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「古代の税の仕組みとは?」「大化の改新と税制度の関りとは?」「年貢っていつから使われた言葉?」わかりやすく解説します!

古代の税の仕組みってどうなっているの?

大化の改新と税制度って関係あるの?

年貢っていつ生まれた言葉?

 

このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。

古代の税制度は農民たちに口分田という土地を与え、そのかわりに稲や布を納めさせるものでした。

また、雑徭(ぞうよう)という労役も課せられます。

 

大化の改新以前、日本全土をしっかりと治める政府がなく、有力な豪族たちがそれぞれ土地を支配し、勝手に税を取っていました。

大化の改新で最強の豪族である蘇我氏が滅ぼされ、蘇我氏を倒した中大兄皇子中臣鎌足は公地公民などの新制度を導入。

中国式の中央集権国家を目指します。

 

しかし、公地公民や班田収授法といった仕組みは奈良時代後半に崩れます。

そのため、朝廷は地方の直接支配をあきらめ、国司に支配を任せました。

支配を任された国司は脱税されないよう、人間ではなく土地に課税。

土地の所有者が税を払う仕組みとします。

その税の一つが「年貢」でした。

 

今回は古代の税の仕組みついてわかりやすく解説します。?

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/927624">胡麻油</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

 

日本の税の仕組みについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

日本の税の歴史 今と昔はこんなに違う

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

 

豪族たちによる土地支配

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引用:聖徳太子 - Wikipedia

 

今から1500年近く前の5世紀から6世紀。

豪族たちの連合政権である大和朝廷がつくられました。

当時、天皇大王(おおきみ)とよばれていましたが、絶対的な存在ではありませんでした。

 

豪族たちはそれぞれに広大な私有地を支配し、多くの私有民を配下におさめています。

大王といえども、比較的有力な豪族といってよいほどの力しか持っていなかったので、場合によっては豪族たちに排除されることすらありました。

蘇我氏に排除された崇峻天皇がわかりやすい例ですね。

歴史の教科書に出てくる聖徳太子こと厩戸王蘇我氏と協調しつつ、冠位十二階などの制度を整えました。

それでも、豪族たちの土地を取り上げることなど不可能だったのです。 

大化の改新と公地公民

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引用:大化の改新 - Wikipedia

 

645年、斉明天皇の皇子である中大兄皇子と豪族の中臣鎌足は共謀して最有力豪族だった蘇我入鹿を打倒しました。

蘇我氏を滅ぼした後に行われた一連の改革を大化の改新といいます。

歴史の授業で習ったあのお話ですね。

 

大化の改新後に発布されたとされるのが「改新の詔」。

この詔で

土地と人民は天皇が支配(公地公民)

土地を農民たちに分配し税を負担させる(班田収授法)

などが定められました。

 

あまりに整った内容なので、後世に作られたのではないかという説もあります。

公地公民や班田収授法は大宝律令で正式に法律となりました。

 

「班田収授法」で土地を与えられた農民は様々な税を負担します。

まず、口分田とよばれる田を与えられた農民たちは調とよばれる税を支払いました。

さらに、雑徭という60日以内の労働もしなければいけませんで。

 

農民たちからすれば、土地を与えられるという点ではいいですが、それと引き換えに土地に縛り付けられ多くの負担をしなければならなくなったのです。

   

公地公民の崩壊

大宝律令が制定されてから20年ほどたったころ、早くも班田収授法が行き詰まりを見せました。

人口が急増したため口分田が間に合わなくなったのです。

723年、右大臣の長屋王は三世一身の法を制定し開墾を奨励しますがうまくいきませんでした。

 

三世一身の法は開拓してから3代の間は土地私有を認めるが、その後は国に土地を返さなくてはならないからです。

特に、返還寸前の3代目からするとやる気ゼロになるしくみですよね。

 

で、しょうがなく743年に墾田永年私財法を制定します。

開墾した土地は永久に私有していいよという命令ですね。

これでやる気を出したのは一般農民ではなく、多くの人を雇う力がある大貴族や大寺社でした。

三世一身の法や墾田永年私財法がだされた聖武天皇の時代について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

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大貴族や大寺社は働きたい人を募って土地を開墾。

私有地を拡大させました。こうして出来上がった私有地を荘園といいます。

 

国の口分田で働くよりも荘園の方が負担が少ないケースもあったため、重い税負担に苦しんだ人々が荘園に逃げ込むことも発生しました。

   

課税対象の変化

律令が作られたとき、課税対象は「人」でした。

租も、調・庸・雑徭も戸籍や計帳とよばれる帳面に記載された個人が負担する仕組みです。

ところが、負担するはずの人がいなくなる浮浪や逃亡が多発。

 

場合によっては、勝手に僧侶になって免税対象者となってしまうなどしたため、奈良時代後半には税制が大きく揺らぎました。

そう考えると、奈良時代後半は脱税パラダイスになっていたのかもしれませんね。

 

これでは、国の税収がなくなってしまいます。

平安時代の初期には班田収授法をしっかり行うことなどの改革を行いましたが、うまくいきませんでした。

 

平安時代の中期、京都で摂関政治が行われる頃になると、朝廷は地方を細かく支配することをあきらめます。

そして、一定の額の納税と引き換えに地方の支配を国司にほぼ任せきりにしました。

国司たちは税を確実に徴収するため、課税対象を「人」から「土地」に切り替えます。

 

土地を所有する有力農民に「官物」とよばれる土地税と臨時雑役という労役税を課すようになりました。

11世紀になると、有力農民たちは名主とよばれるようになります。

彼らは年貢という土地税と特産物である公事、労役税である夫役をおさめるようになります。

 

これでようやく、私たちが知っている「年貢」という言葉が登場するわけです。

 

次の時代である鎌倉時代でも土地に税をかけるという考え方は引き継がれ、室町・江戸と続きます。

最終的には明治時代の地租や現代日本の固定資産税へとつながりました。

   

さいごに

最初は「人」に課されていた税は、逃げられない「土地」に対する課税へと変化します。

今も昔も、税をとる側は、なるべく逃げられないところから取ろうとします。

サラリーマンの源泉徴収は、まさにその考え方ですよね。  

「韓信ってどんな人?」「韓信の股くぐりの意味とは?」「その後、韓信はどうなった?」わかりやすく解説します!

