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「石橋山の戦いってどんな戦い?」「どっちが勝った?」わかりやすく解説!

石橋山の戦いってどんな戦い?」

「石橋山の場所はどこ?今の何県?」

石橋山の戦いは、誰と誰が戦って、どっちが勝った?」

 

このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。

 

石橋山の戦いは、源頼朝率いる源氏方300騎と大庭景親率いる平氏方3,000騎が神奈川県小田原市と真鶴市の間にある石橋山で激突した戦いでした。

戦いは、数に勝る大庭景親率いる平氏方の勝利に終わります。

敗れた頼朝は伊豆の山中に逃げ込み、真鶴から脱出し対岸の安房に落ち延びました。

 

今回は、頼朝が敗れた石橋山の戦いについてまとめます。

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源頼朝

鎌倉市の源氏山公園にある源頼朝の座像 - No: 22109248|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

 

石橋山の戦いの主な登場人物

石橋山の戦いは、頼朝にとって大きな挫折を伴う戦いでしたが、同時に、のちの鎌倉幕府を構成する重要人物たちが登場した戦いでもありました。

ここでは、源氏方・平氏方の人物について解説します。

源氏方

源頼朝

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源頼朝
源頼朝 - Wikipedia

清和源氏の一派である、河内源氏源義朝の子。

父義朝が平治の乱で敗れると、平清盛の母である池禅尼によって助けられ、伊豆へ流刑とされました。

平治の乱について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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伊豆に流された頼朝は、伊豆の豪族北条時政の娘、政子と婚姻を結ぶことで北条氏との関係を深めました。

伊豆に流された頼朝を支えたのが比企尼です。

 

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比企氏について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

1180年、後白河法皇の皇子である以仁王平氏追討の令旨を全国に発すると、頼朝もこれに答えて挙兵。

北条時政らとともに監視役の伊豆国目代山木兼隆を討ち取り、味方する三浦氏と合流するため北上を開始した。

石橋山の戦いに敗れたのち、安房に脱出。

千葉氏などの関東の諸豪族の支持を受け、鎌倉に入城。

その後、富士川の戦い平氏を打ち破り鎌倉幕府を樹立します。

北条時政

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北条時政
北条時政 - Wikipedia

北条時政伊豆国田郡北条を拠点とした豪族です。

娘の政子が伊豆国に流刑とされていた源頼朝と親しくなると、最初は反対します。

しかし、政子が時政の館を抜け出し、「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と語るような駆け落ちをしたため、時政は頼朝と政子の婚姻を認めました。

頼朝が挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を襲撃した際、時政もこれに加わります。

そして、頼朝と共に三浦半島に向けて進軍します。

北条宗時

北条時政の嫡男

16歳で初陣を飾った時、戦いで右腕を失ったという伝説がありますが、定かでありません。

頼朝が挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を襲撃したときには父の時政、弟の義時とともに襲撃隊の先頭に立って戦いました。

石橋山で大庭景親に敗れた宗時は、甲斐に向かって逃れる途中に伊藤祐親の軍に囲まれ、討ち取られました。

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北条宗時の墓
C2revenge - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=86570503による

北条宗時 - Wikipedia

北条義時

北条時政の子で、宗時の弟。

父と共に頼朝の挙兵に参加したが、石橋山の戦いで敗北。

追手を振り切って、のちに頼朝と合流し富士川の戦い平氏に勝利します。

頼朝の死後、北条時政が失脚したのちは幕府の中心人物として幕政を動かしますが、後鳥羽上皇から討伐の院宣を受けてしまいます。

しかし、姉の政子とともに鎌倉の御家人たちを団結させ、後鳥羽上皇の軍に勝利します。(承久の乱

義時が子の泰時と共に、承久の乱後に作った執権政治の仕組みなどについて知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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従来、悪役として描かれることが多かった義時ですが、2022年の大河ドラマの主人公となったことで、印象が変わるかもしれません。

平氏

大庭景親

相模国の豪族で、平氏の忠実な家人。

保元の乱では源氏の源義朝に属していましたが、平治の乱後には平氏に接近し、相模国内での立場を強化します。

頼朝の挙兵を知った景親は、3,000騎を率いて相模湾沿いを南下し、石橋山に着陣します。

戦いは景親の勝利に終わりますが、肝心の頼朝を取り逃がしてしまいました。

後に、頼朝が兵力を増強すると立場が逆転し、一転して劣勢となります。

富士川の戦いで源氏が勝利すると、景親はとらえられ処刑されました。

伊東祐親

伊豆国の豪族で、頼朝の監視役の一人。

祐親が京都に大番役で出張している最中に娘の八重姫と頼朝が結ばれ、鶴丸という男子を設けてしまいました。

これを知った祐親は、平氏の怒りを恐れ千鶴丸を川にしずめて殺害。

頼朝も殺そうとしますが、頼朝は伊豆山神社に逃げ込み、その後は北条氏の庇護を受けました。

石橋山の戦いでは大庭景親と共に頼朝と戦って勝利します。

富士川の戦いの後は、立場が逆転し、とらえられてしまいました。

その後、娘婿の三浦義澄の嘆願で助命されますが、潔しとせず、自害します。

梶原景時

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梶原景時
出典:Wikipedia梶原景時

梶原景時 - Wikipedia

相模国の豪族。

大庭氏と同族であり、最初は源氏方、平治の乱後は平氏方についていた。

石橋山の戦いでは大庭景親とともに頼朝と戦い勝利します。

戦いの後、山中に隠れていた頼朝の居所を知りますが、景親らを偽って別の場所に案内し、頼朝を逃がしました。

源平盛衰記』には、景時と頼朝が顔を合わせたエピソードが記されています。

平氏方に見つかったと思った頼朝が自害しようとするのを止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と頼朝に話すと、景親らを別の場所に誘導したといいます。

その後、景時は頼朝に降伏し、頼朝の信任厚い武士として権勢をふるいました。

源義経と対立したこともあり、そのせいで悪役として描かれることも多い人物です。

頼朝の死後、頼家を支える十三人の御家人の一人となりますが、他の御家人と対立し、自害に追い込まれます。

熊谷直実

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熊谷直実
出典:Wikipedia熊谷直実

熊谷直実 - Wikipedia

武蔵国の豪族。

大庭景親の率いる軍に参加し、頼朝と戦い勝利します。

頼朝が勢力を回復し、再び軍を立て直すと、直実は頼朝に従います。

平氏追討の戦いである一の谷の戦いでは、源義経に従い平敦盛を討ち取ります。

この場面が、古典でよく扱われる『敦盛の最期』です。

『敦盛の最期』について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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畠山重忠

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畠山重忠
出典:Wikipedia畠山重忠

畠山重忠 - Wikipedia

武蔵国の豪族。

石橋山の戦いでは、平氏方の一員として頼朝と戦い勝利します。

石橋山の戦いの後、頼朝に味方する三浦氏のこもる衣笠城を攻撃し、陥落させます。

その後、頼朝に降伏し、有力御家人として幕府成立に尽力しました。

源平盛衰記』では、木曾義仲の愛妾巴御前と一騎打ちをしている場面が描かれました。

また、一の谷の戦いでは愛馬を傷つけるのを恐れ、馬を背負って崖を降りたといいます。

幕府創業の功臣でしたが、頼朝死後の権力闘争に巻き込まれ殺害されました。  

石橋山の戦いの流れ

頼朝挙兵

1180年8月17日、以仁王の令旨を受け取った頼朝は北条時政らとともに挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討ち取りました。

