬語です。
(定子が隆家に)「いかようにかある」と問ひ聞こえさせたまへば、の部分で問うという定子の行動に対し、筆者の清少納言が「聞こゆ」と「させたまふ」という2つの敬語を重ねています。
これは、定子が天皇の后(中宮)なので、最高の敬意を払う必要があるからです。
この文に限らず、「中納言参りたまひて」はやたらに敬語が出てきます。
しかも、主語がことごとく省略されているので非常にわかりにくいです。
ただ、清少納言の立場からすれば定子も隆家も自分の目上にあたる人たちなので、彼らの行動すべてに敬語をつける必要がありました。
大まかに言って、本文を書いている清少納言は中宮定子や中納言隆家の行動すべてに尊敬語を用い、清少納言自身の行動には謙譲語を用いているといってよいでしょう。
まとめ
今回は『枕草子』に収録されている「中納言参りたまひて」をとりあげました。
学校で教材にされることが多く、敬語問題の定番としても出題されることから古典初心者を大いに悩ませる章段です。
ただ、登場人物や扇についての基礎知識、最低限の敬語の知識があれば内容は難しくありません。
この記事を読んで、登場人物や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項について「わかった!」と思っていただけたら幸いです。