「日本の土地制度はどんなふうに移り変わった?」
「公地公民って何?」
「荘園とは?」
「太閤検地のポイントは?」
「地租改正とは?」
このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。
日本では公地公民制度が出来上がって以後、荘園制度、太閤検地(一地一作人の原則)、地租改正と時代に合わせて土地制度が移り変わりました。
今回は日本の歴史に大きな影響を与えた公地公民や荘園、太閤検地、地租改正の重要ポイントについてわかりやすくまとめます。
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- 土地と人民は天皇のもの!公地公民
- 「脱税」から生まれた荘園
- 平安時代後期に現れた武士は、自分の土地を守ることに命を懸けた
- 豊臣秀吉による太閤検地で、土地所有関係がスッキリ!
- 現金収入を得るため、地租改正を実行
- 寄生地主制を解体した戦後の農地改革
土地と人民は天皇のもの!公地公民
昔々、日本は有力な豪族たちがゆる~い連合をつくって国を治めていました。その連合のことを「ヤマト政権」といいます。
ヤマト政権は、大王を中心に豪族たちが寄り集まって政治を行いました。
ヤマト政権のトップである大王(おおきみ)は、一番偉いとされていましたが、豪族たちの土地から勝手に税をとることはできません。
聖徳太子や中大兄皇子は、中国(隋や唐)の制度である律令を取り入れ、国がすべての土地と人民を支配する仕組みを目指します。
この仕組みを、公地公民といいました。
公地公民は戸籍の編成とセットで行われます。戸籍にもとづき、政府は人々に口分田を与えました。そのかわりに税を徴収しようとしたのです。
人民の居場所をつかみ、土地の所有者や納税者を決め、全国各地から税を集めようという試みですね。
公地公民や律令の仕組みを強力に推し進めたのは天智天皇や天武天皇です。
天智天皇は、天皇になる前、中大兄皇子と名乗っていたころに、乙巳の変で蘇我氏を排除しました。
天武天皇は、古代史上最大の内乱である壬申の乱に勝利。強力なリーダーシップで律令の制定と公地公民制を推し進めます。
701年、大宝律令が出来上がることで、公地公民は完成しました。
「脱税」から生まれた荘園
天智天皇や天武天皇が苦労して作り上げた公地公民は、奈良時代の中頃に早くも崩れ始めました。
公地公民で土地に縛り付けられた人民は、重い税金を嫌って、あらゆる手段で「脱税」を試みます。
たとえば、僧侶が非課税だったことを利用し、勝手に僧侶になる私度僧。
あるいは、女性の税負担が軽いことに目を付けた、戸籍の偽り(偽籍)。
または、土地を捨てて行方不明になる逃亡。
国よりも税負担が少ない貴族や寺院の土地に逃げ込む浮浪など、さまざまな脱税が試みられました。
脱税の横行により、税収が減った政府は、土地制度の改正を迫られました。
743年、政府は墾田永年私財法を出します。
公地公民で、「すべての土地は天皇のモノ」と定めたのを改め、貴族や寺院、一般人が土地を私有することを認めました。
墾田永年私財法は、資金力がある貴族や寺院に有利です。彼らは、競って各地を私有地(荘園)にしていきました。
平安時代になると、脱税は本格化します。
上級貴族ほど、免税しやすいという仕組みを利用し、自分の土地を上級貴族の所有地にしてしまうものが現れました。
といっても、土地を上級貴族にプレゼントするわけではありません。名前だけ借りて、本当の土地の所有者は荘園の管理者(荘管)となりが土地を支配しました。
日本全国の土地は、貴族や寺社の私有地である荘園と国司の管轄する公領に分けられます、(荘園公領制)
こうして、土地の制度はどんどん複雑に、ややこしくなっていきます。
平安時代後期に現れた武士は、自分の土地を守ることに命を懸けた
平安時代の後半、上級貴族たちは地方政治に関心を示さなくなりました。彼らにとって、地方は自分たちに富をもたらす、いわばATMのようなものです。
収入は欲しいですが、地方で発生するトラブルなどには対処したくありません。
そこで、国司(今でいう県知事)として赴任する中下級貴族に地方政治を任せてしまい、自分たちは収入だけを受け取る仕組みを考えました。
そうなると、困るのは地方に住む人々。
国司になった中下級貴族は、上級貴族にお金を渡すことで地位を得ていたため、元を取るために地方に重税を課すこともあったからです。
地方の統治が乱れ、強盗などが出現するようになると、地方の有力者は自分の土地や財産を守るために武装するようになりました。
これが、武士の始まりだといわれます。
武士たちは、自分の土地を文字通り命がけで守りました。だから、一所懸命という言葉が生まれます。
最初は社会的地位が低かった武士ですが、鎌倉幕府ができると地位が一気に向上。地頭や守護になって、貴族や寺社が持っていた荘園を侵略します。
これにより、ただでさえややこしくなっていた土地所有の関係は、めちゃくちゃになってしまいました。
豊臣秀吉による太閤検地で、土地所有関係がスッキリ!
