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経済発展と独立の間で揺れ動く台湾の歴史と台湾総統選挙について元予備校講師が解説

こんにちは。木彫りグマです。

 

先日、台湾で国のリーダーを決める総統選挙が実施されました。台湾総統選挙の投票率は74.9%。前回選挙を8.63ポイント上回る投票率となります。

 

選挙結果は、民進党蔡英文候補が国民党の韓国瑜に大差をつけて圧勝。その背景には、急速に存在感を増す中国に対する恐れと、若者達の「台湾人」意識がありました。

 

今回の選挙結果の背後にある、近現代の台湾の歴史と台湾総統選挙について解説します。

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日本による台湾統治

日清戦争の勝利により台湾を獲得した日本は、台湾総督府を設置。台湾総督府は日本の支配に反対する人々を武力で鎮圧したのち、日本の植民地として台湾開発を行います。

 

台湾開発の中核を担う金融機関として台湾銀行を創設。台北帝国大学を設置して、高等教育の充実を図りました。

 

植民地時代の台湾では、樟脳や砂糖、コメの生産が奨励されます。これら台湾産の品物は日本本土に運ばれ消費されました。

 

第二次世界大戦中は、台湾総督府による皇民化政策が行われ、日本語教育などが実施されます。

   

蒋介石蒋経国による独裁政権

1945年8月、日本のポツダム宣言受諾により第二次世界大戦終結します。中国本土では、国民党と共産党による第二次国共内戦がはじまりました。

 

中国共産党との戦いに敗れた国民党の蒋介石は台湾へと逃れます。蒋介石と国民政府は日本が放棄した台湾を制圧。国民党による独裁政治を行いました。

 

台湾では、蒋介石とともに中国本土からやってきた外省人と、もともと台湾に居住していた本省人が対立します。

 

第二次国共内戦

日中戦争の時は、抗日民族統一戦線を結成し協力していた国民党と共産党は、日本軍の撤退と同時に対立関係に戻ります。

 

1946年1月、第二次国共内戦が始まりました。開戦当初、共産党軍の三倍近い兵力を持つ国民党軍優勢とみられていました。しかし、共産党軍はソ連の支援を受けつつ徐々に劣勢を覆します。とくに、遼瀋戦役、淮海戦役、平津戦役の三大戦役で共産党が勝利したことにより、国民党は敗北へ道を転がり続けました。

 

毛沢東は1949年に中華人民共和国の建国を宣言。国共内戦共産党の勝利に終わります。大陸での足場を失った蒋介石は、日本が放棄し中華民国が接収していた台湾に逃れました。

 

蒋介石による台湾制圧と独裁政治のはじまり

日本が放棄した台湾に乗り込んだ国民党軍は、1947年2月28日に起きた抗議デモを武力で鎮圧します。1949年、本土での戦いに敗れた蒋介石台北に到着。台北中華民国臨時首都と定めました。

 

アメリカのトルーマン政権は、蒋介石への支援を打ち切り、アメリカが防衛すべき地域からはずします。しかし、アメリカ国内からトルーマン政権が無策だったから、中国が共産化したのだという強い批判が出ました。

 

1950年、朝鮮戦争が始まると、アメリカは態度を一変。台湾海峡アメリ第7艦隊を派遣し、台湾をアメリカが防衛する意思を示しました。

 

台湾に君臨した蒋介石は、反対する人々を弾圧する独裁政治を行います。蒋介石は台湾に戒厳令を布告。反対運動を徹底的に取り締まりました。

 

外省人本省人の対立

台湾では、蒋介石とともに中国本土から入ってきた外省人と、それ以前から台湾に住む本省人との間で軋轢が生まれました。国民政府の主要な役職は外省人によって占められたからです。

 

外省人本省人の対立がピークに達したのが1947年2月28日の二・二八事件でした。本省人として始めて総統の座に就いた李登輝以後、外省人本省人の対立が表面化することはほとんどなくなりました。

 

米中国交正常化と台湾の改革

1970年代、ニクソン政権が中国と接近すると、台湾は国際連合から追放されてしまいました。その後、米中国交正常化が成立した影響で、アメリカは台湾と断交します。

 

1988年、はじめて台湾出身の本省人として総統の地位に就いた李登輝は様々な改革を行い、総統職を公選で選ぶこととしました。

 

その一方、中国は「一つの中国」の原則を掲げ、台湾独立を断固として認めない姿勢を示します。

 

ニクソン訪中と米中国交正常化

1971年、アメリカのニクソン大統領はキッシンジャーをひそかに中国に派遣。関係改善を図っていました。ベトナム戦争終結させるためには、中国との関係改善が必要と考えたからです。