しかし、頼朝の配下はわずか300騎で、このままでは平氏方の反撃により滅ぼされてしまう可能性が高かったため、頼朝は有力な味方である三浦氏を頼ろうとします。

そのことを知った大庭景親は、3,000騎の軍を整え、頼朝の前に立ちふさがりました

石橋山での激突

頼朝軍300騎は、相模国足柄郡の石橋山に陣を構えます。

一方、大庭軍は谷一つを隔てて、頼朝軍と対峙します。

そのころ、平氏方の伊東祐親は300騎で頼朝の背後に軍を進めていました。

頼朝は援軍の三浦勢が到着してから戦おうとしましたが、三浦軍は酒匂川の増水に阻まれ、いまだに戦場に到着していませんでした。

そこで、大庭景親は機先を制するため、頼朝軍に夜襲を敢行します。

戦いの始まりに、北条時政大庭景親が「言葉戦い」を始めました。

時政が、源氏に従った鎌倉氏の子孫である大庭景親が、なぜ、頼朝を討つのかと問うと、景親は「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じます。

戦いが始まると、数に勝る大庭軍は頼朝軍を圧倒。

頼朝軍は伊豆の山中に逃げ込みました。

頼朝の逃避行

山中に逃げ込んだ頼朝軍は、各個に奮戦しますが、最終的に逃げるしかありませんでした。

頼朝は大庭軍に追い詰められ、一時は自害を覚悟しますが、梶原景時の機転により脱出に成功。

その後、真鶴半島から船で対岸の安房に落ち延びます。

北条時政と義時は甲斐に逃げ、甲斐源氏と共闘しました。

しかし、北条宗時佐奈田義忠は、大庭軍に討ち取られてしまいました。

石橋山の戦い後の頼朝

安房に逃れた頼朝は、房総半島の大豪族である上総広常千葉常胤を味方につけて勢力を挽回。

10月2日には武蔵国に入りました。

それを知った武蔵の諸豪族は次々と頼朝に従います。

そして、1180年11月9日、甲斐源氏武田信義とともに富士川の戦い平氏を打ち破り、関東での勝利を確実なものとします。

富士川の戦いの後、頼朝は西に軍を進めず、鎌倉を本拠地として勢力を固めました。

まとめ

石橋山の戦いは、頼朝にとって大きな危機でした。

しかし、戦いの後も生き延び、房総半島で勢力を回復できたことで、平氏方を逆転することができました。

序盤の大きな危機を乗り越えたことで、頼朝は歴史の表舞台で活躍できる力を得たといってよいでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

「エネルギー革命って何?」「石油危機と何が違う?」「再生可能エネルギーとは?」わかりやすく解説!

「エネルギー革命って何?」

「エネルギー革命と石油危機は何が違うの?」

再生可能エネルギーとは?」

 

このページをご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。

 

エネルギー革命とは、

エネルギー資源が急激に交替すること

出典:エネルギー革命とは - コトバンク

産業革命後におきた木炭から石炭への交替や、第二次世界大戦後におきた石炭から石油への交替がその代表です。

 

特に、戦後におきた石炭から石油へのエネルギー革命は日本に大きな影響を及ぼし、石油危機の根本的な原因となります。

 

近年、環境問題への意識の高まりから再生可能エネルギーへの注目が集まっています。

再生可能エネルギーの普及や、最近新たに登場してきた新エネルギーなどエネルギー事情は大きな転換点を迎えています。

今回はエネルギー革命や石油危機、再生可能エネルギー、新たなエネルギーなどについてわかりやすく解説します。

 

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革命のイメージ

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エネルギー革命とは

エネルギー革命とは、主に使用されているエネルギー源が他の資源に急激に置き換わる現象のことをさすことばです。

人類が社会を作るようになって以来、人々は集住してモノ作りに励んできました。

しかし、それはあくまで手作業によるもので機械を使うものではありませんでした。

それが、産業革命により蒸気機関を使うようになると人々の生活は劇的に変化します。

使うエネルギー源の変化から、エネルギー革命を2つに分けて考えてみましょう。

なお、今回は人類が火を使うようになったことは除いて考えます。

第一次エネルギー革命

産業革命の直後、人々は水力や蒸気の力で機械を動かしていました。

蒸気を発生させるためのエネルギー源となったのが薪や木材からつくる木炭です。

やがて、より強い火力が必要となると、エネルギー源は薪や木炭から石炭へと変化しました。

これを第一次エネルギー革命とします。

第二次エネルギー革命

19世紀後半から20世紀にかけて、新しいエネルギー源として石油が使用されるようになりました。

一般的にはこの石炭から石油へのエネルギー源の転換をエネルギー革命とよびます。

エネルギー源が固形燃料である石炭から液体燃料である石油に変化することで、産業はより一層発達。

石油を燃料とする船舶や自動車、航空機が活躍するようになり、物流量が飛躍的に増加しました。

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かつて炭鉱があった長崎県端島軍艦島
軍艦島の写真素材|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

日本では1960年代にエネルギー革命が急速に進行

それまで、黒いダイヤとしてもてはやされた石炭は次第に用いられなくなり、各地の炭鉱が相次いで閉山されました。

 

長崎県にある端島炭鉱は、島全体が石炭採掘のために開発され、その外観から「軍艦島」の通称で知られています。

首都圏から端島に行くには東京⇒長崎の航空便を使い、その後、長崎市に移動し現地のツアー会社が企画する軍艦島ツアーに参加するのが良いでしょう。

石油危機の影響

日本のエネルギー源が石炭から石油に置き換わった1970年代に、2度にわたって起きたのが石油危機でした。

石油危機の原因は中東戦争イラン革命です。

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石油製品価格の変化

石油がとまると何が起こるのか? ~歴史から学ぶ、日本のエネルギー供給のリスク?|広報特集|資源エネルギー庁

1973年に第4次中東戦争が勃発。

アメリカがイスラエルを支援していたため、イスラエルと戦うアラブ諸国を支援するため、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油価格を引き上げました

これを石油戦略といいます。

すると、石油価格がみるみる上昇しました。

石油価格の高騰は石油を中東に依存していた先進国に大きな打撃を与えます。

第4次中東戦争に端を発する1973年の石油危機を第一次石油危機といいます。

 

第一次石油危機がおきると、日本で物価が高騰します。

もともと列島改造により地価が急上昇していたものに石油危機が拍車をかける形となりました。

1974年の物価上昇率は23%となり、「狂乱物価」という言葉さえ生み出しました。

物価を引き下げるため、日本銀行は銀行への貸出利率である公定歩合を引き上げました。

そのため、景気が悪化し、高度経済成長が終わりを迎えます

トイレットペーパーの買い占めなどがおきたのも、第一次石油危機でした。

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ホメイニ師

ルーホッラー・ホメイニー - Wikipedia

また、1979年にはイラン革命が引き金となって第二次石油危機が起きました。

イラン革命について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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イラン革命で成立したイラン=イスラム共和国は、欧米の石油会社(メジャー)が独占していたイランの原油資源を国有化します。

さらに、ホメイニ師は資源保護を理由に原油生産量を大幅に減らし、一時は輸出停止にさえ踏み込みました。

このため、石油価格が高騰し第二次石油危機となります。

石油価格がまたも上昇し、日本を含む石油輸入国は大きな影響を受けます。

しかし、第一次石油危機の反省を踏まえ、政府も国民も冷静な対応をとったため、社会的混乱は少なくすみました。

現代日本の電源構成

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日本の電源構成

3E+S | 日本のエネルギー 2020年度版 「エネルギーの今を知る10の質問」 |広報パンフレット|資源エネルギー庁

電気をつくるために、どのような資源に頼っているかを「一次エネルギー供給」といいます。

また、電源構成とは電力を供給するための電源の組み合わせのことです。

 