韓信ってどんな人?

韓信の股くぐりの意味とは?

股くぐりのあと、韓信はどうなったの?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

 

韓信は漢を建国した劉邦の臣下です。

指揮官として卓越した才能を持っていた韓信は多くの戦いに勝利し名声を高めました。

 

韓信の股くぐりとは、若き日の韓信に関するエピソードです。

韓信は怒りを抑え、無駄な争いに巻き込まれることを避けました。

 

後年、韓信は出世して王になります。

そして、自分に股くぐりをさせた男や自分に食べ物をめぐんでくれた老婆に褒美を与えました。

韓信について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

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今回は韓信韓信の股くぐりにエピソード、股くぐり後の韓信についてまとめます。

 

中国の歴史書史記

 

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<a href="https://www.ac-illust.com/main/profile.php?id=acworks&area=1">acworks</a>さんによる<a href="https://www.ac-illust.com/">イラストAC</a>からのイラスト

古来、中国では歴史をしるすことがとても大事だと考えられていました。

紙がまだ発明されていなかった時代、中国では青竹を火であぶり、青みを消した竹に墨で文字を書き込み紙代わりにしました。

そのため、歴史に名を残すことを「青史に名を残す」といいます。

 

人として生まれたなら、「青史=歴史」に名を残したい。

そういう切なる思いがこめられた言葉だともいえますね。

 

古代中国で最も偉大な歴史家といえば、司馬遷です。

司馬遷は父から歴史編纂の事業を引き継ぎ、中国各地をめぐって資料収集や現場証人の証言などを集め、歴史書にまとめました。

それが「史記」です。

 

史記のエピソードの一つである始皇帝暗殺については以前の記事で取り上げたことがありますので、興味がある方はそちらもご覧ください。

傍若無人の語源となった始皇帝暗殺を企てた男「荊軻(けいか)」

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あるとき、司馬遷匈奴との戦いで敗れた李陵を弁護しましたが、これが時の漢の皇帝である武帝の怒りを買い投獄されます。

そして、男性器を切断される宮刑に処されました。

非常に屈辱的な刑罰ですが、司馬遷は書きかけの「史記」を完成させるため、この屈辱に耐えます。

 

司馬遷の思いがこめられた「史記」は、単なる歴史書の枠を超え、後世の人々に歴史上の人物の生き様を伝えました。

 

司馬遷は年代順に歴史を紹介するのではなく、一人一人にスポットをあてて紹介する列伝の形式をとりました。

そのため、「史記」に取り上げられた人々は生々しいまでの人間性をもっています。

現代人の読み物としても十二分に読み応えがあると思いますよ。 

韓信のプロフィール  

淮陰公韓信・『晩笑堂竹荘畫傳』より

引用:韓信 - Wikipedia

 

韓信は秦末から漢初にかけて活躍した人物です。

 

漢の建国者である劉邦は多くの人材に恵まれましたが、中でも内政を支えた蕭何と謀略・軍略面に優れた張良とならび、実戦部隊を指揮して数々の戦いに勝利した韓信は、漢の三傑の一人として高く評価されました。

 

劉邦については、以前の記事に書きましたので興味のある方はこちらもご覧ください。

器の大きさ大陸一! 漢の高祖 劉邦

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韓信は現在の江蘇省の淮陰、当時の楚の一部に生まれます。

若いころから素行が悪く、貧乏で定職にも就かなかったため地域の人々から見下されていました。

 

始皇帝の死後、韓信は反乱軍の有力者である項羽に仕えます。

しかし、あまり高い地位に就くことはできませんでした。

韓信はしばしば項羽に進言しますが、韓信の進言はとりあげられません。

 

紀元前206年、韓信項羽を見限り劉邦の部下となりました。

一度は、その劉邦も見限ろうとしますが劉邦の腹心である蕭何に説得され劉邦の元に戻ります。

蕭何は劉邦を説得し、韓信を漢軍の総司令官である大将軍にさせました。

 

そこからの韓信の活躍は目を疑うばかりでした。

鉄壁の防御かと思われた秦の旧都咸陽を鮮やかに攻め落とし、兵法の常識をやぶる背水の陣で趙軍を撃破。

70もの城をもつ斉も攻め落とし、劉邦の天下統一に貢献します。

 

項羽と劉邦の最終決戦では劉邦軍の総司令官を務め、無敗の勇将である項羽を四面楚歌の状態に追い詰めて討ち取りました。

 

しかし、晩年は劉邦に疑われ領地没収。

反乱を起こそうとしますが、先手を打たれて捕らえられ処刑されました。 

 

韓信の股くぐり

韓信がまだ若く、地元で放蕩三昧の生活を続けていたころ、韓信は町の若者に絡まれます。

絡まれた理由は、韓信が立派な剣を持っていたことでした。

 

若者は韓信に「お前は背が高く、立派な剣を持っているが、本当は臆病者に違いない。もし違うと言うなら、お前の剣で俺を刺し殺してみろ。それが出来ないなら、俺の股の下をくぐれ」といいました。

 

街中で、こんな風にすごまれたら、たいていの人はビックリしますよね。

あるいは、相手の挑発に乗って剣で刺そうとしたかもしれません。

しかし、韓信は違いました。

韓信は無言で若者の股の下をくぐります。

 

当然、相手は調子に乗って、臆病者だ、弱虫だと散々ののしります。

それでも、韓信は反論も反撃もしませんでした

韓信は、相手を刺してもトラブルに巻き込まれ、仇として仲間に狙われるかもしれない。

そのくらいなら、一時の恥をしのんで股をくぐったほうがよいと判断したようです。

 

自分の怒りの感情を上手にコントロールすることをアンがーマネジメントと言うそうですが、このときの韓信は、アンガーマネジメントの達人といっても良いかもしれませんね。

 

