「どっちが先におきたの?」
「それぞれの乱の登場人物は?」
このページに来て下さった方は、こうした疑問を持っているかもしれません。
安史の乱は唐の中期の755年におきた節度使安禄山による反乱です。
黄巣の乱は874年におきた塩の密売商人の王仙芝と黄巣による反乱です。
今回は、安史の乱と黄巾の乱の違いを反乱の範囲や人物、日本とのかかわりなどを中心にまとめます。
なお、中国に関連した記事をお読みになりたい方は、こちらもどうぞ!
安史の乱とは?
安史の乱とは、755年から763年にかけて唐で起きた大反乱のことです。
反乱の首謀者は北東部の3節度使を兼ねていた安禄山と彼の部下である史思明です。
安禄山は唐の副首都といってもよい洛陽を占領し、大燕皇帝を自称しました。
反乱軍の勢いはすさまじく、唐軍は敗退を重ねます。これに驚いた玄宗は都の長安を捨てて守りが固い蜀へと逃れました。
その逃避行の途中で兵士の反乱にあり、兵士が要求した楊貴妃殺害を受け入れざるを得なくなります。
反乱は8年にわたって続き、唐王朝は大きなダメージを受けました。
唐はウイグルの力を借り、ようやっと反乱を鎮圧することができました。
反乱の範囲
安禄山の乱は安禄山が節度使をつとめていた中国北東部から洛陽などの黄河流域、首都長安を含む渭水盆地一帯に広がりました。
これは、中国の北半分にわたる広大な範囲です。華北全域を巻き込んだ反乱により唐は大混乱に陥りました。
安史の乱の登場人物
唐の皇帝、玄宗
安史の乱のころの唐の皇帝。
安史の乱が起きた時は60歳でした。
若いころ、玄宗は非常に有能な君主でした。
クーデタで実権を握り父から皇帝の位を譲り受けると矢継ぎ早に国内改革を実行します。
若いころ、玄宗が行った政治改革を開元の治といい善政の模範とされました。
しかし、40代後半になると玄宗は政治への関心を失います。
玄宗は楊貴妃との逢瀬にいそしみ、政治を宰相の李林甫に委ねます。
李林甫の死後、宰相の地位に就いたのは楊貴妃の一族である楊国忠でした。
玄宗は開元の治で名君とされる一方、後半は楊貴妃におぼれ皇帝としての責務を怠ったと批判されます。
安史の乱は玄宗の治世後半の失政の結果起きたといってもよいでしょう。
玄宗の寵姫、楊貴妃
楊貴妃は719年に生まれました。
彼女を寵愛した玄宗とは34歳差です。
本名は楊玉環といいます。
玄宗の寵愛を受け貴妃の称号を受けたので楊貴妃と呼ばれるようになりました。
楊貴妃は歌舞音曲の才に優れ、自ら琵琶を弾いたといいます。
陳鴻作の伝奇小説『長恨歌伝』で、楊貴妃は髪やつややかできめの細かい肌、程よい体形で柔らかい物腰だったと評されます。
もともとは玄宗の子である寿王李瑁の妃でした。
そして、玄宗は楊貴妃を道教の女道士にして息子の嫁という立場でなくさせます。
その上で、745年に自分の妃の一人としました。
玄宗の寵愛を受けたソグド人武将、安禄山
若いころから北方の最前線で勤務し、徐々に昇進を果たします。
安禄山はそれだけで満足せず、様々な人物に賄賂を贈って自分の評判を高めました。
節度使は軍隊の司令官のことで、3つの節度使を兼任した安禄山は唐の国内で最大の軍を率いていたことになります。
また、彼は玄宗や楊貴妃に取り入るため、楊貴妃の養子になりたいと願い出ました。
そして、その願いが叶うと、皇帝よりも先に楊貴妃に礼を施し、非礼をとがめた玄宗に「胡人(漢民族ではない異民族)では、母を貴ぶ」と弁明。
かえって彼らの信任を得ました。
安史の乱の原因
玄宗の安禄山に対する寵愛ぶりを見た楊国忠は、安禄山を自分のライバルとして強く意識。
玄宗に「安禄山は必ず謀反を起こす」という讒言を繰り返しました。
また、皇太子も安禄山を危険視します。
都に部下を置き、常に宮中の動向を監視していた安禄山は繰り返される楊国忠の讒言と皇太子の反感に、次第に身の危険を覚えるようになりました。
そのため、先手を打って挙兵します。安禄山としては自己防衛だったのかもしれません。
安史の乱の結果
安禄山は10万とも20万ともされる軍を率いて都の長安を目指しました。
彼の部下は国境警備兵士で唐軍の主力部隊です。