2018年段階では一次エネルギーに占める石油・石炭・天然ガスなど化石燃料の割合が86%、電源構成に占める化石燃料の割合が77%です。

政府は原子力再生可能エネルギーの割合を増やすことで、化石燃料に依存する割合を減らそうと考えています。

電源構成は共通テストでよく出題されますが、この部分を苦手とする学生が結構いました。

再生可能エネルギーの利用

再生可能エネルギーとは

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再生可能エネルギーの種類

制度の概要|固定価格買取制度|なっとく!再生可能エネルギー

出典:資源エネルギー庁 制度の概要|固定価格買取制度|なっとく!再生可能エネルギー

太陽光・風力・地熱・中小水力・バイオマスといった再生可能エネルギーは、温室効果ガスを排出せず、国内で生産できるエネルギーとして注目を集めています。

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各国のエネルギーミックス

総論|再エネとは|なっとく!再生可能エネルギー

ヨーロッパを中心に、世界各国は化石燃料を使う火力発電から再生可能エネルギーへと切り替える動きが加速させています。

しかし、日本は諸外国と比べると再生可能エネルギーの割合が低い状態です。

 

利用普及を図るための再エネ賦課金

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再エネ賦課金の仕組み

制度の概要|固定価格買取制度|なっとく!再生可能エネルギー

政府は再生可能エネルギーの普及を図るため、電力利用者に「再生可能エネルギー発電促進賦課金」(以下、再エネ賦課金)を負担させる仕組みをつくりました。

再エネ賦課金は電力会社が電力料金に上乗せする形で徴収します。 

今注目の新エネルギーであるアンモニアとは?

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アンモニアの用途

アンモニアが“燃料”になる?!(前編)~身近だけど実は知らないアンモニアの利用先|スペシャルコンテンツ|資源エネルギー庁

アンモニアは、以前から肥料として生産されていました。

近年は、ガスタービンの原料や石炭火力発電に混ぜて燃やす混焼材などの用途が研究されています。

アンモニアは、液化して輸送する技術が確立しているので、輸入しやすいというメリットがあります。

アンモニア天然ガス再生可能エネルギーで生産可能で、天然ガスに変わる国内資源を見つけることができれば、自給できる可能性もあります。

また、アンモニアを石炭火力発電所で石炭と一緒に燃焼させると、二酸化炭素を大幅に削減できることがわかっていますので、アンモニアの混焼は温暖化対策としても有効です。

まとめ

今回は、エネルギー革命についてまとめました。

エネルギー革命とは、主要なエネルギー資源が急速に交代することで、日本では石炭から石油に転換したことをさすことが多いです。

石油を中東諸国からの輸入に頼るようになった日本は、二度の石油危機に遭遇し、経済的に打撃を受けました。

世界的な温暖化対策の一環として進められる二酸化炭素排出量の削減に応じ、日本でも再生可能エネルギーへの転換が始まっています

それと同時に、新たなエネルギー源としてアンモニアにも注目しています。

今後の研究開発が期待されますね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

「「扇の的」ってどんな話?」「那須与一をはじめ登場人物の心情は?」「扇の的のあらすじとは?」わかりやすく解説します!

「扇の的ってどんな話?」

「扇の的の主人公、那須与一はどんな人?」

「扇の的のあらすじや登場人物の心情について知りたい!」

 

このページをご覧の方はそのようなことをお考えなのではないでしょうか。

 

「扇の的」は鎌倉時代に成立したと考えられる『平家物語』の一節です。

平家物語』の第十一巻の「那須与一」と「弓流」の部分が古典の教材として取り上げられてきました。

源平合戦の一つである屋島の戦いでの那須与一の活躍を描いたのが「扇の的」です。

 

今回は「扇の的」の登場人物や屋島の戦いの内容、登場人物の心情などについてまとめます。

 

この記事で分かること

・登場人物のプロフィール

屋島の戦いの大まかな内容

・「扇の的」のあらすじ

・登場人物の心情

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出典:写真AC:https://www.photo-ac.com/main/detail/4562113?title=%E5%BE%A1%E8%88%9E%E6%89%87&searchId=3642471521

 

扇の的の登場人物

那須与一(なすのよいち)

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那須与一

出典:那須与一 - Wikipedia

那須与一鎌倉時代初期の武士です。

下野国(栃木県)那須御家人でした。

名は宗高といいます。

義経に従い、屋島の戦いで活躍しました。

 

竿に旭日の扇を掲げて漕ぎ出した平家の小舟を見た義経が、与一に命じて竿の先端にある扇を射落とします

 

源平合戦が終わってから、那須与一は扇の的を射落とした功績で諸国に5つの荘園を得たとされます。

源義経

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源義経

出典:源義経 - Wikipedia

源義経鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝の弟で幼名は牛若丸といいます。

平治の乱で父の源義朝が殺されると、京都近郊の鞍馬寺に預けられました。

その後、陸奥を治めていた藤原秀衡の保護を受けて成長します。

藤原秀衡をはじめとする奥州藤原氏について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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1180年、頼朝が挙兵すると義経は兄のもとに駆け付けともに平氏打倒を目指します。

1183年、先に入京していた源義仲木曽義仲後白河法皇の関係が悪化すると、法皇は頼朝に義仲追討を命じます。

法皇の求めに応じた頼朝は、義経らに木曽義仲の追討を命じました。

そして、1184年1月に義経らは木曽義仲を打ち取ります

木曽義仲の最期について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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京都に入った義経は、引き続き平家と戦います。

義経軍は一の谷の戦い屋島の戦いで勝利を重ねました。

一の谷の戦いのさなかにおきたの「敦盛の最期」の悲劇でした。

敦盛の最期について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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そして、1185年の壇ノ浦の戦い義経は平家を滅ぼします。

その後、義経は兄の頼朝と対立、再び奥州に逃れますが、頼朝の威を恐れた藤原泰衡によって攻め滅ぼされました

伊勢三郎義盛

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伊勢三郎

出典:伊勢義盛 - Wikipedia

伊勢三郎義盛源義経の郎党で、義経四天王の一人に数え上げられます。

壇ノ浦の戦いでは平氏の総大将平宗盛と子の平清宗をとらえました。

終生、義経に忠実な人物で頼朝と義経が対立した時も義経に従い奥州に向かおうとしました。

 

しかし、船が流され義経と離れ離れになり、鈴鹿山でとらえられ斬首されました。

義経の伝記である『義経記』では、衣川で義経と最後まで戦ったと描かれます。

 