股くぐりの後日談

項羽と劉邦の戦いが終わり、漢王朝が建国されると劉邦韓信を故郷の楚の王としました。

韓信は若いころに自分に飯を恵んでくれた老婆と、居候させてくれた下級役人、股をくぐらせた男を探し出させます。

 

老婆には、一番苦しいときに助けてくれたことを感謝し、老婆が使いきれないほどの大金を与えました。

居候させてくれた下級役人は、途中で韓信を追い出してしまったため、わずかな銭しか与えられません。

 

そして、股をくぐらせた男に対しては「あの時、お前を殺すことは簡単だった。だが、それでは自分の名は上がらない。ガマンして股くぐりをしたからこそ、王になれたのだ」と言って男を警察官に取り立てます。

 

呼び出された男は復讐され、残酷に殺されてもおかしくありませんでしたが、思いもかけない待遇に拍子抜けしたかもしれませんね。

さいごに

怒りに任せて、挑発に乗ったり、けんかをするのは簡単なことです。

SNSで、心無い人の発言にいちいち心を乱され、怒って書き込みをしてしまう気持ちはよくわかります。

 

しかし、韓信の股くぐりの故事は自分の怒りを抑えて「バカ」と付き合わないことの大切さを教えてくれていると思います。

古典を学ぶ意味は、過去の生き方に学ぶことだと言いますが、このときの韓信の態度は、今でも十分、学ぶべきものではないでしょうか。

 

 

「トルコってどんな国?」「トルコリラの特徴は?」「トルコの歴史や地理について知りたい!」わかりやすく解説!

トルコってどんな国?

近代トルコの歴史とは?

トルコの歴史や地理について知りたい!

 

このページをご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。

トルコはヨーロッパとアジアにまたがる国で、政教分離を国是としています。

その理由は建国者のケマル=アタテュルクイスラム教徒政治を分離したからでした。

 

近年、トルコではエルドアン大統領の政権が続いています。

エルドアン政権はイスラム教への回帰傾向が強まっているという指摘があります。

また、エルドアン大統領は金利引き上げに対し強い抵抗感を持っているため、利上げする中央銀行総裁を何度も更迭しました。

こうした利上げ反対によりトルコリラの価値は下落し、トルコリラは歴史的な安値を記録しました。

 

今回は近代トルコの基礎知識やトルコの地理、投資対象としてのトルコについてまとめます。

トルコ共和国の歴史

写真AC ケマル



第一次世界大戦がおきる前、オスマン帝国がトルコなど中東諸国を支配していました。

オスマン帝国第一次世界大戦後に領土の多くを失います。

そればかりか、隣国のギリシアがトルコの本国である小アジアに攻め込むなど、トルコは滅亡の危機に立たされていました。

トルコ共和国の建国

第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国は連合国の要求を受け入れ、領土の多くを失いました。

トルコの隣国であるギリシアオスマン帝国の弱体化を好機とみなして、トルコ領土に侵攻します。

 

無力化したイスタンブルオスマン帝国政府はギリシア軍になすすべがありません。

その時、アンカラで立ち上がったのがムスタファ=ケマル(ケマル=アタテュルク)でした。

 

ケマルはトルコ国民軍を組織してギリシア軍にゲリラ戦を挑みます。

ギリシア軍と戦う準備を整えたケマルは1921年のサカリャ川の戦いでギリシア軍に勝利。

ギリシア軍が占領していたイズミルも奪い返してギリシア軍を追い出しました。

 

国民はイスタンブルオスマン帝国政府より、アンカラのケマルの政府を支持します。

その結果、1922年にトルコ共和国が成立しました。

ケマルが定めたトルコ共和国の政治体制

ケマルは国の方針として、共和主義、民族主義、人民主義、国営主義、世俗主義、改革主義の6つを掲げます。

これにより、イスラム教が政治も宗教も支配する政教一致を否定して政教分離を成し遂げました

 

ケマルはアラビア文字を廃止し、ローマ字を採用する文字改革の実行やイスラーム暦の廃止、法律の西洋化などを進めます。

 

さらに、一夫多妻制度の廃止や女性専用の衣装であるチャドル着用の反対運動など、女性解放を進めました。

ケマルが掲げた政教分離世俗主義トルコ共和国の国是とされ、歴代政権に受け継がれました。

エルドアン政権の動向

近年、ケマルが定めた政教分離世俗主義は揺らぎつつあるといわれます。

2003年に首相に就任したエルドアンは2007年と2011年の総選挙で勝利をおさめます。

 

エルドアンが所属する公正発展党EU加盟や自由市場の維持を掲げる保守系政党ですが、同時にイスラム主義の傾向が強い政党でもあります。

 

エルドアンSNSに対して否定的な立場をとっていることでも知られる政治家です。

ツイッターFacebookYouTubeの遮断を示唆したこともあります。

実際、YouTubeを遮断させたこともありますね。

 

2014年、エルドアンは大統領選挙に勝利。政権基盤をさらに確たるものとします。

それに対し、軍の一部は2016年にクーデタを計画しました。

しかし、このクーデタは未遂に終わります。

 

国内の基盤を確立したエルドアンは北部シリアに対して侵攻をおこなうなど強権的な姿勢も見せていますので、今後も注視する必要がありますね。

 

なお、エルドアン政権はトルコリラ金利を引き下げようとする傾向があります。

金利が上昇すると国内経済に悪影響が出るからです。

もし、トルコが利下げを連発するようなら、トルコリラの下落傾向は強まるかもしれませんね。

実際、エルドアン大統領は利上げを進める中央銀行総裁を幾度も更迭しました。

そのたびに、トルコリラは下落しています。

 

トルコ共和国の地理

Turkey topo.jpgトルコ共和国の基礎データ

トルコ共和国の面積は日本のおよそ2倍。人口は約8,200万人です。

トルコの首都は小アジア内陸部にあるアンカラ

最大都市はオスマン帝国時代の首都だったイスタンブルです。

 

他にも港湾都市イズミル小アジアにあり、かつてオスマン帝国の都が置かれたこともあるブルサなども100万人を越える都市です。

 

主要民族はトルコ人国土の南東部にクルド人が居住しています。

そのほか、割合は少ないですがギリシア人やアルメニア人、ユダヤ人なども居住しています。

 

