「呂不韋って誰?」
「奇貨居くべしとはどんな意味?」
この記事を読んでいる方は、そんな疑問を持っているかもしれません。呂不韋は戦国時代末期の秦国の政治家。商人出身の呂不韋は趙国に人質に出され不遇だった秦の王子「子楚」を支援し、秦王の座に担ぎ上げます。
しかし、呂不韋は国王となった秦王政(子楚の子)によって粛清されてしまいました。彼の話は司馬遷の『史記』や原泰久氏が描く『キングダム』で紹介されてました。
『キングダム』累計6,400万部を販売した大ベストセラーマンガです。2011年にはテレビアニメ化、2019年には実写映画化とその勢いはとどまるところを知りません。
『キングダム』の中に登場する人物の中でも、非常に重要な位置を占める呂不韋。もともと、一介の商人に過ぎなかった呂不韋は、秦王政(始皇帝)の父に「投資」することで、秦国の右丞相へとのし上がります。
今回は、呂不韋と子楚の出会いや呂不韋の名言「奇貨居くべし」、司馬遷の評価など、呂不韋と『三国志』の英雄呂布との違いなど史実に基づく呂不韋についてまとめます。
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『史記』に描かれた呂不韋と子楚の史実
前漢の歴史家司馬遷は、中国史上最も有名な歴史家で、いわば、中国史の父といっても過言ではないでしょう。
司馬遷は『史記』の中で、国や帝王の歴史を記す「本紀」だけではなく、司馬遷が「これは!」と思った人物について書く「列伝」などから成り立っています。
その際、司馬遷はどうしてこの人物をとりあげたかということについて、「太史公自序」に記しました。
司馬遷は
「子楚と親しみをむすび、諸侯の士の名のある者を、きそって秦に仕えさせるようにした。ゆえに呂不韋列伝第二十五を作る」(『史記』「太史公自序」)
と述べています。
呂不韋と子楚はどのように出会ったのでしょうか。
呂不韋が見出した秦の王子「子楚」
司馬遷によれば、呂不韋は韓の国の陽翟(ようてき)出身の大商人でした。呂不韋は諸国を移動しながら、安値で買い取ったものを高く売る商売し、千金の富を蓄えます。
呂不韋が商売で富を得ていたころ、中国で最も力を持つ秦国では、昭王が40年以上にわたって王位にありました。昭王の後継者である太子には、安国君という人物が指名されます。
安国君には20人以上の王子がいて、そのうちの何人かは諸国に人質として出されていました。呂不韋が出会ったのは、人質として趙国の都の邯鄲に送り出されていた子楚でした。人質にされていることからわかるように、子楚は王位継承レースから外れた存在です。
子楚の母親は安国君の数多くいる側室の一人で、それほど厚い寵愛を得ていたわけではありません。子楚が冷遇され、人質として出されてしまうのも無理のないことでした。
「奇貨居くべし」の意味とは?
呂不韋は子楚と出会うなり、一目で気に入り「奇貨居くべし」とつぶやいたといいます。奇貨とは、珍しい品物のこと。居くべしとは、手元に置いておくべきだ、という意味ですね。
呂不韋は子楚に語りかけます。
「私は、あなた様の門を大きくすることができます」
門を大きくするとは、勢力を強めること。
つまり、あなたの地位を上げることができますよと子楚に告げたのです。
しかし、子楚は笑いながら
「まずは、あなたの門を自分で大きくするのが先で、私の門はそのあとで大きくしてもらおう」といいました。
すると、呂不韋は
「あなたはご存知でいらっしゃらない。私の門はあなた様の門のおかげで大きくなるのです」
呂不韋の真意を知った子楚は、呂不韋を奥座敷に招き入れ密談を始めました。
呂不韋の工作
呂不韋の分析は以下の通りです。
- 秦王は高齢で余命はそれほどなく、まもなく安国君が次の王として即位する
- 安国君は、自分の後継者をまだ決めていない
- 安国君が寵愛する華陽夫人には子がいない
- 華陽夫人を味方につけることができれば、子楚が安国君の後継者になることができる
呂不韋は千金の財産のうち、半分を子楚に与えます。呂不韋は、「この500金を使って、有名人との交際を広め評判を高めてください」と子楚に依頼しました。
呂不韋と子楚の仲が深まっていたころ、呂不韋の家を訪れた子楚は一人の女性に心を奪われます。彼女の名は趙姫。秦王政(始皇帝)の母親となる女性です。
趙姫は、もともと呂不韋の愛人でした。そんなことを知らない子楚は、呂不韋に趙姫が欲しいと頼みます。呂不韋は腹を立てましたが、これまでの投資が無駄になると思い、趙姫を子楚に譲ります。