「扇の的」では、平氏の老武将を射るのをためらう那須与一に「義経の命令だ」として老武将を射させます

年が五十歳くらいの男

那須与一が扇の的を射落としたとき、その見事さに感嘆し戦場で舞い踊った老武士

舞を見た義経は、那須与一にこの老武士も射るよう命じます。

はじめ、与一は射ることをためらいますが、伊勢三郎義盛から「義経の命令だ」といわれ、やむなく、老武士を射殺します。 

屋島の戦いとは

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屋島古戦場の写真

出典:屋島の戦い - Wikipedia

屋島の戦い源平合戦とよばれた治承寿永の乱の戦いの一つです。

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屋島は現在の高松市にありました。

平氏屋島を根拠地に瀬戸内海の制海権を握っていたため、源氏の西上作戦はうまくいきませんでした。

事態を打開するため、義経梶原景時らの反対を押し切って暴風雨の中、少数部隊だけで四国に上陸します。

源氏が四国にわたってきていると思っていなかった屋島平氏を奇襲攻撃

不意を衝かれた平氏安徳天皇を奉じて西に逃れました

平氏屋島から追い払ったことで、瀬戸内海の制海権は源氏に移ります

「扇の的」のあらすじ

「扇の的」の直前の様子

「扇の的」は屋島の戦いの勝敗がほぼ決し、平氏の軍勢が海に逃れ義経率いる源氏が波打ち際まで押し寄せているときの場面です。

 

海に逃れた平氏の軍船から、1隻の小舟が波打ち際に近づいてきます。

小舟には日の丸の扇が掲げられており、美しい女が手招きしていました。

 

それを見た義経は側近を呼び「どういう意味だと思う?」と尋ねると、側近は「射よ、という意味でしょう。義経様が自ら出ていけば狙撃される可能性があるので、別のものに射落とさせるべきです。」と助言します。

 

そこで、義経が指名したのが那須与一でした。

「扇の的」のあらすじ

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扇の的を打ち抜く場面

出典:屋島の戦い - Wikipedia

矢の射程距離から遠かったので、与一は海に馬を乗り入れます。

その日は冬の2月18日で与一にとって向かい風の北風が強く、波も荒いものでした。

海には平氏の軍船、陸には源氏の騎馬武者たちが並び、晴れがましい様子です。

 

与一は「南無八幡大菩薩、生まれ故郷の神の日光権現、宇都宮大神、那須の温泉大明神よ、どうかあの日の丸の扇の真ん中を私に射させてください。これを射そこねたら私は自害する覚悟です。

私をもう一度生まれ故郷に返して下さるお気持ちがあれば、この矢を外させないでください。」と神や仏に祈りました。

 

与一は矢を射やすいタイミングを待って「ひょう!」と矢を放ちます。

矢は扇の要から3センチほどのところに見事に命中!。

矢は海中に落ち、扇は空に舞い上がって、そのまま海に落ち波間に漂いました。

 

これをみた平氏の老武将があまりの素晴らしさに感動して舞い始めます。

義経側近の伊勢三郎義盛は、与一に近づき、「義経様のご命令だ。あのものも仕留めよ」と伝えました。

与一は迷いますが、老武将の首の骨を射ぬき射倒します。

 

平氏の者たちは静まり返り、源氏の者たちはえびらを叩いてどよめきました。

「あ、射落とした」という者もいれば、「”情け”のないことをするものだ」という者もいたといいます。

登場人物の心情

「扇の的」は登場人物や見ている人々の心情に注目する作品です。

それぞれ、どのような気持ちをしていたのか読み解いてみましょう。

那須与一

はじめ、与一は義経の命令を断ります。

しかし、それが許されず仕方なく波打ち際までやってきました。

とはいえ、一度引き受けた以上は断れないのが鎌倉時代の武士。

与一は覚悟を決めて的を射抜こうとします

与一は目を閉じ、神仏に的を射抜かせてほしいと願います。

神仏に祈る与一からは緊張と必死さが伝わります

的に当てて一息付けたのもつかの間、今度は踊る老武士を射よと命じられます。

伊勢三郎義盛から義経の命令を聞いた与一は、戦い用の中差の矢を老武士の喉元めがけて放ちました。

戦い用の中差の矢を放ったことから、与一は老武士を打ち取るつもりだったことがわかります。

本文だけからは、与一の心情はわかりません。

しかし、戦い用の矢を放ったことから、与一が覚悟を決めて矢を放ったことがわかります。

一度ならず二度までも素晴らしい弓の腕前を見せた与一に、源氏の武士たちは箙を叩いてどよめきました。

 

 

源義経

義経は源氏の大将という立場にいました。

屋島の合戦ではかったものの、平氏の挑発ともいえる「扇の的」は是非とも射抜かせなければなりませんでした。

戦いに勝っても「なめられた」とあっては、源氏の面目丸つぶれです。

ただ、平治の乱後に山中や東北で育った義経には、平氏のもつ都人の雅(みやび)に対する関心が薄かったのかもしれません。

老武士の踊りを見ても、ほめたたえているというより、何やら挑発めいた行動に見えたのではないでしょうか。

平氏の老武士

都を長く支配した平氏の武士たちは、都独特の雅さを愛でる感性を持っていました。

那須与一の神業ともいえる弓の腕前に対し、敬意を表し舞い踊ったのでしょう。

ですから、彼に挑発の意思はなく、本文の通り、面白さ(興趣)のあまり、自らも芸でお返しをしたくなってしまったのでしょう。

その彼を与一が殺してしまったので、平氏がたは「源氏の田舎者はもののあわれ(情)がわからない」と思ったのかもしれません。

まとめ

「扇の的」は、『平家物語』の一節です。

主人公は那須与一で、彼が「扇の的」を射抜く物語でした。

この話は単なる武勇伝ではなく、源氏と平氏の違いや「情」について考えさせられる物語です。

試験では与一の心情についてよく聞かれるので、しっかり確認しましょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

   

「令外官って何?」「どの令外官が入試に出る?」超わかりやすく解説!

令外官って何?」

「どの令外官が入試に出るの?」

 

このページをご覧の皆さんはそのようにお考えかもしれません。

令外官とは、律令の定めになく、あとから設置された特別職です。

よく出る令外官征夷大将軍勘解由使(かげゆし)蔵人頭(くろうどのとう)、検非違使(けびいし)の4つです。

この4つは職の内容と誰が設置したかがよくきかれます。

 

今回は「令外官」について超わかりやすく解説します。

なお、平安時代の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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出典:イラストAC

 

令外官とは

いつから始まった?

大宝律令が出されてすぐの飛鳥時代末期に令外官は始まりました

飛鳥時代には中納言奈良時代には按察使(あぜち)や参議、内大臣などが設置されます。

令外官の意味とは?

令外官とは、令の規定にない新しい官職のこと

現実に即し、必要に応じて設置されました。

 

文字通り、「令」の「外」にある「官職」です。

役人の官位を定める「官位令」や仕事の内容を定める「職員令」は令の一部です。

これらに定められていない追加・例外的な官職を令外官といいました。

なぜ、令外官はつくられた?

律令で補いきれない事柄を解決するため、令外官は設置されました

 

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遣唐使船の復元:写真AC

飛鳥時代から奈良時代にかけて、中国に派遣された遣隋使・遣唐使は、中国の法律である律令を学び日本に持ち込みました。

そして、701年に大宝律令、718年に養老律令を制定します。

 

しかし、中国の法律である律令は日本の実情に合わないことや不足していることがありました。

そこで、日本独自に改良を加えます。

それでも、完全には補いきれず、令外官を設置して処理することにしたのです。

ところで、"律令"って何?

