「30年戦争やリュッツェンの戦いって何?」
この記事を見てくださっている方はそのような疑問を持っているかもしれません。
リュッツェンの戦いとは、30年戦争の戦いの一つで、戦争全体の行方を大きく左右した戦いです。
スウェーデンの獅子王グスタフ=アドルフとドイツの傭兵隊長ヴァレンシュタインが戦いました。
リュッツエェンの戦いはスウェーデンの勝利に終わりました。
しかし、戦いのさなかにグスタフ=アドルフが戦死してしまいました。
今回は30年戦争の帰趨に大きな影響を与えたリュッツエェンの戦いについて解説します。
ドイツ30年戦争とは
ドイツ30年戦争とは、ドイツで起きた新教徒と旧教徒による大規模な内乱のこと。
1618年のベーメン(ボヘミア)の反乱から始まった内乱は文字通り30年にわたって継続。
ドイツの国土は荒廃し、ドイツ分裂が決定的となった戦争でした。
30年戦争は通常、4つの段階に分けられます。
第一段階は神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世とベーメンのプロテスタントが戦ったベーメンの内乱です。
神聖ローマ皇帝はスペインの支援を、ベーメンのプロテスタントたちはオランダの支援を受けるなど、最初から国際戦争としての色合いが強い戦いでした。
デンマークはプロテスタントの国だったので、プロテスタント諸侯に味方しました。
諸侯というのはドイツ国内で領地を持つ大貴族のことです。
この時、皇帝軍を率いたのがティリー伯と傭兵隊長ヴァレンシュタインでした。
皇帝軍はすぐれた二人の指揮官の活躍もあり、デンマーク王を撃退します。
第三段階がスウェーデン王グスタフ=アドルフの参戦です。
スウェーデンもプロテスタントだったので、プロテスタント諸侯に味方。
スウェーデン軍がドイツに侵攻しました。
スウェーデン軍と皇帝軍が真正面から激突したのが今回扱うリュッツェンの戦いですね。
第四段階はフランスの参戦です。
フランスは本来、旧教側なので神聖ローマ皇帝に味方するはずでした。
しかし、フランスの宰相リシュリューは神聖ローマ皇帝が強くなることを望みません。
そこで、リシュリューはあえて劣勢のプロテスタントに味方します。
両者とも互いに譲らず、膠着状態となった1648年、ウェストファリア条約が結ばれ戦争が終結しました。
スウェーデンの「獅子王」グスタフ2世=アドルフ
現在、スウェーデンを含む北欧諸国は平和で社会福祉が充実しているという印象が強いと思います。
しかし、このころのスウェーデンはヨーロッパの中でも指折りの強国でした。
ドイツの有力貴族であるブランデンブルク選帝侯の娘と結婚したグスタフ=アドルフは結婚を名目にドイツ各国を訪問。
その時に得た軍事知識を用いてスウェーデン軍を近代的な軍に改変しました。
グスタフ=アドルフはポーランドや周辺諸国と戦いバルト海制覇を達成します。
しかし、ポーランドとの戦いで負傷したグスタフ=アドルフは首と右腕を狙撃されて落馬する重傷を負ってしまいました。
この傷のため、グスタフ=アドルフは金属製の甲冑を身に着けることができなくなります。
スウェーデンがポーランドに苦戦した理由の一つは、神聖ローマ皇帝がポーランドを支援したからです。
グスタフ=アドルフは神聖ローマ皇帝に打撃を与える機会を狙います。
歴戦の傭兵隊長ヴァレンシュタイン
引用:アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン - Wikipedia
ヴァレンシュタインは神聖ローマ帝国内の小貴族の家に生まれました。
裕福な未亡人との結婚で富を得たヴァレンシュタインは彼女の資産を使い金融や領地の殖産興業を実施。
大規模傭兵団を養う経済的な力を獲得します。
1618年のベーメンの反乱の時、ヴァレンシュタインは皇帝に味方します。
