このページを訪れた人は「国人とは何か」、「国人と守護大名、地侍などとの違いは?」といった疑問を持っているかもしれません。
国人とは、南北朝時代から戦国時代にかけて各地の村落を支配した領主のことです。
荘園領主のもとで土地を管理していた荘官や鎌倉時代に多く設置された地頭などから国人に成長することが多かったとされます。
今回は国人について、元予備校講師がわかりやすく解説します。
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国人の意味とは?
国人とは
その地に住み着いていた有力武士。
荘官・地頭などが地方に土着して領主層に成長したものが多い。
国人という言葉が用いられるようになったのは鎌倉時代のことです。
南北朝が激しく対立した14世紀中ごろ、ちょうど中央で観応の擾乱が起きたころには、国人は独自の社会勢力として認識されるようになりました。
国人たちは自分の館の周囲に自分の土地を集め、一円的な支配を強めます。
鎌倉時代から室町時代にかけて商業が発達すると、国人の中には交通や流通の拠点に自分の館を構え、定期市や手工業者を支配する者も現れました。
国人は周辺の国人たちと手を組み国人一揆を結成、守護大名の支配に抵抗します。
その後、下剋上などにより戦国大名が成立すると戦国大名に抵抗しつつも徐々に戦国大名の家臣にされていきました。
なかには毛利氏のように国人から戦国大名に成長する者も現れます。
室町時代の国人
国人の成長と国人一揆
そもそも、国人の歴史をさかのぼると鎌倉時代にたどり着きます。
鎌倉時代、各地方には荘園領主を支配する荘官や鎌倉幕府の御家人として各地の荘園で権利を認められていた地頭などがいました。
彼らは徐々に土地に対する支配力を強め、各地を実力でおさめるようになります。
そのため、室町時代以降は国人、あるいは国人領主と呼ばれることが多くなりました。
国人たちは黒人相互の紛争解決や農民の支配、守護大名からの圧力への抵抗などをするため、国人同士で武力連合を組むようになります。
これを、国人一揆といいました。
国人一揆の中には互いが対等であることを示す傘(からかさ)連判状を交わして同盟関係を確認するものもありました。
国人と守護大名の関係
室町時代に入り大きく成長したのが守護です。
鎌倉時代の守護と異なり室町時代の守護は国に対する支配力が強く、国人や地侍、有力農民などから税を取り立てました。
また、守護大名は守護代などを通じて国人領主を家臣にしようとします。
国人からすれば、守護大名の支配下に入れば、税を納め軍役をつとめなければいけません。
これに反発する国人たちは国人一揆を結んで守護の支配に抵抗したわけです。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、足利義満の登場までの流れをつかむことができます。
その流れをつかめると、守護大名をより深く理解できるでしょう。
国人と地侍の違いとは?
では、同じように武力を持っていた国人と地侍とはどのように違うのでしょうか。
一番の違いは出自です。
荘官や地頭の系譜を継ぎ、代々支配者側にいたのが「国人」です。
それに対し、有力農民が武装し室町時代の村落である「惣」の一員でありながら武力で地域を支配していたのが地侍です。
農民に過ぎなかった地侍たちは惣の力を背景に、守護大名と主従関係を結びます。やがて、地侍たちは一致団結して土一揆を起こし、守護大名などの支配勢力に反抗しました。
正長の土一揆がもっとも有名です。
やがて、国人と地侍は手を組んで守護大名に対抗するようになります。
播磨の土一揆や山城国一揆では国人と地侍が協調して守護大名に対抗しました。
戦国時代の国人
国人と戦国大名の関係
それによって地方では戦国大名による支配が進みました。
戦国大名は守護大名から戦国大名に成長したものや守護代から戦国大名になったもの、国人から戦国大名になりあがったものに大別されます。
戦国大名たちは分国法を制定して国内の国人や地侍をコントロールしようとしました。
戦国大名の力が強まると、徐々に国人や地侍の力は弱まり戦国大名の家臣となっていきます。
分国法で国を治めた大名の一つが朝倉氏です。
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下剋上で戦国大名に成長した国人
国人から戦国大名に成長した代表例は中国地方の毛利氏でしょう。
厳島の戦いで勝利することで元就は安芸国(広島県)だけではなく、周防・長門(山口県)や石見(島根県西部)を支配する大大名となります。
毛利氏について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
四国では土佐の長宗我部氏が勢力を拡大します。
土佐国は代々細川氏が守護をつとめていましたが、応仁の乱以降、室町幕府の力が衰えると徐々に長宗我部氏のちからが増大します。
そして、下剋上によって土佐一国、長宗我部元親の代には四国全土を制圧する守護大名となりました。
他にも後に天下を統一する三河の松平氏も国人由来の戦国大名です。
松平氏について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
寄親・寄子制とは?
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戦国大名は家臣たちをコントロールするため、戦国大名を頂点とするピラミッド型の組織を作り上げました。
この仕組みを寄親・寄子制といいます。
まず、戦国大名は自分が直接指示を出す上級家臣(おおむね、国人たち)を寄親とします。
そして、国人たちの下に地侍たちを寄子として配置しました。
戦時には、寄親は寄子を動員し一部隊を形成して戦国大名の指示に従いました。
こうして、国人たちは戦国大名の支配に組み込まれます。
歴史の大きな流れをつかむにはマンガがとてもよいです。
室町幕府の衰退と戦国大名の成長にいたる流れをつかみやすいので是非読んでください!
まとめ
国人とは鎌倉時代以前に荘官や地頭だった者たちが各地で土着したもののことです。
国人たちは自らの利益を守るため国人一揆を形成し守護大名や戦国大名の支配に抵抗しました。
地侍は国人よりも中小の在地領主で、有力農民が武装化した下級武士と考えられます。
戦国大名の支配が強まると、国人は上級家臣である寄親に、地侍は国人たちの下につく下級武士の寄子に編成され、戦国大名の支配に組み込まれました。
「国人って何?」、「国人と守護大名、戦国大名、地侍の違いは?」といった疑問に少しでも答えられたらいいなと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。