律令はもともと中国の法律です。

律が刑法、令が行政法でした。

日本では701年の大宝律令や718年の養老律令が知られています。

 

ちなみに、律令を補足・修正する法律を格、実際の施行規則を式といいます。

そのため、まとめて律令格式とよばれることもありました。 

入試頻出!よくでる令外官4つ

大学入試の登竜門である共通テスト。

共通テストは基本問題を中心に出題されます。

もっとも出題頻度が高いのは征夷大将軍勘解由使蔵人頭検非違使

それぞれ、誰が制定したかや関連事項と共に出題されます。

桓武天皇が制定した令外官

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桓武天皇

出典:桓武天皇 - Wikipedia

桓武天皇奈良時代の末期から平安時代の初期にかけて、律令制度を立て直そうとした人物です。

桓武天皇は都を平安京に移す一方、行政改革や東北遠征などに力を入れました。

征夷大将軍勘解由使は、桓武天皇の政治の産物です。

征夷大将軍

征夷大将軍は東北地方の蝦夷を平定するため設置された臨時の将軍職です。

文字通り、「蝦夷」を「征討」するための役職でした。

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坂上田村麻呂

出典:坂上田村麻呂 - Wikipedia

もっとも有名な征夷大将軍坂上田村麻呂

797年、征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は頑強に抵抗する蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)と戦います。

そして、802年阿弖流為を降伏させました。

坂上田村麻呂は東北支配の拠点である鎮守府多賀城から胆沢城に北上させ、東北制圧を進めます。

 

ちなみに、東北各地には坂上田村麻呂にまつわる伝説が残されています。

福島県中通りにある田村市や三春町を治めた田村氏は坂上田村麻呂の子孫を称しました

1192年、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は自ら望んで、征夷大将軍に任じられます。

奥州藤原氏について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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以後、征夷大将軍をトップとする「幕府」が強い力を持つ日本独特の仕組みがつくられました。

征夷大将軍をトップとする幕府は、鎌倉幕府室町幕府江戸幕府と引き継がれます。

頼朝が任じられて以後の征夷大将軍は、平安時代までの征夷大将軍と全く別物と考えてよいでしょう。

勘解由使

勘解由使「解由状」を「勘」(チェックする)する使(特別職)です。

解由状とは、国司交代のときに前の国司が、次の国司に引き継ぐ書類のことです。

桓武天皇の時代、この引継ぎでトラブルが多発しました。

そこで、あらたに勘解由使を設置し、前の国司の報告書である解由状の内容をチェックさせることにしました。

嵯峨天皇が制定した令外官

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出典:嵯峨天皇 - Wikipedia

嵯峨天皇桓武天皇の子で、平城天皇の弟です。

嵯峨天皇律令制度の立て直しを図りました。

蔵人頭

天皇の側近にいて、機密文書を扱う役職

蔵人頭の役所を蔵人所といい、蔵人頭はその長官です。

嵯峨天皇が兄の平城上皇と対立した時、相手方に機密が漏れないよう、機密を扱う役職を新たに作りました。

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藤原冬嗣

出典:藤原冬嗣 - Wikipedia

初代蔵人頭藤原冬嗣巨勢野足

この蔵人頭は、嵯峨天皇平城上皇が対立した薬子の変嵯峨天皇勝利に貢献します。

蔵人頭蔵人所に所属する蔵人たちは、天皇の秘書のような仕事をしました。

検非違使

京中の治安維持にあたった役職

「非違」(悪いこと)を「検」(取り締まる)「使」(特別職)

京都を守る警察のような仕事がメインでした。

のちに、治安維持だけではなく裁判も扱うようになります。

検非違使白河上皇北面の武士を設置するまで、強い力を持ちました。

その後、北面の武士鎌倉幕府が設置した六波羅探題などにより弱体化します。 

まとめ

令外官は、律令の定めにない官職のこと。

律令が施行されてすぐに設置され、必要に応じて追加されました。

試験に出やすい令外官は4つ。

征夷大将軍勘解由使蔵人頭検非違使です。

そのほかに、押領使や関白、追捕使なども出題されますので、入試までに抑えておきましょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

  

「トンボロって何?」「トンボロと砂嘴・砂州の違いとは?」「日本で有名なトンボロは?」わかりやすく解説します!

「トンボロって何?」

「トンボロと砂嘴砂州は何が違う?」

「日本で有名なトンボロは?」

 

この記事をご覧の皆さんはこのようなことをお考えかもしれません。

トンボロとは陸繋砂州と訳される地形です。

陸繋島とよばれる島と対岸の陸地をつなぐ砂州をトンボロとよびました

 

北海道函館市、神奈川県藤崎市の江ノ島和歌山県串本町潮岬をとりあげ、日本におけるトンボロの実例を紹介します。

地理や地政学について知りたい方はこちらの記事もご覧になってください。

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伊豆 堂ヶ島のトンボロ

出典:【伊豆】堂ヶ島・トンボロ現象 - No: 1239250|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

 

トンボロとは?

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トンボロ現象

出典:トンボロ現象 - No: 4256571|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

トンボロの語源と意味

トンボロはラテン語で土手を意味するtumulusを語源とするイタリア語です。

意味は

陸繋砂州ともいう。陸地と島とをつなぐ砂州。海岸からそれほど離れていない距離に島があると,海流の浸食,運搬作用によって運ばれてきた岩屑が陸地と島の間に堆積し,細長く低平な砂州を形成して両者をつなぐ。

出典:トンボロとは - コトバンク

こうした海中にある障害物に砂がたまって砂州をつくる現象をトンボロ現象といいます。

トンボロと陸繋島の違い

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主な海岸地形

出典:Tombolo - Wikipediaを一部改変

トンボロは日本語では陸繋砂州といい、トンボロによって対岸の陸地とつながった島のことを陸繋島といいます。

海岸近くの島の付近では、波が弱まり砂がたまりやすい海域ができやすいです。

この波の静かな海域で砂がたまって陸繋島と対岸の陸地をつなぐ砂州になるのです。

 

ちなみに、トンボロの形成が不十分な場合、干潮時には陸繋砂州によって対岸とつながった陸繋島に、満潮時には陸地から切り離された島になることがあります

この状態からトンボロに成長することもあれば、海流などにより陸繋砂州が削られ、

島になるかもしれません。

   

トンボロと砂嘴(さし)・砂州は何が違う?

トンボロは陸繋島と対岸の陸地の間にできる砂州(陸繋砂州)です。

 

それに対し、砂嘴

半島や岬に続く砂の堆積によってでき,海に突き出た低平な細長い堆積地形。海岸線が屈曲していて,一方の海岸から砂が運ばれると,砂の堆積部分が海面上に現れる。鳥のくちばし (嘴) のような形を呈することが多いので砂嘴という。

出典:砂嘴とは - コトバンク

海岸付近の沿岸流に沿って砂が一直線に連なります。

その先端部分は内湾側(おおむね、海岸方向)に曲がります。

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野付半島

出典:野付半島 - Wikipedia

砂嘴の代表例は北海道の野付半島です。

 

また、砂州

砂嘴 (さし) が延びて潮流の出入口だけを残すか,湾の口をふさぎ対岸へ達した細長い砂礫の堆積地形

出典:砂州とは - コトバンク

砂嘴が成長し、湾の入り口をふさいでしまった地形です。

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天橋立

出典:天橋立 - No: 4161329|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

砂州の代表例は京都府宮津市天橋立です。

 

島を陸につなぎとめるトンボロ

沿岸流に沿って伸び、先端部が曲がっているのが砂嘴

砂嘴が成長し、対岸までつながってしまった地形が砂州

 

おおまかにはそのようにいえるでしょう。

 

ちなみに、砂州によって外海と隔てられた湖のことを潟湖といいます。

わかりやすい潟湖の例は北海道のサロマ湖です。

日本のトンボロ3選

北海道函館市

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函館夜景(陸繋島である函館山からみたトンボロ上の市街地)

