「松方財政とは?」
「松方正義ってどんな人?」
「松方デフレって何?」
このページをご覧の方は、そのような疑問を持っているかもしれません。
松方財政とは、1880年代前半に実施された松方正義大蔵卿(大蔵大臣)がおこなった財政政策のことです。
主な内容は紙幣整理や日本銀行の設立、銀兌換制の確立、官営事業払下げ政策などです。
松方財政後、松方デフレとよばれる現象が発生しました。
その結果、自作農が没落したとされます。
今回は、松方正義がどんな人物か、松方財政が行われた理由、松方財政の内容、松方財政の結果おきた松方デフレなどについてまとめます。
松方正義のプロフィール
松方正義は1835年(天保6年)に薩摩藩(今の鹿児島県)に生まれました。1850年(嘉永3年)から藩の勘定所に出仕し、7年間務めます。その間、働きぶりが認められ130両の報奨金をもらったこともありました。
幕末の金1両は現代の4千円から1万円ほどと換算されるので、おおざっぱに見積もって彼がもらった報奨金は約100万円。若いころから、勘定(経理)に関する才能を持っていたことがわかります。
明治維新の直前、松方は藩の指導者である島津久光に重用され、藩の政策立案に関わりました。
明治維新後、松方は日田県の知事に就任し、別府温泉の基盤を作りました。
東京に転勤後、大蔵官僚として昇進し、内務卿大久保利通のもとで地租改正などに携わります。
伊藤博文の機転で大蔵省から内務省に転任し、1877年から翌年にかけてヨーロッパに留学しました。
1881年(明治14年)、大隈重信が明治十四年の政変で失脚すると、後任として大蔵卿に就任し、松方財政をスタートさせました。1885年(明治18年)の第一次伊藤内閣では初代大蔵大臣をつとめ、1892年(明治25年)まで大蔵大臣として財政を担当しました。
1891年(明治24年)と1896年(明治29年)に内閣総理大臣を務め、退任後は元老として国政に関与します。
松方のように、総理大臣と大蔵大臣を歴任した政治家には高橋是清がいます。
高橋是清がおこなった高橋財政について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ。
そして、1924年(大正13年)に亡くなりました。享年90歳。
東京三田にあった自宅で国葬が営まれ、青山霊園に葬られました。
なぜ、松方財政をしなければいけなかったか
なぜ松方財政が必要だったのでしょうか。その理由はインフレーション(以下、インフレ)が発生して政府が財政難に陥っていたからです。
では、なぜインフレが発生してしまったのでしょうか。インフレの原因は大蔵卿大隈重信が行っていた積極財政で市中に大量の紙幣が出回っていたからです。
大隈は産業を育成する殖産興業政策を進めるため、積極的に紙幣を発行しました。
戦費が必要となった政府は、大隈が紙幣を大量に発行させるのを止めませんでした。
すると、大量に印刷されたお札の価値が下がり、モノの値段が上がってしまうインフレが発生しました。
地租改正で、税を「現金」で納めさせていた政府は、インフレのせいで収入が激減し、財政難となってしまいます。
そのかわり、大いに儲けたのが「現物」を持っていた農民たちでした。
インフレが行き過ぎると、紙幣が紙くず同然となるハイパーインフレが発生する可能性すらあります。
ハイパーインフレについては、こちらの記事をどうぞ
松方は、行き過ぎたインフレを止め、政府の財政難を改善しなければなりませんでした。
松方財政の内容を紹介
松方は、インフレを抑えるために市中の紙幣を回収します。
そして、紙幣がちょうどよいところまで減ったところで、紙幣の価値を保障する銀本位制を導入しました。
そのために、松方がおこなった具体的な政策を見てみましょう。
増税と歳出削減による紙幣整理
松方は、世の中に出回っているお金を減らすため、様々な名目で税金を増やしました。
その一方、政府の支出(歳出)は大幅に削減します。
そうすると、
「増税で回収した紙幣」>「歳出で出ていく紙幣」
となります。
余った紙幣を、松方は処分させ流通しないようにしました。
このようにして、世の中の紙幣を減らすことを紙幣整理といいます。
松方の紙幣整理により、徐々に世の中から紙幣が減っていきました。
