元予備校講師の受験対策ブログ

元予備校講師の木彫りグマが、受験対策(主に古文・漢文・地歴公民・面接・小論文)について書くブログ

 本サイトはプロモーションが含まれています

「漢をつくった劉邦ってどんな人?」「劉邦の家臣とは?」わかりやすく解説します!

劉邦ってどんな人?

劉邦の家臣たちとは?

 

この記事を読んでいるかたはそのような疑問をお持ちかもしれません。

劉邦は農民からたちあがり、400年続く漢王朝を打ち立てた英雄でした。

しかし、彼はもともと飲んだくれの地方公務員に過ぎません。

そんな彼が強敵項羽を倒し、天下を取れたのはなぜか?

それは、彼が優れた家臣たちを登用し、彼らに仕事を「丸投げ」していたからでした。

 

今回は劉邦の性格や彼を支えた家臣たちについてまとめます。

 

劉邦ってどんな人?~飲んだくれの地方公務員~

f:id:kiboriguma:20181203205531j:plain

今から2200年前の中国は「秦」の時代でした。

マンガ『キングダム』で取り上げられている秦王政が中国を統一して作った王朝です。

しかし、秦はその過酷な法律の支配から人々の恨みを買ってしまいました。

 

劉邦は田舎の農民の子です。

農民になるのが嫌で昼間から大酒を食らうような人でしたが、なぜから、人々の人気がありました。

劉邦が飲んでいることを聞きつけるや、周辺の人々が一緒に飲みたいと酒場に集まるので、劉邦が来る日は満員御礼。

そのため、劉邦の飲み代はタダになったといいます。

 

劉邦の仕事は田舎の警察署長です。

規模から考えると、派出所の駐在さんというほうが適切かもしれません。

そんな劉邦に、中央政府から「工事で働かせるための人を集め、工事現場まで連れてこい」という命令が下されます。

 

劉邦、反乱軍のボスになる

劉邦は命令に従って人々を引き連れます。

しかし、工事現場での過酷な労働を聞いていた人々は次々に脱走します。

秦の法律では期限に間に合わなかったり、規定の人数を集められなかった場合は責任者が処罰されることになっていました。

やけっぱちになった劉邦は自分も一緒に逃亡してしまいます。

 

ちょうどそのころ、陳勝呉広という農民たちも劉邦と同じように秦の支配から逃げ出します。彼らは逃げるだけではなく反乱軍を組織して秦と戦い始めました。

 

秦から派遣されていた沛県(劉邦が警察署長をしていた地域)の県令(県知事)は、反乱軍に攻め込まれることを恐れて劉邦と手を組もうとします。

しかし、土壇場になって県令は劉邦を城に入れることを拒否。劉邦を慕う人々は県令を殺害して劉邦を迎え入れました。

こうして劉邦沛県の反乱軍のボスとなります。

天下を取らせた劉邦家臣団

劉邦は、自分よりもすぐれていたり、相手の言うことが正しいと思うとすぐに取り入れる柔軟な人でした。

酈食其(れきいき)という儒学者が面会を求めてきたときのこと。劉邦儒学者が大嫌いだったので、礼を尽くさずに足をおつきの女性に洗わせながら面談しようとしました。

酈食其が「それが年長者に対する態度か!」と一括すると、はっとしてすぐに無礼を詫びて彼の意見に耳を傾けました。

その結果、攻め落とそうとしていた城を無傷で手に入れることができ、勢力を一気に拡大することができました。

 

劉邦は、いったん相手を信用するとほとんど丸投げといってもよいくらい任せてしまいます。

政治や経済のことは蕭何(しょうか)に、外交などについては張良に、謀略については陳平に、戦場での指揮は韓信にといった具合で任せてしまいます。

いったん任せると、劉邦はほとんど口を出しませんでした。

仕事を任された方からしてみれば、非常にやりやすかったと思います。

 

陳平が敵の分裂工作を実行した時、今でいう数億円単位の金を渡して「好きに使え」と言い切ったのが一番わかりやすい例でしょう。

 

現代ではコンプライアンスの問題などもありますから、全部丸投げというのはできないでしょう。

しかし、信用した以上は細かなことには口を出さないというのは上司の在り方として見習ってもよいのかなぁと思います。

 

