「"三方よし"ってどう読むの?」
「"三方よし"の意味ってなに?」
このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。
「三方よし」は、「さんぼうよし」、「さんぽうよし」と読みます。
ここでいう「三方」とは、「買い手」「売り手」「世間」のことで、「三方よし」とは、買い手も売り手も世間も認めてくれる商売という意味になります。
「三方よし」は「近江商人」の商売哲学として知られていますね。
もともと、昭和以後に作られた造語だそうですが、近江商人の商売のやり方を適切に表しているので広く用いられるようになりました。
大阪難波創業で東京日本橋にも店舗を持つ老舗百貨店の「髙島屋」
国内きっての寝具メーカーとして知られる「西川」。
これらの企業の共通点は近江商人発祥だということです。
江戸時代、伊勢商人と並んで全国的に活躍した近江商人とはどのような人々だったのでしょうか。
今回は、
「三方よし」とは何か?
「ビジネス哲学、現代に生きる近江商人系の企業とは?」
といったことについてまとめます。
「三方よし」とは?
「三方よし」の意味
「三方」とは、買い手、売り手、世間のこと。
売り手も買い手も、直接商売にかかわらない世間(地域社会)も自分の商売で利益を得るのが大事だという考え方ですね。
ただ、この「三方よし」という言葉は江戸時代の文献には現れません。
後世の人が、近江商人の商売哲学をわかりやすく説明するために使った造語です。
「三方よし」の具体例
「買い手よし」の例
買い手は今の言葉に置き換えると消費者です。
消費者にとっての利益とは、価格が安いことだけではありません。
消費者がその商品で満足感を得られているかが大事です。
現在、そういった視点を「顧客満足度」といいますね。
ロングセラー商品は、顧客満足度が高いからこそ販売し続けられるのではないでしょうか。
「三ツ矢サイダー」や「トマトケチャップ」(カゴメ)、森永ミルクキャラメルなど100年以上にわたって愛されたロングセラー商品です。
消費者が「買ってよかった!」と思うのが、「買い手よし」だといえるでしょう。
「売り手よし」の例
売り手は「生産者」と置き換えることができます。
売り手にとって自分が作った商品が高く売れるのはとてもありがたいことです。
しかし、高く売れることだけが生産者の満足ではありません。
例えば、いちごを生産している農家が生産物を直接消費者に販売し、消費者から「頼子美の声」を受け取ることができた時、生産者は今まで以上にやる気になるでしょう。
飲食店の店主が、お客さんから「美味しかった」といわれたら、やはりうれしいのではないでしょうか。
こうした、お客からの「反響」は生産者の意欲を高めることが多いと思います。
生産者が「この仕事をしていてよかった!」と思うことが、「売り手よし」ではないでしょうか。
「世間よし」の例
世間とは、広い意味では世の中全体をさす言葉です。
ここでは、商いを行っている地域と考えてみましょう。
近江商人たちは持ち前の商才と勤勉さによって富を築きました。
しかし、その富を独占したわけではありません。
たとえば、江戸時代の近江商人たちはしばしば資金や米を供出して貧民を救います。
明治時代の近江商人たちは地元の滋賀県にお金を出して商業高校を設立させました。
今でいう「企業の社会貢献」をおこないます。
商売で得た利益を地域に還元することで「世間」を潤す。
これが「世間よし」ではないでしょうか。
近江商人とは
近江商人とは、中世から近代にかけて活躍した近江国(現在の滋賀県)出身の商人たちのこと。
通常は、近江国から出て他国で商売をした商人たちのことをさします。
江戸時代には大坂商人や伊勢商人とともに日本全国を股にかけて活躍していました。
近江商人が生まれた近江国や近江商人のルーツについて探っていきましょう。
近江国の重要性
近江国は琵琶湖を中心にして広がる地域。
琵琶湖は物流の大動脈であり、琵琶湖から出る淀川は京都や大坂に通じます。
交通の要衝であったことから、古くから商業が栄えました。
近江国は律令国家の時代から北陸地域と京都を結ぶ重要な地域です。
日本海と京・大坂を結ぶ最短距離として琵琶湖は重要でした。
この地の水運に目を付け、全国制覇の拠点である安土城を築いたのが織田信長です。
信長は近江の北半分を長浜城主の羽柴秀吉に、南半分を坂本城主の明智光秀に守らせました。
信長としては、自分の配下の武将でもトップクラスの人物に近江の支配を委ねたかったのでしょうね。
信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が京都や大坂に本拠地を移しても物流の中心である近江国の重要性は変わりません。
近江商人の発祥と繁栄
江戸時代、近江商人は全国各地で商売を行いました。
近江商人の出身地・発祥の地は主に4つ。
一つは京都や東北地方で活躍した高島商人。
特に南部藩との結びつきが強い人々でした。
二つ目は八幡商人。
秀吉の甥で近江支配を委ねられた羽柴秀次の居城となった八幡山城周辺の商人たちです。
彼らはもともと信長の安土城下に住んでいましたが、秀次によって近江八幡に移されました。
八幡商人は北海道開拓で活躍します。
三つ目は日野商人。
もともとは日野城主蒲生氏と結びつきが近い商人たちでしたが、蒲生氏が他国に移され一時的に衰退。
他国での商売に活路を見出します。
日野商人は特産品の日野碗や薬など行商で成功。特に関東や東北位に進出しました。