 

1972年、ニクソン大統領は中国を訪問し毛沢東と会談。米中共同宣言を発表しました。宣言では、アメリカと中国の敵対関係終了や「中国は一つで、台湾は中国の一部」という中国側の主張をアメリカが認識することなどが発表されます。

 

アメリカと中国の関係正常化交渉はその後も継続。1979年、鄧小平とカーター大統領は米中国交正常化を実現させました。これにより、台湾の中華民国国際連合での代表権を失い、国際連合から追放されました。

 

李登輝の改革と台湾総統の公選制

1988年、国民党総統の蒋経国が死去したことに伴い、副総統だった李登輝台湾総統に就任しました。本省人として初めて総統となります。李登輝共産党による大陸支配を認め、内戦状態の終結を宣言しました。

 

さらに、蒋介石と共に台湾にやってきた終身議員たちを辞職させ、国民大会議員選挙を実施します。その結果、本省人が議会の70%を占めるようになりました。

 

また、李登輝は台湾の経済発展にも力を尽くします。その結果、台湾はNIEsの一国として飛躍的に成長することができました。

 

李登輝台湾総統を選挙で選ぶよう制度を変更。1996年の総統選で勝利しました。2000年、李登輝の引退に伴って実施された台湾総統選挙では野党民進党陳水扁が当選。台湾初の政権交代が実現します。

   

台湾総統選挙

公選制となった台湾総統選挙は過去6回実施されています。今までは、国民党の3勝、民進党の3勝でした。総統職は規定により2期8年までと決められています。過去に行われた台湾総統選挙についてまとめてみましょう。

 

2000年、2004年の台湾総統選挙

李登輝の引退に伴って実施された2000年の台湾総統選挙では、元台北市長で民進党の候補である陳水扁と国民党の連戦が争いました。

 

この時、国民党は連戦で一本化できず、分裂選挙となってしまいます。選挙結果は陳水扁の勝利でした。

 

国民党にかわって政権を担当した陳水扁でしたが、民進党関係者の政治経験の少なさから政権運営に苦労します。

 

2004年、陳水扁は再び国民党の連戦と総統の座を争いました。投票日の前日、陳水扁と副総統候補だった呂秀蓮台南市でパレード中に銃撃される事件が発生。この事件の影響もあってか、陳水扁が総統に再任されました。

 

2008年、2012年の年台湾総統選挙

2008年の総統選挙は、民進党謝長廷と国民党の馬英九の争いとなりました。台湾の独自性を訴えた謝長廷に対し、馬英九は中国との関係を強化し経済発展を目指すべきだと主張します。

 

選挙結果は馬英九の勝利。国民党は選挙で政権を奪還します。2012年の台湾総統選挙でも、馬英九は勝利しました。

 

その結果、中国からの観光客は増大。台湾から中国への輸出も増え、経済的に発展します。ちなみに、現総統の蔡英文は2012年の選挙で馬英九に敗れていますね。

 

2016年の台湾総統選挙

2016年の総統選挙は、民進党蔡英文と国民党の朱立倫の争いとなりました。国民党は最初に候補者としていた洪秀柱が大陸との統一をめぐる発言で任期が急落。急遽、候補者を朱立倫に変更しています。

 

こうしたドタバタがあったせいか、選挙戦は蔡英文の優位に進みました。選挙結果は得票率56%以上を獲得した蔡英文の勝利となり、再び、政権が交替します。

 

2020年総統選挙に大きな影響を及ぼした香港の動き

2019年3月から、香港では大規模なデモが継続して行われています。デモがこれだけ長期間続いている理由は何でしょうか。

 

デモが発生するきっかけとなったのは逃亡犯条例の改正です。この改正により、香港と中国本土で犯罪人の受け渡しが可能となりました。しかし、香港市民が中国本土に送られる危険があると考えた人々は、逃亡犯条例の改正に反対。大規模なデモを連日実施します。

 

2019年11月、デモ隊と警察の衝突で複数の死者が出ました。また、警察は大学などに進入し、でも関係者を強制的に排除していきます。

 

2019年11月24日の香港区議会議員選挙では、民主派が躍進します。こうした報道は台湾でも連日のように報道されます。

 

蔡英文は、台湾の主権を守ることを総統選挙で前面に掲げました。香港のようにしてはならないと考えた若い世代は蔡英文を支持。その結果が、蔡英文の歴史的勝利につながったのではないでしょうか。

 

今後も、台湾や香港、中国の動静から目が離せませんね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

   

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