「将に将たる」 ボスの心得

戦場で圧倒的な力を誇っていたのが劉邦のライバルとなる項羽でした。

直接対決で劉邦は一度として勝利することができません。

 

劉邦は戦場での指揮を韓信という天才指揮官に委ねました。

韓信は直接項羽と戦うことは避けつつも、巧妙に相手の力を削いでいきます。

背水の陣で数倍の敵を打ち破ったのがこの韓信でした。

結局、最後は韓信の指揮する大軍が項羽を打ち破りました。あの四面楚歌のもとになった戦いです。

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp戦いに勝利した後、韓信はあまりの戦争のうまさと持っている広大な領土のために皇帝となった劉邦におそれられました。

韓信は反乱を起こそうとしましたが、事前にバレて逮捕されます。

 

その時、劉邦韓信に「お前はあんなに戦いが上手だったのにどうして負けて捕まったのか?」と皮肉を言いました。

 

すると韓信は「戦場で兵隊を率いたら私の方が陛下より強いでしょう。

ですが、陛下は有能な武将を思う存分働かせる能力を持っています。

私が敗れたのも当然でしょう」と答えたといいます。

 

とかく、自分が優秀であると部下のやっていることが非効率に思えてあれこれと指示を出したくなります。

部下を育て、組織全体を強くするためには、時に丸投げにしたほうが良いのかもしれません。

ちなみに、韓信のように功績を立てすぎると組織の中では浮いてしまいます。

「狡兎死して走狗煮らる」の例えの通り、用が済んだら排除されてしまうことが多いようです。

kiboriguma.hatenadiary.jp

最後まで読んでいただきありがとうございました。 

 

「二宮金次郎ってどんな人?」「小学校にある金次郎の銅像の怪談とは?」「金次郎の名言とは?」わかりやすく解説します!

二宮金次郎ってどんな人?

どうして、小学校に銅像があったの?

二宮金次郎の名言とは?

 

このページをご覧の皆様はそのような疑問を持っているかもしれません。

二宮金次郎は江戸時代後期に活躍した人物です。

農村復興や経済思想の普及に努めました。

昔は多くの小学校に薪を背負った二宮金次郎銅像がありましたね。

 

しかし、実際に何をした人なの?

そう聞かれると、なかなか答えにくいかもしれません。

 

今回は二宮金次郎がどんな人か、なぜ、彼の銅像が小学校に置かれたのか、そして、金次郎が残した名言にはどんなものがあるかなどについてまとめます。 

 

f:id:kiboriguma:20181121213950j:plain

 

二宮金次郎の功績

f:id:kiboriguma:20210427080736p:plain

二宮金次郎(尊徳)

引用:二宮尊徳 - Wikipedia

若き日の二宮金次郎

二宮金次郎(尊徳)は江戸時代後期の人物です。

14歳の時に父を亡くし、16歳の時に母もなくします。

二宮家の田畑は酒匂川の洪水で流出してしまい、文字通りの無一文となった金次郎は叔父に養われました。

 

金次郎は勉学に励んで家を復興させようとしますが、夜の明かり代を惜しんだ叔父により、夜の勉強を禁じられます。

金次郎は油のもととなるアブラナを土手に植え、自分で油を調達しました。

 

否定されても邪魔されても、目的達成のためなら何でもするというところが垣間見れています。

また、田植えで捨てられた苗を用水堀で育てて、一俵分の収穫を得たといいます。

一俵といえば60kgです。

これも、金次郎の「お家再興」の元手となったのでしょう。

 

金次郎は叔父の家を出ると親族の家に身を寄せます。

そして、元手を増やし続けました。

次の年に5俵、その次の年に20俵とどんどん増やします。

そして、ついに二十歳のときに家屋敷を再興することに成功しました。

元手がほとんどない状態からお家再興を果たしたのは非常に素晴らしいと思います。

 

金次郎はやればできるという根性論の人ではありません。

合理的に、どうやれば少ない元手て成功できるかを徹底的に追求したなのではないでしょうか。

その点で、彼は現代の私たちが学ぶべき要素をたくさん持った偉人だと思うのです。

 

彼は農業収入だけを元手にしただけではありませんでした。

幼少の時に薪を売ったり、草鞋を編んだりするなどのアルバイトで現金を稼いでいます。

百姓でありながら、商業的な視点も持ち合わせていました。

農業収入と現金収入。

いまでいうなら、給料と副業を同時に行って「稼ぐ力」を身に着けていったといったところでしょう。 

 