ちなみに、この時すでに趙姫は身ごもっていました。それゆえ、始皇帝は呂不韋の子であるという話が出てくるのですね。
呂不韋自身は残りの500金で珍奇な財宝を買い、秦国に乗り込みます。呂不韋は、すぐに華陽夫人に接触しませんでした。彼が目を付けたのは華陽夫人の姉に接触します。
呂不韋は500金で買った財宝を華陽夫人の姉に全て献上すると、趙で人質となっている子楚が、日々、安国君や華陽夫人のことを「天」のようにあがめていると伝えました。
華陽夫人の姉は、すぐに華陽夫人にこのことを話します。誉め言葉は、直接聞くより、間接的に聞いた方が、効果があるものです。華陽夫人は非常に喜びました。印象を良くしたうえで、呂不韋は本題に入ります。華陽夫人の姉に「忠告」を与えたのです。
呂不韋曰く
『色を以って人に事える者は、色衰えれば愛弛む』
色、つまり容姿の美しさで王に仕えている人は、容姿の美しさが衰えると寵愛を失うという意味ですね。これは、華陽夫人が最も心配していることでした。
そして、呂不韋は続けます。
「あなた様(華陽夫人)がこれからも無事に過ごすためには、あなた様を慕っている人物を安国君の後継者に指名すればよい」と。そうすれば、安国君が亡くなっても華陽夫人の地位は安泰だと「助言」したのです。華陽夫人の姉はすぐさま華陽夫人のもとにいき、呂不韋の言葉を伝えました。
呂不韋の策は、将来を不安に思っている華陽夫人の心を捉えました。華陽夫人は安国君に、趙で人質になっている子楚を後継者とするよう進言。寵姫の言葉に、安国君は一も二もなく同意しました。
子楚を襲った大ピンチ!
着々と子楚を王位につける工作が進む中、子楚の命を危うくする事件が起きました。
紀元前257年、秦軍が趙の都邯鄲を包囲したのです。趙は人質である子楚を殺して見せしめにしようとしました。
呂不韋は子楚の命が危険にさらされていると判断。子楚を監視していた役人に賄賂を与えて、子楚をただちに邯鄲から脱出させます。
しかし、子楚の妻となった趙姫や趙姫の子(後の始皇帝)は脱出できません。趙姫らは邯鄲の町に潜伏します。最終的に、趙姫らは生き残ることができました。
子楚の即位
秦国に逃げ延びた子楚は、華陽夫人の引き立てもあり安国君の太子としての地位を固めます。昭王が亡くなると、安国君が即位(孝文王)し、華陽夫人が后となりました。翌年、孝文王が死去し、太子の子楚が即位します(荘襄王)。
子楚の即位を知った趙国は子楚の報復を恐れ、趙姫と子を丁重に秦に送り返しました。子楚は、かつて「お考え通りになった暁には、秦国はあなたと共有しましょう」と呂不韋に述べたといいます。
その言葉通り、荘襄王となった子楚は、呂不韋を首相にあたる宰相に取り立てます。呂不韋は先行投資した千金以上の利益を得ることができました。
呂不韋と呂布の違う?呂不韋の子孫とは?
呂不韋と呂布は同姓ですが、血のつながりがありません。呂不韋は韓や衛といった中原(中国文化の中心地である黄河流域)の出身です。彼の子孫と伝えられているのは『三国志』に登場する呂凱です。
呂凱は蜀の丞相である諸葛亮がおこなった南蛮遠征で道案内役として活躍した人物です。諸葛亮が南蛮を去った後、この地の統治を任されましたが、南蛮で発生した反乱で殺害されてしまいました。
一方、呂布は後漢末期の武将で『三国志』の前半に登場する英雄です。方天画戟という武器で縦横無尽に戦場を駆け回りました。現在の内モンゴル自治区にあたる并州です。呂不韋の子孫である呂凱を見出した諸葛亮より前の世代の人物でした。
まとめ
呂不韋は子楚を「奇貨」として見出し、多額の先行投資をつぎ込むことで秦の宰相にまで上り詰めました。
先行投資は単なる賭博ではありません。先を見据え、自分が予想する未来が実現する可能性を少しでも高めるべく行動しなければなりません。呂不韋は子楚を王とするために、たとえ愛人でさえも差し出しました。
丞相となった呂不韋は、諸国から人を集め『呂氏春秋』を編纂します。この編纂事業は、知識を集めるだけではなく人材を集めるのにもつながりました。ここでも、呂不韋は先行投資を実施しているのです。
しかし、呂不韋はどんなに功績を積み重ねても臣下です。優秀な人物が国王となり、呂不韋と対立した時、呂不韋は歴史の表舞台から去らなければなりませんでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました