「『堤中納言物語』ってどんな話?」
「『堤中納言物語』の有名な話とは?」
「『堤中納言物語』の登場人物やあらすじが知りたい!」
「主人公の姫君はどんな人?」
このページをご覧の皆さんはそんなことをお考えかもしれません。
『堤中納言物語』は平安時代後期から鎌倉時代初期に出来上がったと考えられる短編集です。
「堤中納言」という人物が主人公の物語ではありません。
『堤中納言物語』には全部で10の短編が収められています。
中でも、「花桜折る少将」や「虫めづる姫君」はよく知られた物語かもしれません。
今回は『堤中納言物語』がどのような物語か、「花桜折る少将」、「虫めづる姫君」の登場人物やあらすじ、姫君のキャラクターなどについてまとめます。
なお、平安時代について関心がある方はこちらの記事もどうぞ
『堤中納言物語』とは
『堤中納言物語』は、平安時代後期から鎌倉時代初期に編纂された短編物語集です。
作者・編者ともにはっきりとしたことはわかっていません。
どの話も起承転結がはっきりしていて、山場や「オチ」を理解することが作品を味わううえでのコツとなります。
物語は全部で10編です。
「花桜折る中将」
「はいずみ」
「花桜折る少将」
「蟲愛づる姫君」
「逢坂越えぬ権中納言」
「このついで」
「よしなしごと」
「はなだの女ご」
「ほどほどの懸想」
「貝合はせ」
「思はぬ方にとまりする少将」
「逢坂越えぬ権中納言」は1055年に成立した作品であることはわかっています。
しかし、他の9編については作者未詳で、時代設定もよくわかっていません。
10編の物語中に堤中納言という人物が登場しないという点でも、謎めいた短編物語集といえるでしょう。
現存する写本は全て江戸時代の物ですので、本来のものはそれ以前に失われた可能性もあります。
「花桜折る中将」
「花桜折る中将」の登場人物
中将(少将)
花桜折る中将の主人公である貴族。
この時代、少将や中将は青年貴族がよく就任する官職でした。
この当時の王朝文学に登場する貴公子らしく、恋多き男性です。
物語の冒頭、彼は通りかかった屋敷の桜を見て以前付き合った女性のことを思い出します。
なかなかのプレイボーイですが、勢いで突っ走るところがあり、それが失敗に繋がります。
光季(光遠)
文中に出てくる人名ですが、文脈からは部下とも仲間とも読み取れます。
中将が一目ぼれした姫君の従者である女童と仲が良く、彼を手引きする役割を担います。
源中将と兵衛の佐
中将の同輩たちであり、遊び相手といってもよい青年貴族たちです。
もしかしたらどちらかが光季と同一人物かもしれませんが、主語が省略されがちな古典文学ゆえ、断定はできません。
姫君(故源中納言のむすめ)
中将が一目ぼれした屋敷の主。
後日、中将は光季から源中納言のむすめで、後見人である叔父の計らいで宮中に入内する予定だと聞きます。
これを知った中将は、強引にでも姫君を手に入れようと行動します。
女童
姫君の従者であり、光季と仲が良い女性です。
童とついていることから、少女と考えるのが自然でしょう。
すぐにでも会いたいという中将の気持ちを光季から聞き、姫君も悪く思っていないというようなことを言って中将たちをその気にさせてしまいます。
(姫君の)祖母
あるいみ、最もとばっちりを受ける女性です。
中将が姫君と間違えて屋敷の外に連れ出してしまいます。
「花桜折る中将」のあらすじ
ある夜のこと、中将が夜道を歩いていると立派な屋敷を見つけます。
少し荒れ果てたその屋敷の中にとても美しい姫君がいました。
中将は彼女に一目ぼれしてしまいます。
中将は光季から、その女性が亡くなった源中納言の娘であることや、彼女の叔父が近々、彼女を宮中に入れようと画策していることなどを聞きます。
それを聞いていてもたってもいられれなくなった中将は、屋敷に忍び込んで強引に姫君を連れ去ろうとしました。
光季は仲の良い女童に手引きさせ、中将を屋敷に入れる手はずを整えます。
いざ屋敷に入ってみると中が薄暗く勝手がわかりません。
とりあえず、母屋に寝ている小柄な女性を見つけると、あまり確かめもせずに連れ去ってしまいました。
中将が屋敷に戻って女性の顔を見てみると、彼女は中将の思い人である姫君ではなく、姫君の祖母でした。
「虫(蟲)めづる姫君」
「虫めづる姫君」の登場人物
按察使大納言の娘(虫めづる姫君)
この物語の主人公です。
虫をこよなく愛し、周囲の者が気持ち悪がってもその考えをかえませんでした。
また、美しい容姿だったにもかかわらず、他の女性たちのように着飾ったりせず、自然体のままで過ごします。
按察使大納言
姫君の父親です。
按察使も大納言もかなりの高位官職で、上流階級といってもよいでしょう。
按察使大納言は娘に、「ふつうの貴族女性」になって欲しいと願います。
女房たち
姫君の従者たちですが、姫君を尊敬しているわけではありません。
むしろ、変わり者の困った姫さまだと思って接している様子がうかがえます。
男の童たち
虫などを採集するために姫君が従者にした身分の低い男の子たち。
姫君は彼らに、けら男、ひき麿、いなかたち、いなご麿などと虫の名前を付けていました。
上達部の御曹司(右馬佐)