服部家の財政再建

金次郎の仕事を、現代に当てはめると「ファイナンシャルプランナー」ではないかなと思います。

はじめに、小田原藩の家老であった服部家の財政再建に取り組みます。

彼は、5年改革で再建を請け負いました。

 

彼の財政再建は実にシンプルです。

まず、服部家の支出を徹底的に見直しました。

江戸時代後期の武士の家は、多くの場合、支出が放漫になっていて財政難になっていました。

 

金次郎は徹底的に無駄をカットしていきます。

しかし、強権的にコストカットしたわけではありません。

たとえば、無駄をせず、上手にやりくりしたものを褒めます。

褒められると、やる気が出るので個人レベルでもコストカットに努めるようになるでしょう。

 

また、皿などの備品を壊してしまっても素直に名乗り出たら責任を追及しませんでした。

さらに、予算よりも安く仕入れることに成功したものには成功報酬を与えてやる気を引き出しました。

 

こうして、人の心にも配慮した支出の見直しが功を奏して、服部家の財政は持ち直し、多額の借金も返済することができました。

 

これは、現代のファイナンシャルプランナーの方の手法にもよく似ていますよね。

自分の実力以上の贅沢をしない。

工夫して切り詰める。

楽しく節約する。

いずれも現代に通じる大事なことではないでしょうか。

桜町復興

服部家の財政再建は評判となり、ついに小田原藩大久保忠真の耳にも入ります。

大久保公は、金次郎に飛び地の桜町領の復興を命じます。

 

度重なる飢饉で疲弊した桜町領は困窮を極めていました。

領民たちも自分たちの前途を悲観し、やる気のない生活を送っていました。

田畑を放り出し、昼間から酒を飲んで博打をする。

怠けているというよりも、あまりに絶望的な現実から目をそらしている現実逃避だったのかもしれません。

 

このテンション最悪の農村に金次郎はやってきました。

金次郎は藩主に掛け合って年貢を半減させます。

高すぎる税金がやる気をそいでいると考えたからです。

 

10年がかりの復興計画が、こうして始まりました。

しかし、すべての領民が金次郎の改革に賛成したわけではありません。

反対する者たちも大勢いたいのです。

 

改革開始から6年目、突如として金次郎は桜町から姿を消しました。

金次郎の突然の失踪に、桜町の領民たちは真っ青になります。

指導者を失い、再び悪化し始めた状況に領民たちは狼狽します。

ついには、領民たちは藩に金次郎の捜索願を出しました。

 

一方、姿を消した金次郎は成田山新勝寺で断食行をしていました。

改革がうまくいかない理由を自分の心と神仏に問うていたのです。

金次郎が成田山新勝寺にいると知った領民たちは彼ののもとに集まります。

そして、再び桜町で改革の先頭に立ってほしいと懇願しました。

人々の心が一つになったのを見た金次郎は桜町に戻ります。

 

実は、上杉謙信にも似たようなエピソードがあります。

人々の心がまとまらないときには、こうした一か八かの行動が必要なのかもしれませんね。

藩主と約束してから10年後、金次郎は桜町の復興に成功。

年貢も1000俵から1900俵近くまで回復し、村には900俵の貯蓄もできました。

 

支出を削減し、生産性を向上させて収益を上げる。

企業経営者としても有能だったことを示していますね。

その後も、小田原藩全体の飢饉を救ったり、いくつもの大名領を復興させるなど財政再建のプロとして大活躍しました。

ついには、江戸幕府に召し抱えられ幕府直轄地に復興も任されるようになりました。

 

二宮金次郎銅像について

f:id:kiboriguma:20210427080849p:plain

二宮金次郎銅像

引用:二宮金次郎像拝領について | 報徳二宮神社

二宮金次郎銅像はなぜ小学校に置かれた?