出典:函館山夜景夜明け前 - No: 5070007|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

函館市は夜景で有名な街です。

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陸繋島(函館山)とトンボロ(函館市街)

出典:地理院地図 / GSI Maps|国土地理院(対象部分をトリミングして作成)

函館の市街地は陸繋島である函館山と対岸の北海道本島との間にできたトンボロ上にあります。

写真手前側が陸繋島である函館山

夜景として輝いている中央部のくびれがトンボロです。

神奈川県藤沢市江の島

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高橋由一が描いた江ノ島

出典:江の島 - Wikipedia

画像は江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した洋画家高橋由一が描いた江ノ島です。

江ノ島のトンボロの様子が非常によくわかります。

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江ノ島周辺地図

出典:地理院地図 / GSI Maps|国土地理院(対象部分をトリミングして作成)

陸繋島である江ノ島は、対岸とトンボロによってつながりました

満潮時には高橋由一の絵のように歩いて渡ることができました。

現在は江ノ島大橋がかけられ、常時行き来が可能です。

 

江ノ島の近くに腰越という地名があります。

ここは源義経が兄源頼朝の怒りをかって足止めされた満福寺という寺がある場所です。

義経は頼朝側近の大江広元に「腰越状」という弁明書を送って怒りを解いてもらうよう願いました。

しかし、頼朝は義経を許さず、鎌倉に入ることを許しませんでした。

江ノ島といえば最近有名なのがたこせんべい

タコを丸ごとプレス焼したたこせんべいは薄くて大きく、香ばしいのが特徴。

インスタ映えもするので、SNSを中心に話題となりました。

和歌山県串本町潮岬

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潮岬の上空写真

出典:地理院地図 / GSI Maps|国土地理院(対象部分をトリミングして作成)

和歌山県潮岬は函館と同じくトンボロ上に町が発展しました。

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潮岬灯台(4510waza氏が撮影した写真)

出典:潮岬の写真素材|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

陸繋島部分の南西の端に潮岬灯台があります。

明治6年から航路の安全を見守ってきた灯台は、白亜の美しい姿を今にとどめています。

 

海に囲まれた串本町は豊かな海産物に恵まれています。

そんな串本町で注目の魚が「幻の高級魚」といわれるクエ

大きなものだと1m以上に成長するクエは単体で行動するためまとまった漁獲が難しい魚です。

そのため、流通量が少なく、地元で消費されることが多いのです。

 

串本町沖といえば、エルトゥールル号遭難事件が発生した場所です。

エルトゥールル号オスマン帝国の軍艦でした。

オスマン帝国について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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エルトゥールル号

出典:エルトゥールル号遭難事件 - Wikipedia

1890年にエルトゥールル号が日本を訪れた際、串本町の沖で難破。

これにより500名余のトルコ軍兵士が亡くなりました。

しかし、沿岸の串本町民の懸命の救助活動により69名を助けることができました。

このエルトゥールル号遭難事件で救出活動は日本とトルコの友好の礎となっています。

まとめ

トンボロは陸繋島と対岸の陸地をつなぐ砂州(陸繋砂州)です。

海流の影響によりつくられたトンボロは美しい景観を生み出しました。

国内にトンボロ地形は多数ありますが、今回は函館市江ノ島、潮岬の3カ所をとりあげました。

この記事を読んで、トンボロがどのような地形かなどの疑問が少しでも解消できたらうれしいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

   

「『おくのほそ道』の「平泉」ってどんな話?」「出てくる地名の位置関係が知りたい!」「”夏草や”や”卯の花に”の俳句の解釈が知りたい!」わかりやすく解説します!

「『おくのほそ道』ってどんな本?」

「”平泉”に出てくる地名を地図で見たい!」

「平泉を訪れた芭蕉の思いとは?」

「夏草や卯の花の俳句の意味が知りたい!」

「平泉の現代語訳が知りたい!」

 

このページを見ている方はそのような疑問を持っているかもしれません。

『おくのほそ道』は江戸時代の俳人である松尾芭蕉が書いた俳諧紀行文です。

芭蕉は東北や北陸の各地を回り、歌枕の地を訪れました。

 

「平泉」は中でもとても有名な部分で、ここで詠まれた「夏草や つはものどもが 夢の跡」は芭蕉の句の中でも屈指の名句として知られます。

また、地名が多く出てくるので、位置関係がわかった方が理解しやすくなります。

 

今回は『おくのほそ道』がどんな本か、平泉を訪れた芭蕉の思い、夏草や卯の花の俳句の意味、「平泉の現代語訳」などについてまとめます。

『おくのほそ道』とは

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葛飾北斎が描いた松尾芭蕉

出典:松尾芭蕉 - Wikipedia

 

『おくのほそ道』とは、江戸時代中頃の俳人松尾芭蕉が書いた俳諧紀行文です。

松尾芭蕉は1644年に現在の三重県にあたる伊賀国で生まれました。

もとは伊賀を治める藤堂藩の武士でしたが、武士身分を捨てて俳人となります。

 

紀行文とは旅の行程をたどるように、体験した内容を記した文章のこと。

俳諧とは、この場合、俳句と言い換えてもよいでしょう。

したがって、俳諧紀行文とは、俳句付きの旅行記といえます。

 

『おくのほそ道』は1689年から1691年にかけての2年間に松尾芭蕉と弟子の河合曾良が巡った旅の記録です。

この旅で芭蕉曾良は東北地方や北陸地方の各地を巡り、江戸にもどります。

地図で見る「平泉」の地名

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平泉周辺地図

出典:地理院地図 / GSI Maps|国土地理院地理院タイルを加工して作成)

大門(毛越寺南大門)

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毛越寺庭園

出典:毛越寺 浄土庭園 出島石組と池中立石 - No: 22184290|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
大門は毛越寺の南大門とする説が有力です。

毛越寺奥州藤原氏2代の藤原基衡が造営し、3代秀衡が整備した寺院です。

鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」という大寺院で、鎌倉時代初期には中尊寺を凌ぐ規模でした。

 

1954年から大規模な発掘が行われ、『吾妻鏡』の記録が大げさなものではなかったことが判明しています。

毛越寺や無量光院の庭園は浄土教の思想を強く反映したものでした。

秀衡が跡(伽羅御所)

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藤原秀衡

出典:藤原秀衡 - Wikipedia

平泉は奥州藤原氏の本拠地でした。

政治を行う政庁の役割を果たしたのが柳之御所で、3代秀衡個人の館が伽羅御所です。

本文でいう「秀衡が跡」は秀衡の屋敷という意味なので、伽羅御所を指すと考えるべきでしょう。

 

『吾妻鑑』によれば、秀衡の屋敷は無量光院という寺院の東門に接して建てられたとあります。

無量光院は藤原秀衡が建てた寺院です。

宇治の平等院鳳凰堂を上回る壮麗な寺院でしたが、度重なる火災などにより建物は失われてしまいました。

寺院跡は「無量光院跡」として国の特別史跡に指定されています。

 

奥州市にある「えさし藤原の郷」には、秀衡の伽羅御所が復元されています

えさし藤原の郷について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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金鶏山