主要言語はトルコ語

使用文字はケマルの改革で定められたローマ字です。

主な宗教はイスラム教のスンニ派ですね。

トルコ共和国の地理的特徴

トルコの国土はヨーロッパとアジアにまたがっています。

また、トルコの北にある黒海と南にあるエーゲ海、地中海を結ぶという重要な場所でもあります。

 

トルコ最大の都市であるイスタンブルは交通の要衝に位置しています。

それゆえ、たびたび戦争の舞台にもなりました。

 

国土の大半を占めるのはアナトリア半島

中央部の広大な高原と海沿いのわずかな平野から成り立っています。

国土の東部にはノアの箱舟にも登場するアララト山などの高山がありますよ。

 

トルコはアルプス=ヒマラヤ造山帯の上にあり、地殻変動が活発な国。

そのため、各地に断層があり、地震が多いことでも知られています。

国内には多くの温泉があり、パムッカレは世界遺産としても知られています。

 

トルコ共和国の経済的特徴

トルコは近年急速に経済成長を遂げた新興国です。

2013年のGDPは8,200億ドル、一人当たりのGDPは10,721ドルで先進国とは言えませんが、世界平均をやや上回っています。

 

工業の中心は繊維や医療などの軽工業です。

近年、世界の大手自動車メーカーが進出したことにより自動車生産が外貨獲得の手段となりつつありますね。

進出しているのはイタリアのフィアットやフランスのルノー、日本のトヨタなどですよ。

 

鉱産資源にも恵まれています。

代表的な資源は石炭です。

近年、黒海沿岸で石油や天然ガスが埋蔵されていることがわかり、国内消費40年分以上あるとの推測もされています。

 

トルコは観光業が盛んです。首都のイスタンブルオスマン帝国時代の街並みと古代ローマの遺跡や東ローマ帝国の遺産などもあり観光資源にも事欠きません。

しかし、2020年のコロナ危機で観光業は壊滅的打撃を受けています。

 

新興国にありがちなのがインフレ。

トルコでもインフレは大きな経済問題となっていました。

2009年、100万トルコリラを1新トルコリラとするデノミネーションが行われ、2019年10月段階ではインフレは終息の方向に向かっています。

とはいえ、トルコが利上げしない方針を取ればインフレの確立が上がり、再びトルコリラの通貨価値が下落する恐れがあります。

 

トルコ投資の可能性と注意点

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トルコ投資の可能性

トルコは新興国の中でも有望視されてきました。

人口規模が大きく、国内事情は比較的安定してきたからです。

 

中進国の中でも好調だったトルコに対して投資を進める意見もインターネット上に多く見られました。

先進国に比べて政策金利が高く、スワップ金利を得やすいとしてトルコリラ投資を勧誘する記事が多数掲載されています。

 

経済中心であるイスタンブルはヨーロッパの主要都市に勝るとも劣らない活況を呈しています。

 

また、近年は黒海周辺のビジネスが活発になるにつれ、黒海南岸に領土を持つトルコの重要性も増しつつあります。

地政学的な意味でも、経済的な意味でもトルコの役割は重くなりつつありますね。

トルコ投資の注意点

とはいえ、トルコにも注意すべき点はあります。

 

一つ目はエルドアン政権の経済政策。

基本的にエルドアン政権は経済成長を優先させるため金利が高くなることを望まず、輸出促進のためのリラ安をよしとする傾向があります。

FXなどでトルコリラを「ロング」でポジショニングする場合、通貨の急落に注意が必要です。

中央銀行総裁が利上げするつど、エルドアン大統領は総裁を更迭。

利上げさせないよう誘導しました。

そのたびにトルコリラの価値は下落していますので要注意です。

 

二つ目は民族問題。

特に、国土の南東部に居住するクルド人問題はトルコにとって頭痛の種です。

ほかにもギリシアアルメニアなどとも緊張関係にあることは知っておくべきでしょう。

 

三つ目はアメリカとの関係です。

トランプ大統領がシリアからアメリカ軍を撤退させた時、エルドアン政権はすかさずシリア北部のクルド人支配地域を攻撃しました。

こうした行動が原因でアメリカと対立する可能性があります。

 

さいごに

非常に親日的で、明るく親しみやすいトルコ。

日本人にとって居心地が良い国かもしれません。

いろいろな問題は抱えていますが、トルコの安定は中東地域の安定にもつながります。

円滑に経済発展することを望みたいですね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「アフリカってどんな地域?」「アフリカの歴史や宗教はどうなっているの?」「アフリカが貧しい理由とは?」わかりやすく解説!

アフリカってどんな歴史があるの?

アフリカの宗教はどうなっているの?

アフリカが貧しい理由とは?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

アフリカは15世紀まで独自の文化が栄えていました。

しかし、ヨーロッパ人たちがやってくるとアフリカの多くの人々を奴隷として購入し南北アメリカに売り払いました。

そのせいで、アフリカ発展に必要な人間が不足し、アフリカは他地域に比べ発展が遅れてしまいます。

また、アフリカの宗教は北アフリカイスラム教、中南アフリカは旧来の宗教とキリスト教の混在となっています。

今回は、アフリカの歴史とアフリカが抱える諸問題、アフリカの可能性などについてまとめます。

 

植民地化されたアフリカ

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引用:アフリカ分割 - Wikipedia

 

15世紀以前、アフリカ、特にサハラ砂漠以南のアフリカではマリ王国ソンガイ王国といった独自の王国が繁栄していました。

状況が一変するのは大航海時代になり、海からヨーロッパ人がやってきたからです。

 

ヨーロッパ人たちは沿岸部の諸部族・諸王国と貿易をおこなうだけではなく、沿岸部の国々にヨーロッパ製の武器を売り、それらの国が戦いで獲得した奴隷を購入し、南北アメリカの大農園に奴隷として売却しました。

 

こうした奴隷貿易はアフリカの人口増加を抑制し、働き盛りの青年がアフリカから奪われるという状態をもたらします。

 