二宮金次郎銅像が小学校に置かれた理由は、彼が戦前の道徳にあたる「修身」の教科書で取り上げられ続けたからです。

一生懸命努力することや働くことの大切さを体現した金次郎の一生は子供たちの模範となると考えられたのでしょう。

 

金次郎の銅像が一気に広まったのは昭和初期のこと。

昭和天皇の即位記念に際し、神戸の実業家の夫人が全国の小学校83校に金次郎の銅像を寄贈したことも普及の契機となったようです。

 

金次郎の銅像を9割製造しているのは富山県高岡市にある平和合金という会社。

今でも精巧な二宮金次郎像を生産しています。

詳しくは、こちらのHPをご覧ください。

story.nakagawa-masashichi.jp

二宮金次郎銅像が減った3つの理由

近年、各地にあった二宮金次郎銅像は姿を消しつつあります。

一つ目の理由は小学校の統廃合です。

少子化の影響で小学校が統廃合された際、廃校となった小学校に取り残されるケースもあるようですね。

二つ目の理由は銅像そのものの老朽化

老朽化した際に、修理せず撤去してしまうケースもあるようです。

そして、三つ目の理由は時代の変化

昭和の時代、金次郎は勤労の美徳を体現する存在でした。

寝る間も惜しんで勉学に励み、自分で働いて学資を稼ぐ姿は多くの人の共感を得たでしょう。

しかし、令和の時代に彼のような生き方は多数派ではありません。

世の大勢と彼の生き方が離れてしまったことも、彼の像が減っていった理由ではないでしょうか。

金次郎の銅像に関する都市伝説とは?

二宮金次郎銅像が涙を流す

夜のなると金次郎の銅像が走り出す

金次郎の像が背負っている薪が減る

金次郎が読んでいる本のページがめくれる

 

こうした怪談が生まれた背景に、金次郎の銅像がとても身近な存在だったことがあります。

トイレの花子さん」などと同じで、小学生にとって常に目にする存在だからこそ、「怪談のネタ」になったのではないでしょうか。

二宮金次郎の名言

積小為大

塵も積もれば山となるといったほうが、わかりやすいかもしれません。

「小さなことからコツコツと」というのは誰しもわかっているかもしれませんが、実現するのはとても難しいことです。

これは、江戸時代も現代も全く変わりません。

 

毎日の生活の無駄をなくしつつ、次の生産のための投資を怠らない。

ただ、節約してため込むのではなく次につなげる投資の原資にする。

彼の生き方が集約された言葉ではないでしょうか。

 

万町の田を耕すもその技は一鋤ずつの功による

万町の田とは、1万町歩の広さの田のことで、広い面積の水田の例えです。

どんなに広い水田でも地道に一回ずつ鋤で耕さなければなりません。

地道な毎日の努力が結果につながるという意味です。

 

道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である

経済的利益を優先すると、「儲かれば何をしてもかまわない」という思考に陥りがちです。

金次郎はその状態を「道徳を忘れた経済」と定義します。

と同時に、彼はいかに立派なことを言っても経済的に成り立たないものは「寝言」だと切り捨てます。

彼は道徳の教科書に用いられるほどの人格者でしたが、同時に、目標は達成してこそ意味があると考える現実主義者でもあったことがわかります。

まとめ

今回は二宮金次郎についてまとめました。

江戸時代後期に活躍した二宮金次郎は、コツコツと小さなことを積み上げることで一度は失った自分の田畑を取り戻しました。

それだけではなく、家老の服部家の財政や小田原藩の飛び地である桜町領の復興などを成し遂げ、最後は幕臣として農村復興にあたりました。

経済を通じて社会を立て直したという点で、大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一にも通じるところがあるのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。  

 

「清少納言ってどんな人?」「『枕草子』の内容とは?」「うつくしきものの主題とは?」わかりやすく解説します

随筆『枕草子』を知らない人はほとんどいないでしょう。

書名を忘れてしまっても「春はあけぼの」を暗唱させられた人は多いはず(笑)

勉強だと思って読んでいると、全く面白くないのですが、大人になってから読むとなかなかに面白いことを言っていることに気づきます。

今回は『枕草子』の著者である清少納言について紹介します。

 

納言とは

f:id:kiboriguma:20181119084137j:plain

清少納言中宮定子に仕えた女房の一人です。今でいう、皇后さまのおつきの人といったところでしょうか。

清少納言の本名は不明です。なので、ペンネーム清少納言さんといった感じなんですよ。そういう意味でも、ブロガーっぽいですよね。

かなり頭の良い女性だったようで、主人である中宮定子からも一目置かれた存在でした。

ちなみに、ライバルとなったのが中宮彰子に仕えた紫式部です。

紫式部清少納言が嫌いだったとの伝説があり、ひとことでいうと「才能があるからって調子に乗ってんじゃないわよ!」といった感じの酷評をしたとされています。まあ、真偽のほどは定かではないようなんですがね。

枕草の内容

f:id:kiboriguma:20181119084347j:plain

 

枕草子の内容は、大きく分けて3つのパターンに分類できます。

一つ目は「ものづくし」

「すさまじきもの」「うつくしきもの」などといった似たものを集めてくるシリーズです。

二つ目は日常生活や四季の自然を観察したシリーズ。

三つ目は中宮定子との思い出や宮中での出来事をつづった回想シリーズです。

全体的に文章はシンプルで一文も短いのが特徴です。

これはブログを書く人間として見習いたいポイントですね。

清少納言「をかし」(興味深い)と思ったものを中心に扱っているのが特徴ですね。

「うつくしもの」はkawaiiの原点?

f:id:kiboriguma:20181119084623j:plain

古語で「うつくしきもの」とは、かわいらしいものという意味です。

何を可愛いとするかは、もちろん、その人の感性で違うものですし、一概に男女の違いとも言い切れませんが、時には?マークがつくことも少なくありません。

枕草子では、あくまで清少納言の独断と偏見で「かわいいもの」を並べています。

 

瓜に書いた幼児の顔。

スズメの子が鳴きまねにつられて踊るようにやってくること。

2・3歳くらいの幼児が急いでハイハイしてくる途中に、小さなチリをつかんで大人に見せている様子。

おかっぱの子どもが、髪が目の前にかかっても気にせず小首をかしげている様子。

小さな貴族の子供が大きい服を着せられて歩く様子。

ひな人形の道具。

とにかく、小さいものは何でもかわいい。

 

まあ、あくまで清少納言の好みではありますが(笑)

こんな風に、共通点のあるものをリズムよく並べていくんです。

つい「なになに?ほかには何があるの?」と読み進めたくなってしまいます。

 リズムよく、調子よく、ポンポンと読んでもらうのもブログとして大切な要素なんだなと思う今日この頃でした。

枕草子の原文からあたるのはちょっと大変だと思いますので、読みやすいものやマンガがいいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

「小式部内侍ってどんな人?」「大江山の歌の登場人物は誰?」「大江山の和歌の技法やテストに出るところを知りたい!」わかりやすく解説!

小式部内侍ってどんな人?

大江山の歌の登場人物は誰?

大江山の歌の意味や和歌の技法について知りたい!

テストに出やすいのはどこ?

 

このページをご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。

小式部内侍平安時代中期に朝廷に仕えた女房で、女流歌人としても知られた人物です。

彼女自身も優れた歌人でしたが、母の和泉式部も有名な歌人でした。

平安時代全体の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

彼女の和歌の腕前がわかるエピソードが『十訓抄』や『古今著聞集』に収録されています。

そのエピソードの中で彼女が読んだのが「大江山の歌」でした。

この大江山の歌」の技法はよく古典のテストで出題される定番問題です。

 

和歌について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

今回は小式部の内侍がどんな人か、母の和泉式部との関係、大江山の歌のエピソードなどについてまとめます。

f:id:kiboriguma:20181107195604j:plain

小式部内侍ってどんな人?

f:id:kiboriguma:20210407211917p:plain

百人一首の小式部内侍

引用:小式部内侍 - Wikipedia

小式部内侍平安時代の女流歌人です。

名前だけ聞くと紫式部の親戚?と思ってしまうかもしれません。

しかし、紫式部とほぼ同時代の人物です。

この当時の女性の常として、残念ながら本名は伝わっていません

 

母親は当時すでに有名な歌人だった和泉式部

恋多き女性と知られていました。

 

平安時代の恋愛手段は「和歌」のやり取り。

顔を見るよりも、文字を見るほうが先であることなど珍しいことではありませんでした。

和歌で相手の心をつかむことができなければ、「恋多き女性」にはなれなかったのです。

小式部内侍は、和歌の腕前も母親譲りとあって、たちまち注目の的となります。

 

彼女は名だたる上流貴族の貴公子たちと恋を重ねました。

ことに、藤原教通藤原範永藤原公成との間には子をもうけています。

しかし、20代後半に藤原公成の子を出産した直後にこの世を去りました。

母親より早くなくなっており、母の和泉式部は嘆きの歌を残しています。 

   

母の和泉式部とは?