明治時代に限らず、日本の税制について知りたい方はこちらの記事もどうぞ。
官営工場の払い下げ
次に、松方は出費のもととなっていた官営工場をどんどん民間に払い下げます。
たとえば、政府が各地に持っていた鉱山は、古河市兵衛や岩崎弥太郎の三菱に、富岡製糸場は三井にといった具合で、払下げを実行します。
これにより、政府の支出削減に成功しました。
その一方で、払い下げを受けた民間企業は急成長のチャンスを得ます。
ちなみに、富岡製糸場は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の名で2014年に世界遺産に登録されました。
日本銀行の設立
紙幣の量を減らした松方は、いよいよ、中央銀行設立に動き出します。
1882年(明治15年)、松方の建議により中央銀行である日本銀行が設立されました。
当初は、混乱する貨幣制度の改革をすすめる役割を担っていましたが、国庫金の取り扱いなど業務が拡大していきました。
現在、日本銀行には政府の銀行・銀行の銀行・発券銀行の役割があるとされ、日本の金融の中心にあり続けています。
兌換紙幣の発行
日本銀行設立を果たした松方にとって、最後の課題となったのは兌換紙幣の発行でした。
紙幣には、金や銀(正貨)で価値が保証された兌換紙幣と、政府や中央銀行が価値を保障する不換紙幣があります。
正貨をあまり持っていなかった日本政府は兌換紙幣ではなく、不換紙幣を大量に発行していました。
しかし、不換紙幣は発行しすぎると紙幣の価値を下落させ、インフレの原因になってしまいます。
そこで、松方は金や銀の保有量しか発行できない兌換紙幣に切り替えることで、紙幣の価値を安定化しようとしました。
そのために、松方は増税や歳出削減などと同時並行で正貨の保有量を増やしていました。
1885年(明治18年)、一定量の銀を確保した松方は銀と交換可能な日本銀行券(兌換紙幣)の発行に踏み切ります。
ここに、銀を中心とする銀本位制が確立し、紙幣価値は安定。
西南戦争以来のインフレが終息しました。
松方財政の結果(松方デフレ)
松方財政はインフレを終息させましたが、その一方で副作用ともいえるデフレーション(デフレ)が発生しました。
デフレーションとは
デフレーションとは、貨幣の価値が高くなり、物の価値が下がる現象のことです。
1個100円のリンゴが、200円となれば、物の価値が上がったことになります。これがインフレです。
一方、1個100円のリンゴが、50円となれば、物の価値が下がったことになります。これが、デフレです。
インフレのとき、1,000円手に入れたければ、リンゴを5個売ればよかったのですが、デフレの時なら、リンゴを20個売らないと1,000を手に入れることができません。
このように、デフレになると物をたくさん売らないとお金を手に入りにくくなるのです。
一方、政府は紙幣の価値が上がることで事実上税収がアップし、財政難が和らぎました。
松方デフレによる自作農の没落
デフレで困ったのは農民たちでした。
インフレの時は、作物を少し売っただけで十分に地租を支払うことができました。
しかし、デフレになるとたくさん売らなければ地租を払えません。
その上、松方は増税をしていたため、農民たちはますます税の支払いに苦しみます。
すると、税を支払えなくなった自作農は土地を地主などに売り、自分は売った土地で農業労働者として働きました。
地主の土地ではたらく農業労働者を小作農といいます。
また、自作農の土地を買い集め、自らは農業をせず経営者として利益を得るようになった地主を寄生地主といいます。
こうして、戦前日本の農村でよく見られた寄生地主制の基盤が出来上がりました。
以後、敗戦後の農地改革まで、寄生地主は農村経済を支配する存在となります。
また、多額の借金を抱えた農民たちは各地の民権運動に参加し、自由民権運動を過激化させました。
まとめ
今回は、松方財政についてまとめました。
1880年代前半に行われた松方財政は、日本の紙幣の価値を安定化させ、日本の近代化に大いに貢献したとされます。
しかし、松方の政策は急激なデフレを招き、農民たちの中には税を払えずに土地を売るものが続出し、小作農が急増しました。
寄生地主と小作人という貧富の差が大きい戦前の農村社会の基盤が作られたといってよいでしょう。