19世紀に入るとヨーロッパ人たちはアフリカ各地を植民地として直接支配します。

イギリスやフランスをはじめとするヨーロッパ諸国はアフリカ各地を勝手に分割

自分たちの都合の良い支配を行いました。

 

ヨーロッパ人がおこなった大西洋三角貿易について知りたい方は是非こちらも読んでください! 

kiboriguma.hatenadiary.jp 

アフリカの宗教

 

ヨーロッパ人が入り込む前、アフリカでは独自の文化や宗教が栄えていました。

北アフリカは早くにイスラーム教を受け入れましたが、南アフリカでは自然崇拝を中心とする独自の宗教が信仰されます。

 

シャーマンによる祈祷や部族単位の儀式など、アフリカ独自の文化が存在していました。

しかし、ヨーロッパ人たちが植民地化すると「文明化」の名のもとにキリスト教の布教が行われます。

そのため、イギリスの中核植民地となった南アフリカなどではキリスト教が広まりました。

 

例外的なものとして、古代から続くコプト教があります。

コプト教エチオピアに伝えられた古代キリスト教正教会の流れをくんでいます。

エチオピアにはイスラーム教が入りますが、内陸部を中心にコプト教が生き残りました。

 

19世紀にヨーロッパ人たちが各地を植民地化するとき、部族や宗教のことを考えずヨーロッパ人たちの都合によって国境線を引かれました。

このことが、現代でも頻発する民族紛争の原因となります。

 

同様のことが中東地域でも発生しました。

ヨーロッパ人たちの過去を責めるわけではありませんが、ヨーロッパ人による世界の植民地化が現代社会に大きな影響を及ぼしていることは知っておくべきでしょう。

 

アフリカの貿易とモノカルチャー

植民地とされたアフリカ諸国では工業がなかなか育ちません。

その理由もヨーロッパ人たちが行った植民地化にありました。

 

ヨーロッパ人たちにとって、アフリカは原料を安く供給してもらい自国の製品を買ってくれる「お客さん」でいてほしいのです。

下手に工業化して自分たちのライバルとして成長してほしいわけではありません。

 

そのため、ヨーロッパ人たちは原料の生産には熱心でも工業化には積極的に取り組みませんでした。

アフリカ諸国は原材料の輸出国が多く工業国が少ないのですが、そうなってしまったのは原材料供給中心の先進国の仕組みに取り込まれたからですね。

 

アフリカ諸国は特定の一次産品(農産物や鉱産資源)などの輸出に頼るモノカルチャー経済となっている国が多いです。

例えば、ガーナだとカカオ豆、ナイジェリアは石油、ケニアは茶などの大農園がヨーロッパ人たちによって作られました。それが現在も継承されているのです。 

 

1960年はアフリカの年

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引用:クワメ・エンクルマ - Wikipedia

 

1957年、イギリスの植民地だったゴールドコーストで生まれたエンクルマはイギリスに対して即時自治を要求する非暴力不服従運動を展開。

イギリスからの独立を勝ち取りました。

ゴールドコーストは1957年にガーナ共和国として独立を果たします。

 

エンクルマは1958年に第1回アフリカ独立諸国会議を開催。

諸国の独立を支援します。エンクルマなどの独立派に刺激されたアフリカ諸国は次々と独立。

1960年には17もの国が独立を達成したのでアフリカの年とよばれました。

 

しかし、独立したアフリカ諸国では経済的な力の弱さなどもあり政権が安定しません。

そのため、軍事独裁政権が生まれやすいという問題を抱えています。

先進国がアフリカ諸国から原材料を安く購入することで経済的に搾取する側面も否定できません。

 

アフリカと関係を強める中国

近年、アフリカ諸国との関係を強めているのが経済発展を遂げた中国です。

中国はアフリカに経済支援をおこなうだけではなく、アフリカの資源の購入や中国企業のアフリカ進出をおこなうなど経済的な結びつきを強化しています。

 

中国はアフリカの軍事独裁政権などへの援助や民族紛争への関与などで世界的な批判を浴びました。

それでも、中国のアフリカ進出は加速する一方です。 

アフリカの可能性

アフリカは「世界最後のフロンティア」とみなされつつあります。

人口は急激に増加しつつあり、地下資源が豊富だからです。

アフリカ諸国の持つポテンシャルは非常に高いものだといえるでしょう。

 

しかし、頻発する民族紛争や拡大する貧富の差、南アフリカで見られるような経済発展と引き換えの治安の悪さなど改善点も数多くあります。

 

それでも、大きな可能性を秘めた地域であることは間違いありません。

経済や投資の分野でも成長が期待されているエリアです。

 

日本ではニュースになることが少ないですが、今後も、アフリカの経済発展や動向に目が離せませんね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

獅子王と傭兵隊長が正面から戦ったリュッツェンの戦い

30年戦争やリュッツェンの戦いって何?

スウェーデン獅子王とは?

傭兵隊長ヴァレンシュタインってどんな人?

 

この記事を見てくださっている方はそのような疑問を持っているかもしれません。

リュッツェンの戦いとは、30年戦争の戦いの一つで、戦争全体の行方を大きく左右した戦いです。

スウェーデン獅子王グスタフ=アドルフとドイツの傭兵隊長ヴァレンシュタイン戦いました。

リュッツエェンの戦いはスウェーデンの勝利に終わりました。

しかし、戦いのさなかにグスタフ=アドルフが戦死してしまいました。

 

今回は30年戦争の帰趨に大きな影響を与えたリュッツエェンの戦いについて解説します。

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ドイツ30年戦争とは

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引用:三十年戦争 - Wikipedia

 

ドイツ30年戦争とは、ドイツで起きた新教徒と旧教徒による大規模な内乱のこと。

1618年のベーメン(ボヘミア)の反乱から始まった内乱は文字通り30年にわたって継続。

ドイツの国土は荒廃し、ドイツ分裂が決定的となった戦争でした。

 

30年戦争は通常、4つの段階に分けられます。

 

第一段階は神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世ベーメンプロテスタントが戦ったベーメンの内乱です。

神聖ローマ皇帝はスペインの支援を、ベーメンプロテスタントたちはオランダの支援を受けるなど、最初から国際戦争としての色合いが強い戦いでした。

 

第二段階はデンマーククリスティアン4世の参戦です。

デンマークプロテスタントの国だったので、プロテスタント諸侯に味方しました。

諸侯というのはドイツ国内で領地を持つ大貴族のことです。

この時、皇帝軍を率いたのがティリー伯傭兵隊長ヴァレンシュタインでした。

皇帝軍はすぐれた二人の指揮官の活躍もあり、デンマーク王を撃退します。

 

第三段階がスウェーデン王グスタフ=アドルフの参戦です。

スウェーデンプロテスタントだったので、プロテスタント諸侯に味方。

スウェーデン軍がドイツに侵攻しました。

スウェーデン軍と皇帝軍が真正面から激突したのが今回扱うリュッツェンの戦いですね。

 

第四段階はフランスの参戦です。

フランスは本来、旧教側なので神聖ローマ皇帝に味方するはずでした。

しかし、フランスの宰相リシュリュー神聖ローマ皇帝が強くなることを望みません。

そこで、リシュリューはあえて劣勢のプロテスタントに味方します。

 

両者とも互いに譲らず、膠着状態となった1648年、ウェストファリア条約が結ばれ戦争が終結しました。 

 

スウェーデンの「獅子王」グスタフ2世=アドルフ

現在、スウェーデンを含む北欧諸国は平和で社会福祉が充実しているという印象が強いと思います。

しかし、このころのスウェーデンはヨーロッパの中でも指折りの強国でした。

 

ドイツの有力貴族であるブランデンブルク選帝侯の娘と結婚したグスタフ=アドルフは結婚を名目にドイツ各国を訪問。

その時に得た軍事知識を用いてスウェーデン軍を近代的な軍に改変しました。

 

グスタフ=アドルフはポーランド周辺諸国と戦いバルト海制覇を達成します。

しかし、ポーランドとの戦いで負傷したグスタフ=アドルフは首と右腕を狙撃されて落馬する重傷を負ってしまいました。

この傷のため、グスタフ=アドルフは金属製の甲冑を身に着けることができなくなります。

 

スウェーデンポーランドに苦戦した理由の一つは、神聖ローマ皇帝ポーランドを支援したからです。

グスタフ=アドルフは神聖ローマ皇帝に打撃を与える機会を狙います。 

歴戦の傭兵隊長ヴァレンシュタイン

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引用:アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン - Wikipedia

 

ヴァレンシュタイン神聖ローマ帝国内の小貴族の家に生まれました。

裕福な未亡人との結婚で富を得たヴァレンシュタインは彼女の資産を使い金融や領地の殖産興業を実施。

大規模傭兵団を養う経済的な力を獲得します。

 

1618年のベーメンの反乱の時、ヴァレンシュタインは皇帝に味方します。

戦いが皇帝軍の勝利に終わったのち、ヴァレンシュタインは戦いに敗れ皇帝に没収された領地を積極的に買収。

ベーメンでも屈指の領主へと成長しました。

 

1624年、ヴァレンシュタインは自前で20,000もの傭兵部隊を編成。

皇帝軍として30年戦争に参戦します。

1625年、皇帝軍総司令官に任命されたヴァレンシュタインプロテスタント諸侯やデンマーク軍を撃破し名声を高めました。

 

しかし、あまりに目立ちすぎたこともありヴァレンシュタインは他の貴族たちの反感を買ってしまいます。

そのため、ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官を解任されてしまいました。 

 

リュッツェンの戦い

ヴァレンシュタインの後に皇帝軍を率いたティリー伯は新たに参戦してきたスウェーデンのグスタフ=アドルフの軍をブライテンフェルトの戦いで迎撃します。

しかし、グスタフ=アドルフはこの戦いでティリー伯の皇帝軍を撃破。皇帝軍は潰滅の危機にさらされます。

 

皇帝はヴァレンシュタインに再度の出馬を要請。

ヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官に復帰しグスタフ=アドルフを迎え撃つことになりました。

 

1632年11月16日、ライプツィヒ近郊のリュッツェンでスウェーデン軍と皇帝軍が激突。

激しい戦いが始まりました。

 

スウェーデン及びプロテスタント連合軍は合計2万余。

対するヴァレンシュタイン率いる皇帝軍も数の上ではほぼ同数。

ただし、大砲の数はスウェーデン軍が皇帝軍の3倍に達していました。

 

午前中の濃霧が晴れた午前11時ころ、両軍の戦いが始まります。

スウェーデン軍は皇帝軍の中央突破を図って突撃を開始しました。

スウェーデン軍は一時皇帝軍の中央陣地を占領、中央突破が成功したかに思えました。

 

しかし、ヴァレンシュタインはすかさず予備兵力を投入。

自ら陣地奪還の軍の先頭に立ち中央陣地を奪還しました。

 

この知らせを聞いたグスタフ=アドルフは中央部の歩兵を支援するため自ら騎兵を率いて突撃を図ります。

しかし、戦場を覆う濃い霧や銃砲の発射による煙幕などのせいで、周囲の状況が見えなくなったグスタフ=アドルフの部隊は周囲の見方から突出して孤立してしまいました。

 

このチャンスを見逃さなかった皇帝軍の騎兵はグスタフ=アドルフの近衛舞台に突撃を敢行。

グスタフ=アドルフは後退しようとしましたが、皇帝軍の突撃により戦死してしまいます。

 

王の戦士を知らなかったスウェーデン軍歩兵は勇戦を続けます。

そこへ、皇帝軍の援軍であるパッヘンハイムが騎兵を率いて現れ、プロテスタント軍が手薄な左翼に5度にわたって突撃を敢行。

スウェーデン軍をはじめとするプロテスタント軍を押し戻します。

 

しかし、最終的にはプロテスタント軍の攻撃が皇帝軍を上回り、ヴァレンシュタインは軍を後退させプラハに撤退しました。

 

戦術的に見ればスウェーデン軍やプロテスタント連合軍の勝利です。

しかし、偉大な王を失ったスウェーデン軍や連戦連勝をつづけたプロテスタント軍にとって、王の死は大きなダメージとなりました。 

ヴァレンシュタインの最期 

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引用:アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン - Wikipedia

 

1634年、リュッツェンの戦い後も生き延びていたヴァレンシュタインは部下によって暗殺されてしまいます。

一説には、ヴァレンシュタインの強大化を恐れた皇帝によって暗殺されたともいわれます。

まさに「狡兎死して、走狗煮らる」となってしまいました。

 

今回はドイツ30年戦争中、最大の激戦となったリュッツェンの戦いを取り上げました。

功績を立てすぎた部下は主君から見れば恐ろしい存在です。

これは、現代社会でも同じかもしれませんね。歴史は教訓に満ちているなと思います。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

「利子って何?」「利子の歴史とは?」「リボルビング払いの注意点とは?」わかりやすく解説!

利子って何?

利子にはどんな歴史があるの?

リボルビング払いの何が要注意なの?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を思っているかもしれません。

利子とは、お金を借りた人が返済するときに元本に付け加えて支払うお金のことです。

利子が生まれたのは古代でしたが、中世ヨーロッパでは禁止されます。

しかし、人間の欲望は教会による利子の禁止を有名無実化し、現在に至ります。

利子のデメリットのわかりやすい例がリボルビング払いです。

今回は、利子とは何か、利子にどんな歴史があるか、リボルビング払いの注意点などについてまとめます。 

利子とは何か

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利子について、もっとも単純に述べると以下のようになります。

金銭の貸借が行われた場合、その使用の対価として借り手が貸し手に支払う金銭。利息

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

要は、お金を借りた時に借りたことへの「対価」として、貸主に追加で支払うお金ということがいえます。

お金を貸す側からすると、借りた人が100%貸してくれるわけではないので、借り手によって利子は変わります。

確実に帰してくれそうな相手には低利子で、ちょっと返済が危ういときは高い利子をとるといいかえることができますね。

今では、カードローンやリボ払いなどでも利子は当然のようにとられます。

この利子こそ、金融機関の利益源だからです。 

 

中世ヨーロッパにおける利子

禁止されていた利子

ユダヤ教イスラーム教、キリスト教の共通の聖典である「旧約聖書」。

この中には、金もうけや金利の禁止が繰り返し登場します。

特に有名なのが「異邦人には利子をつけて貸してもよいが、あなたの兄弟に貸すときは利子をとってはならない」という規定です。

この規定のため、周囲に住む人のほとんどが「キリスト教信者=兄弟」となった中世ヨーロッパにおいて、利子をとってお金を貸すことはとても困難でした。

ユダヤ人の高利貸し 

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ヨーロッパ各地を流浪するユダヤ

引用:ユダヤ人 - Wikipedia

ヨーロッパ世界で、利子をとってキリスト教徒に貸し出す人々がいました。

ユダヤ教徒ユダヤ人です。

ユダヤ人も同胞から利子を取り立てることを禁じられていました。

しかし、彼らにとってキリスト教徒は「異邦人」なので、利息を取ってお金を貸してもよい対象でした。

ユダヤ人は封建領主や教会によって土地を持つことを禁じられることが多かったため、農業で生計を立てることが困難でした。

ゆえに、金融業に乗り出し成功するものが現れたのです。

 

ユダヤ人の高利貸しに対する警戒心が現れた作品がシェイクスピアの「ヴェニスの商人」ではないでしょうか。

ユダヤ人商人シャイロックは商人アントニオに借金と引き換えに自分の肉1ポンドを要求します。

ユダヤ商人の強欲さと、借金は身を亡ぼす可能性があることを警告しているようにも思えます。 

メディチ家の活動

 

Coat of arms of the House of de' Medici.png

引用:メディチ家 - Wikipedia

 

キリスト教徒の中でも金融業に乗り出すものが現れます。

東方貿易で財産を築いたイタリア諸都市の商人たちです。

特に、フィレンツェメディチ家は金融業で莫大な富を得ます。

教会の手前、公然と利子をとることができなかったメディチ家コジモは、諸国間の為替レートの違いを利用して利子にあたる金額を貸してから徴収することに成功します。

こうした手法は他の銀行家も取っていたと考えられます。

教会による利子の禁止は、人間の欲望の前に無力化していきました。

利子の公認 

16世紀に宗教改革が起きると利子についての考え方に大きな変化が訪れます。

プロテスタントカルヴァンは、利子を認めないことは教会の欺瞞であるとして、貧困者への高利貸しの禁止や利子率を5%以内におさめることなどを条件に利子を認めます。

同時に、カルヴァンは富を蓄えることは信仰に反することではないとも説きました

カルヴァン派の多いオランダなどでは経済活動が活発化します。 

 

複利って何?

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利子の話をすれば、避けて通ることができないのは複利です。

www.shiruporuto.jp

上のホームページの説明にもあるように、短期間であれば複利による影響はそんなに大きくありません。

しかし、借入期間が長期になればなるほど複利は威力を発揮します。

いわば、「利子が利子を生む」「お金がお金を生む」状態を作り出すことができますね。

 

お金を借りるときは利子率が低く、返済期間が短い方が複利によって利子が膨らみにくくなります。

逆に、お金を貸すときには利子率が高く返済期間が長くなればなるほど複利効果が大きくなります

 

利子が減りにくい代表例がリボルビング払いです。

いつまでたっても支払いが終わらない。

その理由は元本だけではなく利子にも利子が乗せられるから。

しかも、リボルビング払いの場合は長期にわたることが多いです。

期間が長く、利子がかかる金額(元本+利子)が減らないとあってはいつまでたっても支払いが終わらないのは当然です。

 

信販会社や銀行などがリボルビング払いを進めるのは、貸し手としては理想的な条件、つまり、利子率が高く貸出期間が長期で契約できるからですね。

利子にはプラス面もある 

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新規に事業を起こそうとした時、手元のお金が不足していれば銀行などからお金を借りる必要があります。

もし、利子がなければお金を貸す審査はとても厳重になるでしょう。

銀行は利子をとることでお金を貸しやすくしているともいえるのです。

利子についてしっかり理解することは現代社会を生きる上で必要不可欠なことではないでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

手取川の戦いとは?わかりやすく、簡単に解説!