f:id:kiboriguma:20210408075649p:plain

和泉式部

引用:和泉式部 - Wikipedia

和泉式部は小式部内侍の母で恋多き女性として知られた歌人です。
999年頃、和泉守橘道貞の妻となり、小式部内侍を生みました。

その後、道貞とは別居状態となり冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係になりますが、身分違いの恋だとして親から勘当されます。

 

為尊親王が若くして亡くなると、その弟である敦道親王の寵愛を受けました。

敦道親王も早世すると、和泉式部藤原道長の娘である彰子の女房の一人として宮廷に仕えます。

 

そして、1013年頃に道長の家司をつとめた藤原保昌と再婚して彼の任地である丹後(京都府北部)に赴任します。

和泉式部日記』は1003年4月から翌年1月までの約10か月におよぶ和泉式部敦道親王との恋愛の成行きを記した日記文学です。

恋多き女として知られた和泉式部の心の内をうかがうことができます。

大江山の歌

大江山の歌」の登場人物

小式部内侍

和泉式部の娘。

母譲りの和歌の腕前ですでに定評がありました。

宮中で「歌合はせ」(歌会)が開かれることになり、小式部内侍も読み手の一人として選ばれました。

歌人にとって、歌会に呼ばれることは名誉であり、歌人としての実力を試される場となります。

定頼中納言

平安時代中期の歌人藤原定頼のこと。

当時の彼の官位は中納言です。

これは、左右大臣や大納言に次ぐ要職で、彼が上級貴族だったことがわかります。

もちろん、和歌の腕前にも自信を持っていて、それを鼻にかけたのが小式部内侍をからかいます。

しかし、この軽はずみな行為のせいで彼の失態が後世まで語り継がれることとなりました。

和泉式部

平安時代中期の歌人で小式部内侍の母。

このとき、和泉式部は京都におらず、夫の任地である丹後にいました。

作中で和泉式部が何かすることはありませんが、彼女の存在が「大江山の歌」の大前提となるので重要人物です。

 

 大江山の歌」のあらすじ

『十訓抄』という鎌倉時代に書かれた本に書かれている内容です。

 

母親である和泉式部が夫とともに丹後(京都府北部)に赴任していた時のこと。

娘である小式部内侍は和歌の大会(歌合はせ)に呼ばれました。

 

緊張しているであろう小式部内侍をからかってやろうと、定頼の中納言という貴族が

「丹後に派遣した使い者は帰ってきましたか?さぞや待ち遠しいでしょう」といいました。

 

母親の和泉式部の力を頼っているんだろう?といわんばかりの挑発です。

小式部内侍は「カチン」と来たのでしょう。言い捨てて去ろうとする中納言の服の裾をつかんで

 

大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

 

と即興で切り返したのです。

 

からかったつもりが、とんでもない歌を投げつけられた定頼の中納言

ふつうは、これに対して何か返歌を返します。

しかし、歌のあまりの出来栄えに「やべぇ。どうしてこんなことが」などといって、尻尾を巻いて逃げてしまいました。

小式部内侍はこの出来事以来、歌人としての名声がより高まります。

 

大江山の歌」に使われている技法

和歌の「採点」は、フィギュアスケートの採点に似ています。

どのような和歌の技法を使ったかという技術点と、和歌そのものが持つ芸術点とで評価されます。

 

まず、大江山と天の橋立は歌枕といって歌で読み上げるとポイントがあがる名所です。

 

次に、掛詞

いく」は行くと生、これに野を加えると、行く野で野原を行く、旅に出るというぐらいの意味。

生野は母のいる丹後に行く途中の地名。

大江山を越えて生野を抜けて野を行く」ぐらいの意訳になります。

 

掛詞その2は「ふみ」。

「ふみ」は文と踏み。

ということは、母の文も見ていないし、私も足を踏み入れていないという訳です。

 

これでもか、これでもかというくらい技術点を積み重ね、歌枕を上手に使って情景を描き出す。

即興で作ったとは思えないくらいの名歌です。

だからこそ、この歌は百人一首にものっているのでしょうね。

ちなみに、高校の定期テストで一番聞かれるのはこの和歌の技法の部分ですよ!

大江山の歌以外にも、百人一首には優れた和歌がたくさんあります。

大江山の歌」の教訓とは? 

この話が収録されている『十訓抄』は教訓話をおさめた本です。

では、著者はこの話から何を教訓としたかったのでしょうか?

それは、「人を侮ってはいけない」ということです。

 

本来、定頼中納言も和歌の名手であり、小式部内侍の歌に気の利いた返しができたはずです。

しかし、彼は返すどころか一目散に逃げだしました。

反撃できるはずがないと侮って軽口をたたいたところ、思わぬ優れた歌を詠まれ、面食らってしまったのでしょう。

 

この話が広まると、小式部内侍の評判は一気に高まったといいます。

現代、小式部内侍が生きていたら、さぞかしエッジのきいたブログを書いてくれそうな気がしますね。

 

ちなみに、小式部内侍と同じ平安時代に活躍した女性に清少納言がいます。

彼女に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

歌に詠まれた名勝「大江山」と「天橋立

大江山

f:id:kiboriguma:20210408214037p:plain

大江山でもっとも見晴らしがよい鍋塚

引用:大江山 - Wikipedia

 

大江山丹後半島の付け根にある山で、昔から雲海がみられる名勝として知られていました。

大江山はいくつもの峰からなる山の総称で、もっとも見晴らしがよい鍋塚からは若狭湾丹後半島を見下ろすことができます。 

天橋立

f:id:kiboriguma:20210408214236p:plain

雪舟が描いた天橋立

引用:天橋立 - Wikipedia

 

天橋立宮津湾と内海である阿蘇海を隔てる全長3.6キロメートルの砂州です。

天橋立は日本創世神話にも登場する有名な場所でした。

2021年には大学入学共通テストで出題されたことで話題になりましたね。

大江山天橋立を含む丹後半島は風光明媚で食べ物もおいしい場所です。

若狭湾の海の幸を食べながら、古代に思いをはせるのもよいのではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

函館千秋庵総本家で売っている「函館散歩」や「函館フィナンシェ」ってどんなお菓子?

f:id:kiboriguma:20181105214835j:plain

 

函館 千秋庵総本家

北海道スイーツの原点の一つは、函館にある千秋庵総本家です。

千秋庵総本家は 1860年(万延元年)に秋田藩士だった佐々木吉兵衛が創業しました。

1858年の日米和親条約で開港した箱館は多くの人でにぎわっていました。働く人たちの癒しとしての「菓子類」を販売する店として発展しました。

千秋庵はのれん分けを通じて、小樽・札幌・旭川・釧路・帯広へと広がっていきました。帯広千秋庵は、現在の六花亭のもとになった店です。

千秋庵総本家や札幌千秋庵、六花亭について知りたい方はこちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

千秋庵総本家は今でも函館市の宝来町で営業しています。

函館散歩

f:id:kiboriguma:20181105221058j:plain

 千秋庵総本家は、「山親爺」どらやきが有名なんですが、今回はあえて、新しいものを紹介します。

「函館散歩」はカステラ饅頭と銘打たれたお菓子です。

f:id:kiboriguma:20181105221258j:plain

 表面の模様はデフォルメされたハリストス正教会です。こうしてみると、なんだかかわいらしいデザインですね。

他にも、五稜郭や赤レンガ倉庫群などのイラストがあるようですよ。

f:id:kiboriguma:20181105221412j:plain

 ちょっと、写真がぼけてしまって見えにくいですが、カステラ生地の中のあんこがはいっています。これが、甘すぎずに上品な感じでとても美味しいんです。

表面がカステラなので、「洋」の雰囲気。でも、中には「和」の小豆餡が入っています。開港地函館ならではの「和洋折衷」ですよ。

食べ過ぎないように、1個だけ買ったのですが、もっと買っておけばよかったですね(笑)

 

函館フィナンシェ

f:id:kiboriguma:20181105221651j:plain

 こちらは、うってかわって洋菓子の函館フィナンシェ。

バターたっぷり生地にアーモンドを混ぜ合わせたお菓子です。これを買うまで、「よく聞くけど、フィナンシェって何?」と思っていました。たぶん、食べたことはあったんでしょうけれども、意識していませんでした。

f:id:kiboriguma:20181105221827j:plain

 袋から取り出した瞬間に「ふわっ」と漂うバターの香り。

「くどいかな?」と心配なりましたが、私は大丈夫でした。甘いのもさることながら、バターの濃厚な味が口いっぱいに広がって、何とも言えず幸せな気分に。

そして、紅茶を買ってこなかったことをいたく後悔しました。(笑)

 

これから寒くなりますが、温かいストーブの前で、美味しいお菓子を食べられたらこれに勝るストレス発散はございません。

 

どら焼きやノースマンなど有名どころの詰め合わせもオススメ!