戦いが皇帝軍の勝利に終わったのち、ヴァレンシュタインは戦いに敗れ皇帝に没収された領地を積極的に買収。
ベーメンでも屈指の領主へと成長しました。
1624年、ヴァレンシュタインは自前で20,000もの傭兵部隊を編成。
皇帝軍として30年戦争に参戦します。
1625年、皇帝軍総司令官に任命されたヴァレンシュタインはプロテスタント諸侯やデンマーク軍を撃破し名声を高めました。
しかし、あまりに目立ちすぎたこともありヴァレンシュタインは他の貴族たちの反感を買ってしまいます。
そのため、ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官を解任されてしまいました。
リュッツェンの戦い
ヴァレンシュタインの後に皇帝軍を率いたティリー伯は新たに参戦してきたスウェーデンのグスタフ=アドルフの軍をブライテンフェルトの戦いで迎撃します。
しかし、グスタフ=アドルフはこの戦いでティリー伯の皇帝軍を撃破。皇帝軍は潰滅の危機にさらされます。
皇帝はヴァレンシュタインに再度の出馬を要請。
ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官に復帰しグスタフ=アドルフを迎え撃つことになりました。
1632年11月16日、ライプツィヒ近郊のリュッツェンでスウェーデン軍と皇帝軍が激突。
激しい戦いが始まりました。
対するヴァレンシュタイン率いる皇帝軍も数の上ではほぼ同数。
ただし、大砲の数はスウェーデン軍が皇帝軍の3倍に達していました。
午前中の濃霧が晴れた午前11時ころ、両軍の戦いが始まります。
スウェーデン軍は皇帝軍の中央突破を図って突撃を開始しました。
スウェーデン軍は一時皇帝軍の中央陣地を占領、中央突破が成功したかに思えました。
しかし、ヴァレンシュタインはすかさず予備兵力を投入。
自ら陣地奪還の軍の先頭に立ち中央陣地を奪還しました。
この知らせを聞いたグスタフ=アドルフは中央部の歩兵を支援するため自ら騎兵を率いて突撃を図ります。
しかし、戦場を覆う濃い霧や銃砲の発射による煙幕などのせいで、周囲の状況が見えなくなったグスタフ=アドルフの部隊は周囲の見方から突出して孤立してしまいました。
このチャンスを見逃さなかった皇帝軍の騎兵はグスタフ=アドルフの近衛舞台に突撃を敢行。
グスタフ=アドルフは後退しようとしましたが、皇帝軍の突撃により戦死してしまいます。
王の戦士を知らなかったスウェーデン軍歩兵は勇戦を続けます。
そこへ、皇帝軍の援軍であるパッヘンハイムが騎兵を率いて現れ、プロテスタント軍が手薄な左翼に5度にわたって突撃を敢行。
スウェーデン軍をはじめとするプロテスタント軍を押し戻します。
しかし、最終的にはプロテスタント軍の攻撃が皇帝軍を上回り、ヴァレンシュタインは軍を後退させプラハに撤退しました。
戦術的に見ればスウェーデン軍やプロテスタント連合軍の勝利です。
しかし、偉大な王を失ったスウェーデン軍や連戦連勝をつづけたプロテスタント軍にとって、王の死は大きなダメージとなりました。
ヴァレンシュタインの最期
引用:アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン - Wikipedia
1634年、リュッツェンの戦い後も生き延びていたヴァレンシュタインは部下によって暗殺されてしまいます。
一説には、ヴァレンシュタインの強大化を恐れた皇帝によって暗殺されたともいわれます。
まさに「狡兎死して、走狗煮らる」となってしまいました。
今回はドイツ30年戦争中、最大の激戦となったリュッツェンの戦いを取り上げました。
功績を立てすぎた部下は主君から見れば恐ろしい存在です。
これは、現代社会でも同じかもしれませんね。歴史は教訓に満ちているなと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。