手取川の戦いってどんな戦い?

手取川の戦いで秀吉はどんな行動をしたの?

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

手取川の戦いは、1577年に加賀国手取川の周辺でおきた戦闘で、上杉謙信軍と織田信長配下の柴田勝家軍が戦いました。

戦いは上杉軍の完勝で、織田軍は命からがら敗走しました。

 

今回は手取川の戦いについてわかりやすく、簡単に解説します。

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引用: 上杉謙信 - Wikipedia

 

手取川の戦いの背景とは?

織田家の急速な拡大

将軍足利義昭が作り上げた信長包囲網は、武田信玄の死をきっかけに崩壊しつつありました。

信長は自分の周囲の勢力を各個撃破し、京都周辺を中心に日本の中央部を支配するなど、圧倒的な力を誇っていました。

 

1575年5月21日、新暦の6月29日。

織田信長徳川家康の連合軍が武田勝頼率いる軍を長篠の戦いで打ち破りました。

最大の脅威だった武田軍団を打ち破ったことで、信長の天下取りは大きく前進します。

 

浅井・朝倉を排除し、近江から越前にかけても支配下におさめた信長は、北陸制圧に乗り出しました。 

本願寺上杉謙信の共闘

越後に本拠を置く上杉謙信は、南の北条・武田と戦っていました。

しかし、この時期は武田氏とは同盟関係にあり、北条氏は越後まで進出する気配がありません。

そのため、謙信は西の越中に勢力を伸ばします。

 

現在の富山県にあたる越中一向一揆の勢力が強い地域で、これまでも何度も上杉謙信と戦いを繰り広げてきた因縁の相手でした。

ところが、仇敵ともいえる本願寺から上杉謙信に和睦の打診が来ます。

 

いったいどういう理由で和睦の使者を派遣したのでしょうか。

 

北陸地方一向一揆で最も力を持っていたのは加賀の一向一揆でした。

15世紀に守護の富樫氏を滅ぼしてから、一向一揆が加賀一国を支配する体制を築いていたからです。

しかし、加賀一向一揆は信長軍の柴田勝家の攻撃よって大打撃を受けます。

 

事態を憂慮した本願寺上杉謙信に使者を派遣、対信長で共闘を申し出ました。

謙信は、将軍足利義昭を助け、室町幕府を再興するため本願寺と共闘し信長と戦う決意を固めます。

 

七尾城攻略戦 

1576年11月、上杉軍は能登畠山氏の居城である七尾城を包囲していました。

七尾城は日本海海運の要衝で上杉軍の上洛の時に無視できない位置にある城でした。

 

当時の畠山氏の当主は幼く、城中は織田派と上杉派に分かれて争っていました。

上杉軍が接近する中、織田派が七尾城内で優位に立ち上杉軍と戦うため七尾城に籠城することが決められます。

 

七尾城は山の上に築かれた天然の要害で、力攻めで容易に落ちる城ではありません。

七尾城内の織田派は、信長に援軍を請う使者を派遣しました。

信長はこれに応え、柴田勝家羽柴秀吉ら50,000の大軍を七尾城救援に差し向けます。

 

謙信は同盟関係となった本願寺に、織田軍の進軍阻止と妨害活動を依頼しました。

このため、柴田軍は思うように進むことができません。

 

断続的に包囲が続いた七尾城では、幼少の主君である畠山春王丸が病死。

城中の士気が著しく低下しました。

これをチャンスと考えた謙信は七尾城中の上杉派を動かし織田派の家臣を排除。

七尾城を降伏・開城させることに成功します。

手取川の戦い

羽柴秀吉軍の撤退

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独断で撤退した羽柴秀吉

引用:豊臣秀吉 - Wikipedia

 

七尾城救援に向かう柴田軍の内部で、足並みの乱れが生じます。

柴田勝家とともに七尾城救援を命じられていた羽柴秀吉が独断で撤退しました。

撤退の理由など詳しい事情はわかっていませんが、以前から柴田勝家羽柴秀吉はそりがあっていません。

そのことが原因で、秀吉が勝手に撤退してしまったのかもしれません。

この知らせを聞い信長は激怒します。

無許可での撤退は信長の怒りを買うこと必定でした。

秀吉にそれがわからなかったはずがありません。

それでも撤退したのですから、単なる不仲以上の理由があったのかもしれませんね。 

戦いの始まり

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手取川

引用: 手取川 - Wikipedia

 

一向一揆による妨害や、近畿地方で起きた松永久秀の謀反などにより進軍が遅れていた信長軍はようやく加賀北部に達します。

しかし、主将の柴田勝家は七尾城が陥落したことを知りません。

 

上杉軍が七尾城を包囲していると考えていた柴田勝家は背後を突くべく軍を北上させたのです。

柴田勝家が七尾城陥落と上杉軍の接近を知ったのは手取川を渡った後でした。

勝家は手取川を背に戦うことは危険だと考え、即座に川を渡って撤退しようとします。

 

しかし、謙信の動きは勝家の想定よりはるかに早いものでした。

川を渡ろうと背を向けた時に上杉軍の急襲を受けた柴田軍は混乱状態に陥り、多数の戦死者を出します。

 

謙信は、川中島の戦いの時も機動力を生かして武田軍の不意を突いた経験があります。

謙信にとって機動戦はもっとも得意な戦法だったのでしょう。

合戦後、「上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長(信長)」という落首が残されました。 

上杉謙信の急死

KasugayamaCastle-print.jpg引用: 春日山城 - Wikipedia

 

手取川で勝利した上杉謙信は本拠地の春日山城に帰還します。

12月には次の大遠征をおこなうべく領内に大規模な陣ぶれを出しました。

出陣を6日後に控えた1578年3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、そのまま息を引き取りました。

謙信の死後、養子の景勝と景虎が後継者をめぐって争う御館の乱がおきて上杉氏の勢力は大きく衰退してしまいます。

歴史にifはないですが、謙信が倒れていなければ、近畿地方でどのような戦いが繰り広げられたのでしょうか。

 

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