最後は湖東商人。江戸時代に近江東部を治めた譜代大名、彦根藩井伊氏と結びつきの深い商人です。
彦根藩が規制緩和を実施したことで農民たちが行商しやすくなり、全国に活動を広めました。
近江商人のビジネス哲学
しかし、近江商人の中には時代の変化に対応し生き延びるもの者もいました。
彼らが生き延びたのはなぜでしょうか。
「三方よし」以外のビジネス哲学についてまとめます。
「先義後利栄」の考え方
商売をするうえで、利益を上げることはとても大事なことです。
利益があるからこそ、次の事業を行うことも、事業を拡大することも、人を雇い給料を払うこともできるからです。
しかし、最初から利益を最優先して商売しすぎれば、あこぎな商人だとみなされ「世間」の信用を失いかねません。
世間に対する「義理」をしっかり果たすことで、利益は後からちゃんとついてくると近江商人たちは考えました。
現代でも、利益を最優先するあまり不正行為に走る企業は後を絶ちません。
そういった不祥事は明るみに出た時、世間の信用を大きく損ないます。
そうなれば、事業の継続どころではありません。
商道徳を守り、人々の信用を得てこそ利益は後からついてくるのです。
しまつして、きばる
利益を上げることと同じくらい大事なことは、無駄な出費を減らすことです。
「しまつ」とは始末のこと、モノを無駄にせず大事に使うことを意味しますね。
長く使うためには「良いもの」を買う必要があります。
近江商人たちは「安物買いの銭失い」をしないため、良い品物を買い、長く使うことで元を取りました。
このことから近江商人たちは「ケチ」だといわれがちです。
しかし、ケチは他人からモノを奪わず、自らの裁量で資金をためる最良の手段です。
安物を買い込み、たいして使わずに捨ててしまうよりは、良いものを長く使うべきだという考えは、古今東西を通じて成功者によくみられる発想ですよ。
「きばる」というのは気張る、本気で取り組むということです。
商売に対して本気で取り組むことで利益を上げることを意味します。
つまり、しまつして、きばる というのは節約して無駄な出費を減らしつつ利益を最大化することであり、現在の企業運営でも当たり前に必要な考え方ではないでしょうか。
近江商人の系譜を継ぐ現代企業
幕末から明治の激動時代。
近江商人たちも時代に波にさらされます。
近江商人といえども、時代に適応できなかったものは商売の世界から去らなければいけません。
しかし、いくつかの企業は時代の変化に対応し、二つの世界大戦も乗り越えて現在まで存続しています。
伊藤忠商事と丸紅
現在、大手商社7つは7大商社とよばれ、就職人気ランキングでも上位に位置しています。
7つのうち、伊藤忠商事と丸紅のルーツとなったのが近江商人伊藤忠兵衛でした。
1858年、忠兵衛は兄の長兵衛とともに事業を開始します。
弟の伊藤忠兵衛は「紅忠」を、兄の長兵衛は「伊藤長兵衛商店」を開き、現在の丸紅や伊藤忠の土台を築きました。
大建産業となりました。
しかし、第二次世界大戦後、財閥解体により伊藤忠と丸紅は再分割されます。
伊藤忠も丸紅も総合商社とよばれますが、商社とはそもそもどのような会社なのでしょうか。
簡単に言えば、業種の垣根を越えて幅広い分野で輸出入の貿易を行い、国内外で物資の販売やインフラ建設をおこなう総合企業といった感じでしょうか。
この「何でもあり」の事業システムは日本に独特のものです。
髙島屋
髙島屋は1831年、京都で創業しました。
創業者の飯田新七は岐阜の飯田儀兵衛の出身地である近江国高島郡から店名をとり「髙島屋」と屋号を決めます。
昭和7年には現在の髙島屋本店がある難波の南海ビルディングを竣工させます。
髙島屋は大丸や松坂屋がつくるJ・フロントリテイリングや三越伊勢丹HD、阪急阪神百貨店などの系列とは一線を画す独立系の百貨店として日本3位の売り上げを誇っています。
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西川
西川の創業は戦国時代の1566年。
蚊帳の販売を西川仁右衛門が始めたことに由来します。
豊臣秀次が八幡山城を築城した際、西川家も八幡に移住しました。
蚊帳問屋として事業を拡大します。
1876年に大阪店、1887年に京・大阪店で布団販売を開始するなど、現代につながる事業を始めました。
1941年、京都の本店は京都西川に、大阪店は大阪西川として分割。
1945年に東京日本橋の店を株式会社西川としました。
2018年、西川産業、京都西川、西川リビング株式会社の「西川グループ」は西川株式会社に社名変更し統合されました。
西川は今でも寝具などのトップメーカーとして存在感があります。
トップページに行くと、様々な種類の商品が紹介されていますが、やっぱり一押しは羽毛布団。
自社で一貫生産しているので、高い品質の羽毛を使うことが可能。
それだけに、使い心地抜群で、ついついリピーターになってしまいました。
寝具についてお考えの方は、ぜひホームページを見てください。
近江商人の精神は現在でも生かせる
近江商人のビジネス哲学は単に商売で成功するためのノウハウというだけではありません。
世間を意識することやモノを使い捨てにせず大事に使うことなどは現代でも重要です。
特に、環境問題がクローズアップされがちな現代において、持続可能な社会を実現するためにもモノを大事に使うことはとても大事ですね。
その意味で、近江商人の精神は今でも通用するといってよいのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。