「太原雪斎ってどんな人?」
「桶狭間の戦いのときはどうしていたの?」
この記事をご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。
今川義元が武田信玄、北条氏康と結んだ「甲相駿三国同盟」の立役者としても知られています。
太原雪斎は今川家の勢力拡大に力を尽くしましたが1555年に亡くなりました。
したがって、桶狭間の戦いのときはこの世にいません。
また、今川家で人質として幼少期を過ごした徳川家康の先生役を務めたという説もあります。
今回は今川家の軍師として今川家の最盛期を築き上げた太原雪斎の功績についてまとめます。
太原雪斎の生い立ち
庵原氏は駿河国の有力豪族で現在の静岡市清水区周辺を治めていた豪族です。
今川氏の譜代の重臣として仕えていました。
雪斎が生まれたのは1496年。
応仁の乱後、室町幕府の力が衰え全国各地で下剋上が起こり始めていた時期です。
雪斎は9歳のころに富士の善得寺に入寺しました。
建仁寺や妙心寺といった臨済宗の名刹で修業したのち、善得寺に戻ります。
当主氏輝の急死で動揺する今川家
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北条早雲によって擁立された今川氏親が1526年に死去すると、嫡男の氏輝が今川家を相続します。
家督相続時、氏輝は14歳だったため母の寿桂尼が後見人として氏輝を補佐しました。
氏輝が家督を継いでから10年後、氏輝は子供を残さないまま23歳の若さで亡くなります。
同日、弟の彦五郎も突然死を遂げました。
兄弟の同日の死は異例のことで、疫病、毒殺、暗殺などの疑念が持たれますね。
花倉の乱に勝利した義元が今川家を相続
氏輝と彦五郎の死によって、今川家の家督相続候補は二人に絞られます。
もう一人は、氏輝の異母弟で今川氏の重臣である福島氏の娘の子である玄広恵探でした。
氏輝を支え、実質的に今川家を動かしていた寿桂尼は雪斎と相談し、善得寺にいた栴岳承芳を後継者にしようとします。
これに真っ向から反対したのが福島氏の支援を受けた玄広恵探でした。
玄広恵探に味方する者たちは駿府の今川館を襲撃しましたが、守りが固く攻め落とせません。
逆に、義元方は玄広恵探派の城を次々と攻め落とします。
1536年6月10日、玄広恵探が立てこもった花倉城が陥落し、花倉の乱は終結。
今川義元が家督を相続し、太原雪斎が義元を補佐することになりました。
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今川家の軍師として活躍した太原雪斎
今川義元が家督を相続することで、太原雪斎は名実ともに今川家の軍師として活躍することになりました。
雪斎は、今川家に降りかかる様々な事態を冷静に処理。
今川家の力を強化することに専念します。
河東の乱を収め、北条氏から駿河東部を奪還
雪斎は今川氏親時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係を改善。
信虎の娘を義元の正室に迎えることで同盟関係を結びました。
今川家と武田家の同盟は、武田家と争っていた北条家との関係悪化を招きます。
1537年、相模を支配していた北条氏綱は富士川以東の地域である駿河東部(河東)に攻め込み、占領してしまいました。
北条氏綱は遠江の井伊氏(井伊直虎で有名になりましたね)などと手を結び、東西から今川家に圧力をかけます。
拙速な対応はまずいと考えた雪斎は北条家との直接対決を引き延ばしつつ、武田家や武蔵の扇谷上杉家などを動かし、北条家の挟み撃ちを狙います。
ところが、北条氏綱は扇谷上杉氏で当主が急死したチャンスを利用し、河越城を奪取。挟み撃ちを事実上、崩壊させてしまいました。
1545年、関東で反北条連合軍が結成され河越城が数万の大軍によって包囲されます。
今川義元は武田晴信とともに河東に攻め込み、北条方に圧力をかけました。
河東を今川家に返還することで和睦を成立させました。
後方の憂いを絶った北条氏康は河越城の戦いに全力で挑み、数倍の反北条連合軍を撃破しました。
三河攻めと小豆坂の戦い
西三河を治めていた松平広忠は今川義元に援軍を要請してきました。
雪斎は小豆坂の戦いで織田信秀に勝利し、織田家の三河浸透を食い止めました。
1549年、雪斎は三河安祥城を攻略し、織田信秀の庶子織田信広を捕まえます。
雪斎は信広と松平広忠の子で、本来は今川家に人質として差し出される予定だった竹千代(のちの徳川家康)の交換を信秀に持ちかけました。
その結果、信広と竹千代の人質交換が成立し、竹千代は駿府に送られます。
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雪斎の外交力のたまもの「甲相駿三国同盟」
河東の乱後、北条氏とは和睦が成立していましたが国境が不安定であることに変わりはありませんでした。
雪斎は同盟者の武田晴信、関係が微妙な北条氏康に今川・武田・北条三国の同盟を持ち掛けます。
この同盟は三者にとって大きなメリットがありました。
武田家は背後の北条・今川と手を結ぶことで信濃や越後での戦いに専念できます。
同様に、北条氏康は北関東や房総半島の反北条勢力との戦いを有利に進めることができます。
もちろん、今川家にとっても戦力を西に集中できるというメリットがありました。
今川・武田・北条の同盟は「甲相駿三国同盟」とも呼ばれ、戦国時代にもっともよく機能した同盟として知られます。
軍師としての太原雪斎の能力がいかんなく発揮された同盟でしたね。
太原雪斎の死と死因
今川家の軍師として政治・経済・外交で活躍する傍ら、太原雪斎は禅僧としても活動しています。
京都から高僧を招き今川氏の本拠である駿府に臨済寺を建てたのも禅僧としての活動の一環でした。
ありとあらゆる面で今川家の柱石として活躍した太原雪斎は1555年に駿河長慶寺で亡くなりました。
特に何かの事故に遭ったという記述はなく、老衰または病死と考えられます。
もし、雪斎の寿命があと10年伸びていたら桶狭間の戦いで義元が討ち取られることなく、今川家には全く別の将来があったかもしれません。
まとめ
今川家は太原雪斎の文字通りの大活躍で一気に飛躍することができました。
戦争や外交だけではなく、国内政治や宗教政策でも活躍した太原雪斎は戦国時代屈指の軍師といえるでしょう。
しかし、あまりに優秀な人物がいると、他の人材は育ちにくくなるのかもしれません。
武田家の歴史書『甲陽軍鑑』では山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と雪斎の力の大きさを強調。
人質だった徳川家康は「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評します。
偉大過ぎる人物がいると、皆、その人に頼ってしまうのかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。