織田信長の家臣として出世し、明智光秀を討伐することで天下人となったのが豊臣秀吉でした。
秀吉は、自分の家臣の中で計算に強い石田三成らに、日本全国の土地を測量するよう命じます。
秀吉の目的は、土地の所有者をはっきりさせることで、誰が税金を払うべきなのかを明確にすることでした。
三成らは全国各地の土地を綿密に調査(検地)。誰が、どの畑を現在耕しているかなどを割り出しました。
その上で、秀吉は過去の複雑な権利関係は考慮せず、今耕しているものが、その土地の所有者であり、土地の所有者が税を払うと取り決めます。
太閤検地によって成立した一地一作人の原則は、土地に絡む様々なトラブルを強引に解決してしまいました。
もちろん、太閤検地に反対する一揆は各地で起きましたが、秀吉は武力で鎮圧します。
江戸時代に入り、幕府や藩が全国を支配するようになっても、基本的には秀吉がつくったシステムを利用して土地や農民を支配しました。
現金収入を得るため、地租改正を実行
江戸時代末期、薩摩・長州などを中心とする新政府が、戊辰戦争で旧幕府勢力に勝利しました。
新政府が行ったいろいろな改革をひっくるめて、「明治維新」といいます。
明治政府には大きな悩みがありました。それは、現金収入が少ないこと。
江戸時代まで、経済の中心は米だったので、幕府も藩も農民から取り立てるのは米をはじめとする農作物でした。
しかし、外国から技術を導入し、新しい機会を買うには外国人も受け取ってくれる「お金(金や銀)」が必要となります。
困った明治政府は、土地制度や税金の制度を変えることで現金収入を得ようとしました。それが、地租改正です。
土地の所有者を確定し、その人に税を払わせるというのは公地公民や太閤検地と同じでした。
違っているのは、土地の値段を決定(地価)し、地価の3%を現金で国に納めるとしたことです。
農民たちは農作物を販売し、現金を得て、それを納税しなければならなくなりました。
農作物が高く売れるときはいいのですが、不景気などで農作物の値段が下がると地租を払うのが大変になります。
中には、地租を払えなくなり、土地を他人に売って都市に出る人も現れました。
明治時代後半から昭和の初期にかけて、地方の土地は大地主によって買い占められます。
大地主は、土地のもとの所有者や新しく雇った農民を小作人として使い、自分が働かなくても収入を得られる仕組みを作ります。
これを「寄生地主制」とよびます。
寄生地主制を解体した戦後の農地改革
第二次世界大戦で日本が敗れると、マッカーサーをトップとするGHQ(連合国軍総司令部)が日本政府に命令を出す間接統治が始まりました。
GHQは、寄生地主などの古い仕組みが日本を戦争に導いたと考えます。そのため、農地改革を実行し、寄生地主から半強制的に土地をとりあげました。
とりあげた土地は小作人らに安く売り渡します。なので、近年まで、日本の農家は規模が小さい家族中心の農業となったのですね。
いま、かつての農民のように税を負担しているのはサラリーマン。
戦後、日本は高度経済成長を経て、工業や商業が中心の国になりました。かつては、人口の8割以上を占めていた農民は、今では数%にすぎません。
政府は、圧倒的多数になったサラリーマンから、所得税などを取る仕組みを作りました。
政府がサラリーマンから確実に税をとるために作った仕組み、それが、源泉徴収です。給料を支払う前に、会社から税金分を天引きするやり方のこと。
源泉徴収を使うことで、政府はサラリーマンから効率よく税をとることができます。
いつの時代も、政府は税をとるということに対し知恵を絞ってきました。いずれ、フリーランスなどからも効率よく徴税できる方法を編み出すかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。