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金鶏山の入り口

出典:金鶏山 - Wikipedia

奥州藤原氏の初代清衡が開いた中尊寺と二代基衡が開いた毛越寺のちょうど中間地点にある円錐状の山です。

この山には、藤原秀郷が一夜で築かせたという話や頂上に金の鶏が埋められたとする伝説があります。

1930年に金の鶏をもとめ、盗掘が行われたとき、頂上から銅製の経筒などが見つかりました

経筒は経典を土中に埋納する際に用いられるもので、これが発見されたことから、金鶏山は経筒を納める経塚だったことがわかりました。

高館

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高館義経

出典:衣川館 - Wikipedia

高館は衣川館のことです。

もとは、藤原一族の藤原基成の館でした。

源義経が兄の源頼朝の追手から逃れ奥州にたどり着いて以後、この館に住まいを構えます。

頼朝は4代当主藤原泰衡に圧力をかけ、義経を殺害させようとしました。

この圧力に屈した泰衡は衣川館にいた義経を襲撃します。

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京の五条大橋で戦う義経と弁慶

出典:武蔵坊弁慶 - Wikipedia

襲撃された義経は郎党の武蔵坊弁慶らとともに防戦しますが、刀折れ矢尽き果てて自害しました。

このとき、妻の郷御前や娘もともに自害したと伝えられます。


和泉が城(泉が城)

和泉が城は藤原秀衡の三男である藤原忠衡の館があった場所です。

秀衡は死に際に、義経を主君として立て頼朝に対抗するよう遺言しました。

忠衡はこの遺言に従い義経保護を主張します。

しかし、頼朝の圧力に屈した泰衡は忠衡を殺害してしまいました。

和泉が城は衣川によって守られた要害で、義経がこの城に立てこもった場合、頼朝軍も苦戦したかもしれません。

衣が関

中尊寺の北西にある衣川関のこと。

北方の蝦夷(えみし)を防ぐためにつくられた防衛拠点で、古来、歌枕として和歌に詠まれました

平安時代の後期には奥州藤原氏の前の東北の支配者である安倍氏の館が置かれていました。

安倍氏前九年の役源頼義率いる朝廷軍に敗北し滅亡します。 

奥の細道』「平泉」の現代語訳

三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

 

奥州藤原氏三代の栄華はまるでひと眠りの間に見る夢のようにはかないものだ。大門のあとは一里こちら側にある。秀衡が住んだ伽羅御所の跡地は田野になってしまい、金鶏山だけがその形を残している。

 

まづ、高館に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣側は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。

 

はじめに義経がいたという高館に登って周囲を見ると、南部地方(盛岡市方面)から流れてくる北上川が見える。高館の北にある衣川は、和泉が城をめぐって、高館の近くで北上川と合流する。泰衡らが住んでいた場所は衣川関を間において、南部方面からの敵を防ぐものと見えた。

 

さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。

 

それにしても、忠義の家臣(義経の家臣)はよりすぐってこの城(高館)に立てこもって戦った。彼らが奮戦してたてた功名は一時のことで、今となっては草むらとなっている。

 

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」

と笠うち敷きて、時の移るまで、涙を落としはべりぬ。 

「平泉」で詠まれた俳句2句

夏草や つはものどもが 夢の跡

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松尾芭蕉の句碑

出典:衣川館 - Wikipedia

この句の季語は「夏草」

文字通り、夏の草のことで特定の草を指しているわけではありません。

切れ字の「や」が夏草についていることから、初句切れの句だとわかります。

また、切れ字の「や」は詠嘆・感動を意味することから、芭蕉が夏草を見て、何らかの感動持ったことがわかります。

芭蕉は、かつてこの地で戦い散っていった「義臣」やその主君である義経の悲劇に思いをいたして感動したのではないでしょうか。

彼ら「つわものども」が戦ったのも、今となっては遠い夢のかなたになってしまったと詠んだのでしょう。

卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな

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卯の花の句碑

衣川館 - Wikipedia

この句の季語は「卯の花」。

卯の花は「ウツギ(空木)」という木の花で卯の月(旧暦4月)に咲く白い花です。

初夏を告げる花で初夏の風物詩となっています。

 

兼房義経主従について書かれた軍記物語『義経記』の登場人物です。

義経の妻に仕えた老武士で、義経の妻と子の最後を見届けた後、高館に火を放ち、敵の大将である長崎太郎を討ち取るなど獅子奮迅の働きを見せました。

最後は長崎太郎の弟を小脇に抱え、炎の中に飛び込んで亡くなります。

 

卯の花の俳句は、切れ字の「かな」が三句目にあるので三句切れです。

曾良卯の花の白さと、高齢だった兼房の白髪を重ね合わせました。

そして、兼房の勇壮な最期を詠みこんだのでしょう。

「平泉」に関連する漢文

邯鄲一炊の夢

邯鄲の夢とも、一炊の夢、邯鄲の枕ともいいます

人の世の栄枯盛衰がはかないことのたとえとして用いられます。

盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱(こうりょう)もまだ炊き上がっていないわずかな時間であったという「枕中記」の故事から

出典:邯鄲の枕とは - コトバンク

芭蕉は藤原三代100年の栄華も邯鄲の夢と同じく、一瞬の出来事だといいたかったのでしょう。

春望

芭蕉は唐の時代の詩人杜甫の『春望』の一節を少し改変しています。

もともとは「国破れて山河あり。城春にして草木深し」ですが、芭蕉は「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と変えています。

これは、目の前の青い夏草に寄せたからかもしれません。

芭蕉は、奥州藤原100年の栄華が滅び去っても、自然の山河がそのまま残っていることを示したかったのでしょう。

代わらず残り続ける山河・自然と、滅び去ってしまったかつての奥州藤原氏義経、彼の家臣たちの物語とを対比させているのです。

『おくの細道』は名前の通り、奥が深い作品で古文だけではなく漢文の基礎知識も必要です。

「平泉」にこめられた芭蕉の思いとは

松尾芭蕉は廃墟と化した平泉の旧跡を眺めつつ、過去の歴史を振り返りました。

奥州藤原氏の栄華や義経主従の奮戦ぶりに想いを馳せます。

そして、滅び去った者に対し尽きることない思いを寄せました。

だからこそ、芭蕉は「笠うち敷きて、涙をおとしはべりぬ」となったのです。

それと同時に、永久に残り続ける山河と滅び去った人々の儚さを対比させています。

まとめ

『おくのほそ道』は松尾芭蕉が書いた俳諧紀行文です。

なかでも、「夏草や つはものどもが 夢の跡」の句が添えられている「平泉」は学校の教科書でも扱われるもっとも有名な一節です。

「夏草や」も弟子の曾良が詠んだ「卯の花に」も秀作として人々に愛されています。

この記事を読んで『おくのほそ道』や「平泉」の内容、「平泉」に出てくる地名や位置関係などについてすこしでも参考になったらうれしいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

   

「北条泰時ってどんな人?」「北条泰時の面白い逸話とは?」「北条泰時のお墓や子孫は?」わかりやすく解説します!