そのため、連戦連勝を続けて唐の副首都だった洛陽を攻め落としました。
洛陽を占領した安禄山は燕の建国を宣言し皇帝となります。
軍事的に長安を守ることができないと判断した玄宗は守りが固い蜀を目指します。
その途中で部下たちの反乱に遭いました。
部下たちは戦乱の元凶は楊貴妃と楊国忠だと主張し、彼らの誅殺を望んだのです。
結局、玄宗は部下たちを抑えるため楊貴妃と楊国忠の殺害を許可しました。
粛宗はウイグルの手を借りて反乱軍に立ち向かいました。
その一方、反乱軍側では内輪もめが発生し安禄山が殺害されます。
その後、部下の史思明が反乱を引き継ぎましたが唐を倒すことができず、鎮圧されした。
安史の乱に関連する文化人
荒れ果てた都で『春望』を詠んだ杜甫
杜甫は開元の治の時代に生まれた唐を代表する詩人で、官僚として唐王朝に仕えていました。
安史の乱の時、粛宗のもとにはせ参じようとしましたが、反乱軍に見つかり長安にとどめ置かれます。
特に拘束されたわけではなかったのですきを見て脱出し粛宗のもとに向かいました。
『春望』が書かれたのは長安に抑留されていたころか、粛宗のもとにはせ参じた後と考えられています。
「国破れて山河在り」というのは、安史の乱で荒廃した長安を現すのにふさわしい表現でしょう。
この五言律詩は日本人にも愛され、現代も多くの国語の教科書に掲載されています。
玄宗皇帝と楊貴妃について詠んだ白居易の『長恨歌』
白居易は安史の乱後に生まれた詩人で、字(あざな)は楽天です。
そのため、白楽天ともよばれます。
彼が生きた時代は唐が衰退から立ち直るため改革を行っていた時代でした。
彼の代表作が『長恨歌』です。
ただし、物語の主人公は漢の武帝と李夫人に置き換えられています。
これは、唐の皇帝である玄宗を批判すると罰せられる可能性があったからだと考えられます。
長恨歌の本文について知りたい方は、こちらをどうぞ。
安史の乱と日本の関係
渤海国(中国東北地方にあった国)経由で帰国した遣唐使は、安禄山の乱の発生と首都長安の陥落など衝撃的な知らせを朝廷にもたらしました。
そのころ、朝廷で政治の実権を握っていたのは藤原仲麻呂でした。
彼は官名を問う風に改めるほど、唐びいきの政治家だったので、安禄山の乱にとても大きな衝撃を受けたかもしれません。
この乱の余波が日本に及ぶのを懸念した藤原仲麻呂は大宰府に防備の強化を命じます。
また、鎌倉時代初期に成立した『平家物語』の冒頭で、君主をおろそかにした逆臣として「秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の(安)禄山」と紹介されています。
安禄山の乱の400年後でも反逆者の代表として語り継がれるというのは、驚くべき影響力ではないでしょうか。
黄巣の乱とは?
黄巣の乱は875年に、塩の密売商人だった黄巣らが中心となって起こした農民反乱です。
反乱は10年近くにわたって続き、唐の衰退に拍車をかけます。
そして、唐は黄巣の元部下で節度使となっていた朱全忠によって滅ぼされます。
反乱の範囲
黄巣の乱は華北だけではなく中国南部も含む唐全土を舞台とした大反乱です。
黄巣率いる反乱軍は南部沿岸地帯の貿易都市である広州を襲撃し、富を蓄えていたイスラム商人やユダヤ商人を殺害してその富を奪いました。
勢力を拡大した反乱軍は唐の都である長安を攻め落とします。皇帝は玄宗と同じく蜀に逃れます。
その後、黄巣に見切りをつけた朱温が唐に投降し、節度使の李克用とともに黄巣の乱を鎮圧しました。
そして、朱温は名を朱全忠と改め907年に唐を滅ぼします。
黄巣の乱の登場人物
反乱指導者、王仙芝と黄巣
安史の乱が起きたことで、唐の政治システムは大きく変化しました。
収入源を失った唐王朝は税法を租庸調制から両税法に変更し、塩の専売制度を行います。
塩は人の生活に必要不可欠です。塩の専売制度は唐王朝に莫大な利益をもたらしました。
引用:
その一方、国による塩の専売をかいくぐる密売商人も現れました。
反乱に指導者となった王仙芝や黄巣はそうした専売商人たちの一員でした。