姫君の評判を聞きつけて接近してきた貴族の御曹司。
上達部とは上級貴族のことで、家柄としては按察使大納言の娘である姫君と釣り合う男性です。
蛇の作り物を姫君に贈って驚かせます。
「虫めづる姫君」のあらすじ
「蟲愛づる姫君」は、大きく分けて2つの章段から成り立っています。
前半は、「姫君」が虫を愛でる様子や、周囲の侍女・両親が困り果てている様子を描く前半の章段です。
姫君は虫を恐れないどころかとてもかわいがります。
毛虫を忌み嫌い、蝶を愛でるのは矛盾するというのが姫君の考え方でした。
また、彼女は身なりをほとんど気にしません。
髪を耳の上に掻き上げ、眉毛を抜きもせず、 歯を黒くすることを怠ると描写されます。
これは、当時の貴族女性の習慣にことごとく反する行為でした。
世間では姫君は変わり者だといわれ、父の按察使大納言も姫君にもっと普通の女性としてふるまってほしいと願いますが、姫君は意に介しません。
後半は、怖いもの知らずの名家の美男子の御曹司が登場します。
「虫をめでる」というとても奇異な姫君の評判を聞いた上達部の御曹司が「姫君」に精巧な蛇の作り物を贈っていたずらっぽく接触を図ります。
そのあまりの精巧さに姫君はすっかり騙され、恐る恐る箱の蛇と対面します。
父の按察使大納言は従者たちが姫君を見捨てて逃げてきたことに怒り、自ら刀を取って救いに行きます。
しかし、蛇が作りものだと知り「相手に返事を書きなさい」といって立ち去りました。
その後姫君は作り物の蛇に添えられていた歌にカタカナで返書を書きます。
カタカナで書いたということは、まだひらがなを使いこなす大人の女性になっていなかったという意味でしょう。
最後は、「二の巻にあるべし」という思わせぶりな一説で締めくくりますが、続くはずの「二の巻」は収録されていません。
姫君のキャラクター
「姫君」は、按察使の大納言の御むすめと書かれています。
平安時代に女性の個人名が伝わることはまれでした。
『枕草子』の著者である清少納言は、清原の少納言の娘の短縮形。
『更級日記』の著者は菅原孝標女(むすめ)と、父親の名前や官職名に関連付けられるのが当たり前でした。
そのため、蟲愛づる姫君も按察使の大納言の御むすめと表記されているのでしょう。
按察使も大納言も律令官職としては高位です。
つまり、蟲愛づる姫君は大貴族のお嬢様だったということがわかりますね。
平安時代、女性はお歯黒・引き眉が常識でした。
お歯黒は、葉を黒く染める化粧法のこと。
お歯黒は歯を目立たなくし、顔つきを柔らかに見せることを目的としたといいます。
引き眉は、まゆ毛を剃る、または抜くことをさしますね。
眉を剃った後に、眉よりも高い位置に墨で眉を書くのが平安時代のスタンダードでした。
この習慣は江戸時代まで続きます。
姫君は「人はすべて、つくろふところあるはわろし。」とて、眉さらに抜きたまはず、歯黒めさらに「うるさし、汚し。」とて、つけたまはず、とあるように、当時の常識であるお歯黒・引き眉をしていませんでした。
いわば、ノーメイクで過ごしていたわけです。
しかも、ノーメイクの理由が「取り繕うところがあって悪い」とか、「(お歯黒は)わずらわしい、汚い」というわけです。
さしずめ、「社会人として化粧は常識」と説教されたときに「そんなものはわざとらしくて、汚いからいやだ」と拒否したようなものでしょう。
これでは、同性の侍女たちに距離を置かれ、両親が眉を顰めるのも無理からぬことです。
しかし、姫君は一向に意に介することはありませんでした。
姫君の価値観
姫君の親たちは、「人は、見目(みめ)をかしきことをこそ好むなれ。『むくつけげなる烏毛虫を興ずなる。』と、世の人の聞かむもいとあやし」と姫君に説きます。
人は外見・容姿が美しいことを好むもの。毛虫のような気味の悪いものを面白がっているなどというのは世間体が悪い。という意訳になるでしょうか。
これに対し姫君は、「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり。」
姫君は「かまいません。すべてのことの本質を追求し、行く先を見つめるからこそ物事は面白いもの。それを理解できないのはとても幼稚です。毛虫だって蝶になるのです」と反論しました。
そして、姫君は続けます。
「きぬとて、人々の着るも、蚕のまだ羽つかぬにし出だし、蝶になりぬれば、いともそでにて、あだになりぬるをや」
「絹だといって人々がきるのも、蚕が羽化する前に作ったもの。蝶になってしまえば、無用のものになるものなのに」。
世の中で嫌われているものでも、よくよく見ていれば美しいものや役に立つものに変化する。
その時の姿だけを見て気味悪がり、排除するのはおろかである。
もっと本質を見るべきだと姫君が思っているように感じました。
さいごに
蟲愛づる姫君は、「ずれた」感覚を持った姫君だと周りから扱われました。
現代であっても、同じように扱われるかもしれません。
しかし、彼女が主張する「本質」を見るべきだという主張は、現代でも一考に値するのではないでしょうか。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。