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

通販では買えない、六花亭直営店舗だからこそ買える季節限定商品について紹介します!

f:id:kiboriguma:20181027172809j:plain

今週のお題が「ハロウィン」となりましたね。ハロウィンのシンボル「ジャック・オー・ランタン」は、ご存知の通り大きなカボチャをくりぬいて作ります。

一度作ったことがあるのですが、くりぬくだけでも一苦労!それに懲りて、あれ以来やっていません。

カボチャのイラストや写真ばかりを見ているうちに、どうしてもカボチャのスイーツが食べたくなって、六花亭に行ってきました。

函館の六花亭の中に入ると、カフェが併設されています。時間があるときはこちらでもゆっくりスイーツを楽しみたいなと思いますね。

 

六花亭の直営店は北海道にしかない

六花亭の直営店は北海道にしかありません。これは、六花亭の方針で道外に店舗を出さないと決めているからだそうです。

六花亭では、なんと、たった1個からでもお菓子を買うことができます!そんなわけで、今日もいろいろなお菓子を、1個づつ買ってきました。

 かぼちゃプリン

 f:id:kiboriguma:20181027173945j:plain

 六花亭の洋生菓子は、あまり日持ちがしません。かぼちゃプリンも今日・明日中に食べてしまわなければなりません。ということで、帰宅後すぐに食べました。

f:id:kiboriguma:20181027173957j:plain

ふたを開けるとカラメルソースでプリンが完全に覆われています。このままでは、中をうかがい知ることはできません。すかさず、スプーンを入れました。すると・・・

f:id:kiboriguma:20181027174009j:plain

濃厚でキメの細かいかぼちゃプリンの本体が現れました。均質に、かつ高い密度でつまったかぼちゃの見事な黄色!。やっぱり、かぼちゃプリンはこれでなくては、などと思いながら口に入れました。

かぼちゃの甘みが口いっぱいに広がります。 しかし、これがしつこい甘さではないんです。舌触りの良い食感とともに、「もう少し食べたい!」と思わせる味です。

プリンの上にかかっているカラメルソースは、かぼちゃの味を邪魔しない程度のほろ苦さ。絶妙なバランスだなぁと思います。 

この味で1個160円は絶対に買いですよ。

 

「新栗シャンテリー」

f:id:kiboriguma:20181027174841j:plain

これは、六花亭の直営店でないと売っていない「幻のスイーツ」です。

本州以南の方はもちろん、道民でもあまり知らないかもしれません。

職場の方から、ぜひ、食べてみてほしいと勧められた10月の限定商品です。

上に見えているのはモンブラン?のような感じのものです。その中央にクリームが乗っています。横から見ると・・・

f:id:kiboriguma:20181027175242j:plain

ちょっと画質が悪いのですが、こんな感じ。モンブラン状のものの下に、またクリームが入っています。見た目の印象は、「かなり甘そう!」でした。

基本、スイーツは好きなのですが、甘すぎて砂糖の味が強いものはちょっと苦手です。以前にもらったアメリカのお土産はちょっと砂糖が強すぎて食べるのに苦労しました。

食べてみると、これが思いのほか甘くない。

モンブラン状のものは濃厚な栗の味。甘みを抑えた栗きんとんを食べているようでした。上下のクリームはちょっと甘い感じ。ですので、全体的に栗の味が濃厚に広がるのです。

何が入っているのかと成分表を見てみると・・・

f:id:kiboriguma:20181027175624j:plain

栗・生クリーム・砂糖・ラム酒。たったこれだけ。栗の味は濃厚ですが、かといって栗一色ではありません。おそらく、ラム酒が一役買っているのですが、奥行きのある味になっています。

本当なら、「食べてみてください」といいたいところなのですが、何せ日持ちがしません。なんと、販売したその日が消費期限。まさに、幻のスイーツでした。お値段は1個300円。

六花亭の直営店に、10月に来店した人は食べてみてくださいね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

気になった方はこちらの関連記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp 

   

プライバシーポリシー お問い合わせ