北条泰時って何した人?」

北条泰時に関する面白い逸話はある?」

北条泰時のお墓や子孫は?」

 

このページをご覧の方はそのようなことをお考えかもしれません。

北条泰時鎌倉幕府の3代執権で、承久の乱での勝利や御成敗式目の制定などで活躍しました。

そして、合議制を確立するなど鎌倉幕府のシステムを整備した人物でもあります。

 

今回は北条泰時のプロフィールやしたこと、逸話、お墓や子孫などについてまとめます。

鎌倉時代全体について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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北条泰時

出典:北条泰時 - Wikipedia

 

北条泰時のプロフィール

北条泰時は1183年に北条義時の子として生まれました。

幼名は”金剛”といいます。

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伝・源頼朝

出典:源頼朝 - Wikipedia

史書吾妻鏡』には、幼い時から聡明で源頼朝の寵愛を受けていたと書かれいました。

 

1194年、頼朝が烏帽子親となり元服し、名を頼時と改めます。

烏帽子親とは

中世武家社会の風習で,成人に達して元服するとき立てられる仮親
元服親ともいう。元服式で烏帽子をかぶらせ,元服名をつけたりする。主君や有力者に依頼し,以後親子に等しい関係が結ばれる。

出典:コトバンク

烏帽子親が頼朝ということは、将軍とかなり近しい特別な家柄だったからこそです。

よく知られる泰時を名乗るのは1200年以後のようです。

将軍家と北条氏の関係について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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和田義盛

出典:和田義盛 - Wikipedia

1211年、幕府の有力御家人である和田義盛が挙兵しました(和田合戦)。

北条氏との関係が悪化した和田義盛が将軍御所を襲撃したことで始まった合戦です。

このとき、泰時は叔父の時房とともに鎌倉のメインストリートである若宮大路で和田軍と交戦し、将軍御所を守りました。

2日間にわたった合戦は数に勝る北条方の勝利に終わります

5年後の1218年、泰時は侍所の別当に任じられ、幕府の有力者となりました。

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後鳥羽上皇

出典:後鳥羽天皇 - Wikipedia

1221年、京都の後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を発し、幕府を滅ぼそうとしました。

いわゆる、承久の乱の始まりです。

泰時は幕府軍の総大将に任じられ、御家人たちを率いて上洛しました。

そして、泰時率いる幕府軍宇治川の防御線を突破し京都を制圧。

戦いの後、幕府は後鳥羽上皇らを京都から追放し、幕府の権威をまざまざと見せつけました。 

 


承久の乱からおよそ10年後の1230~31年、寛喜の大飢饉が発生しました。

泰時は食糧難に苦しむ庶民を救う一方、武家社会の裁判基準である御成敗式目を制定しました。

こうした治績から泰時は名執権として称えられました。

 

1242年、泰時は出家します。

このとき、50人ほどの家臣が泰時の後を追って出家しました。

同年6月15日、泰時は病のためこの世を去ります。

享年60でした。 

   

北条泰時は何をした人?

鎌倉幕府の合議制を確立

鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、幕府政治を独裁で執り行いました。

しかし、2代将軍頼家御家人たちの信任を失い、独裁権を失います。

かわって、13人の御家人による合議制が成立しました。

13人の合議制について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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その後、北条氏が13人の中で頭一つ抜き出るようになり、他の有力御家人を排除していきます。

それにより北条氏の権力は強まりました。

しかし、それでも北条氏は1御家人にすぎません。

他の御家人とバランスを取り、独裁者として反感を買わないよう注意する必要がありました。

 

まず、1224年に泰時は叔父の時房を執権とほぼ同格の連署に任じます。

つづいて、1225年に三浦義盛二階堂行盛らを評定衆に任じ、執権や連署とともに重要事項の決定に参加させました。

こうして、泰時によって導入された合議制は鎌倉幕府の基本システムとなります。

幕府のしくみをもっと詳しく知りたい方にはこちらの本がおすすめです。

 

御成敗式目を制定

1231年、泰時は「御成敗式目」を制定します。

御成敗は裁判、式目は法律と同じ意味です。

つまり、御成敗式目とは裁判の法律という意味になります。

 

御成敗式目の基準となったのは源頼朝以来の先例と武家社会の道理です。

朝廷が定める律令や、荘園領主が定める本所法などとはことなり、武士に対して適用される法律でした。

詳しい内容を知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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北条泰時のお墓はどこ?

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泰時の墓(常楽寺

出典:常楽寺 (鎌倉市) - Wikipedia

北条泰時の墓は鎌倉市内の常楽寺という寺にあります。

常楽寺は泰時が開いた寺です。

5代執権時頼の時代に、宋から日本にやってきた高僧蘭渓道隆常楽寺の住職となり、中国風の禅宗を広めました

北条泰時に関する逸話

主君源頼家に諫言した

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2代将軍 源頼家

吾妻鏡』には、北条泰時が主君である源頼家に諫言した話が記録されています。

 

1201年8月、鎌倉を含む関東一帯は台風のため大きな被害を受けていました。

鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉の建物は軒並み傷つき、現在の江戸川河口付近にあたる葛西では高潮で千人余が波にさらわれる被害を出します。

 

1201年9月7日、京都から蹴鞠の達人である紀内所行景(きないどころゆきかげ)が鎌倉にやってきました。

これは、頼家が後鳥羽上皇にお願いし、実現したことです。

行景を迎えた頼家は、連日のように蹴鞠を楽しみました。

 

蹴鞠に熱中する頼家を見ていた泰時は

蹴鞠も結構ですが、台風被害で寺社が破壊され、五穀が不作となっているから蹴鞠を慎むべきです」と諫言しました。

 

頼家は北条時政北条義時にならともかく、自分と同年代の泰時に諫言されたことで機嫌を損ねます。

泰時を心配した人たちは彼に伊豆の実家に戻るよう勧めました。

伊豆に戻った泰時は、天候不順による食糧不足で苦しむ人々を救う徳政を行ったと伝えられます。 

人工島の和賀江島をつくった

和賀江島(わかえじま)は北条泰時がつくらせた人工島です。

頼朝が鎌倉幕府を開くと、諸国の船が鎌倉に集まるようになりました。

やってくる船は日本国内だけではなく、中国の宋からの船もありました。

 

しかし、鎌倉の沖合は遠浅の海で荷物の揚げ降ろしが難しく、事故も多いという難点がありました。

そこで、現在の逗子マリーナ近くに人工島の和賀江島をつくり、その周辺を港湾施設として利用しました。

皇位継承に介入した 

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京都御所 紫宸殿

出典:京都御所 - Wikipedia

1242年、四条天皇が12歳で亡くなりました。

九条道家をはじめとする有力公家は順徳天皇の子である忠成王を次の天皇にしようと動きます。

しかし、泰時をはじめとする幕府中枢は承久の乱で幕府と敵対した順徳天皇の子を次の天皇にすることに反対。

かわって、承久の乱に反対した土御門上皇の子を天皇に擁立しました。

これが後嵯峨天皇です。

 

公家たちは武士が皇位継承に口を出したことに強く反発しました。

しかし、圧倒的な力を持つ幕府に口答えできません。

泰時の死が承久の乱後鳥羽上皇らが流されたのと同じ6月だったことから、後鳥羽上皇の怨霊が泰時を呪ったという噂が立ちました。

怨霊について詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ

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文豪川端康成北条泰時の子孫

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川端康成

出典:川端康成 - Wikipedia

川端康成は大正から昭和にかけて活躍した文豪で、1968年に日本人ではじめてノーベル文学賞を受賞しました。

代表作は『伊豆の踊子』や『雪国』です。

 

川端家は地元では名の知れた旧家で資産家でした。

先祖をたどると北条泰時にたどりつきます

しかし、康成の祖父のころに資産を失いました。

鎌倉幕府は1333年に滅亡しますが、泰時に血筋が現代まで続いていたのは驚くべきことですね。

北条泰時御成敗式目は入試でよく聞かれる項目です。

まとめ

今回は北条泰時を取り上げました。

北条泰時鎌倉幕府の3代執権で御成敗式目の制定などで活躍しました。

彼が作った幕府の仕組みは、長期間にわたって幕府政治を安定させ、後世から理想的な政治家とみなされます。

北条泰時のやったことや彼についての逸話について、すこしでも疑問が解消されたらうれしいなと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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