黄巣が塩の密売商人となったのは国家公務員試験にあたる科挙に何度も失敗したからでした。
その後、唐王朝が密売商人の摘発が進められると、彼らは塩の密売で築き上げたネットワークを生かして反乱を起こします。
巨大化した反乱軍を弱体化させるため、唐王朝は彼らに官職を与えて懐柔しようとしました。
王仙芝はこれに応じようとしますが、黄巣は反対。
唐王朝の思惑通り、彼らは分裂しました。
ところが、王仙芝が唐王朝の謀略によって暗殺されると、反乱軍は黄巣の下で一本化され、さらに強大化してしまいました。
独眼竜の異名を持つ唐の節度使、李克用
指揮系統が一本化され、かえって勢力を増した黄巣軍は唐の都長安を攻め落とします。
皇帝の僖宗は蜀に逃れ、トルコ系の沙陀族に援軍を求めます。
これを受け、沙陀族の長だった李克用は唐軍を率い長安を攻撃、奪還に成功しました。
李克用は生まれつき片目が斜視だったようで不自由でした。
そのため、「独眼竜」の異名を持ちます。
彼が率いる軍はとても勇猛で黒一色に軍装をしていたことから、鴉軍(あぐん)とよばれ恐れられます。
長安の戦いで完敗した黄巣軍は鴉軍を見ただけで浮足立ったといいます。
黄巣に見切りをつけた部下、朱温
朱温は黄巣の乱に参加した人物です。長安陥落後も、各地の節度使と戦い勇名を馳せました。
李克用の参戦などで黄巣軍が劣勢となると、黄巣が派遣していた監視役を殺害し、唐軍に投降します。
その後、朱温は黄巣軍を滅ぼすのに活躍しました。
黄巣が弱体化した後、李克用との激しい権力闘争に勝ち抜いた朱全忠は、皇帝の昭宗を殺害。
あとを継いだ最後の皇帝である哀帝から禅譲を受けることで新たに後梁を建国しました。
黄巣の乱の3つの原因
黄巣の乱の原因は大きく分けて3つあります。
1つ目は藩鎮(力を増し、行政権も行使した節度使)どうしの内戦です。
これにより、地方は大きく疲弊しました。
2つ目は中央政府の権力争いです。
宦官や官僚が権力をめぐって激しく争いました。
そして3つ目は民衆からの過酷な収奪です。
唐王朝の政治に対し民衆が強い不満を持っていた時に、河北一帯をイナゴが襲いました。
生活苦に陥った人々は田畑を捨て群盗となりました。
こうした人々を黄巣らが結びつけることで大反乱に発展させました。
黄巣の乱の結果
黄巣軍がもっとも強い力を誇ったのは長安を攻め落とした880年です。
その後、僖宗の救援要請を受けた李克用が援軍として駆けつけると、形勢が逆転します。
流れが決定的となったのは朱温の裏切りでした。
長安を追い出された黄巣はふるさとの山東半島に逃げのびようとします。
しかし、その逃避行の途中で部下の裏切りにあい殺害されてしまいました。
黄巣の乱は唐王朝の弱体化を決定的なものとし、朱全忠による新王朝建国の下準備となります。
黄巣の乱と日本の関係
道真は894年に遣唐使に任命されました。
しかし、2つの理由をあげて遣唐使を中止するべきだとする意見書を出します。
一つは、黄巣の乱後も唐王朝が混乱し、衰退がはなはだしいことでした。
もう一つは遣唐使の航海が非常に危険だったということです。
この道真の意見は採用され、道真の派遣は中止となりました。
以後、日本の朝廷が遣唐使を派遣することはなくなりました。
菅原道真について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。
まとめ
玄宗は都を捨て、逃げる途中で楊貴妃を見殺しにせざるを得なくなりました。
唐軍は単独で安禄山に勝てなかったのでウイグル人の支援を受けて鎮圧します。
その一方、黄巣の乱は875年に塩の密売商人である王仙芝や黄巣が起こした反乱でした。
王仙芝の死後、黄巣が反乱軍を引き継ぎ、一時は長安を占領するほどの勢いを示します。
しかし、沙陀族の李克用の力を借りて唐軍は黄巣に勝利します。
ところが、投降した黄巣の元配下の朱全忠が李克用との権力闘争に勝利し、唐王朝を滅ぼします。
この記事を見て、少しでも「わかった」と思っていただけたら幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。