「『おくのほそ道』ってどんな本?」
「”平泉”に出てくる地名を地図で見たい!」
「平泉を訪れた芭蕉の思いとは?」
「夏草や卯の花の俳句の意味が知りたい!」
「平泉の現代語訳が知りたい!」
このページを見ている方はそのような疑問を持っているかもしれません。
『おくのほそ道』は江戸時代の俳人である松尾芭蕉が書いた俳諧紀行文です。
芭蕉は東北や北陸の各地を回り、歌枕の地を訪れました。
「平泉」は中でもとても有名な部分で、ここで詠まれた「夏草や つはものどもが 夢の跡」は芭蕉の句の中でも屈指の名句として知られます。
また、地名が多く出てくるので、位置関係がわかった方が理解しやすくなります。
今回は『おくのほそ道』がどんな本か、平泉を訪れた芭蕉の思い、夏草や卯の花の俳句の意味、「平泉の現代語訳」などについてまとめます。
『おくのほそ道』とは
『おくのほそ道』とは、江戸時代中頃の俳人松尾芭蕉が書いた俳諧紀行文です。
松尾芭蕉は1644年に現在の三重県にあたる伊賀国で生まれました。
もとは伊賀を治める藤堂藩の武士でしたが、武士身分を捨てて俳人となります。
紀行文とは旅の行程をたどるように、体験した内容を記した文章のこと。
俳諧とは、この場合、俳句と言い換えてもよいでしょう。
『おくのほそ道』は1689年から1691年にかけての2年間に松尾芭蕉と弟子の河合曾良が巡った旅の記録です。
この旅で芭蕉と曾良は東北地方や北陸地方の各地を巡り、江戸にもどります。
地図で見る「平泉」の地名
出典:地理院地図 / GSI Maps|国土地理院(地理院タイルを加工して作成)
大門(毛越寺南大門)
出典:毛越寺 浄土庭園 出島石組と池中立石 - No: 22184290|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
大門は毛越寺の南大門とする説が有力です。
毛越寺は奥州藤原氏2代の藤原基衡が造営し、3代秀衡が整備した寺院です。
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」という大寺院で、鎌倉時代初期には中尊寺を凌ぐ規模でした。
1954年から大規模な発掘が行われ、『吾妻鏡』の記録が大げさなものではなかったことが判明しています。
毛越寺や無量光院の庭園は浄土教の思想を強く反映したものでした。
秀衡が跡(伽羅御所)
平泉は奥州藤原氏の本拠地でした。
政治を行う政庁の役割を果たしたのが柳之御所で、3代秀衡個人の館が伽羅御所です。
本文でいう「秀衡が跡」は秀衡の屋敷という意味なので、伽羅御所を指すと考えるべきでしょう。
『吾妻鑑』によれば、秀衡の屋敷は無量光院という寺院の東門に接して建てられたとあります。
無量光院は藤原秀衡が建てた寺院です。
宇治の平等院鳳凰堂を上回る壮麗な寺院でしたが、度重なる火災などにより建物は失われてしまいました。
寺院跡は「無量光院跡」として国の特別史跡に指定されています。
奥州市にある「えさし藤原の郷」には、秀衡の伽羅御所が復元されています。
えさし藤原の郷について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
金鶏山
奥州藤原氏の初代清衡が開いた中尊寺と二代基衡が開いた毛越寺のちょうど中間地点にある円錐状の山です。
この山には、藤原秀郷が一夜で築かせたという話や頂上に金の鶏が埋められたとする伝説があります。
1930年に金の鶏をもとめ、盗掘が行われたとき、頂上から銅製の経筒などが見つかりました。
経筒は経典を土中に埋納する際に用いられるもので、これが発見されたことから、金鶏山は経筒を納める経塚だったことがわかりました。
高館
高館は衣川館のことです。
もとは、藤原一族の藤原基成の館でした。
源義経が兄の源頼朝の追手から逃れ奥州にたどり着いて以後、この館に住まいを構えます。
頼朝は4代当主藤原泰衡に圧力をかけ、義経を殺害させようとしました。
この圧力に屈した泰衡は衣川館にいた義経を襲撃します。
襲撃された義経は郎党の武蔵坊弁慶らとともに防戦しますが、刀折れ矢尽き果てて自害しました。
このとき、妻の郷御前や娘もともに自害したと伝えられます。
和泉が城(泉が城)
和泉が城は藤原秀衡の三男である藤原忠衡の館があった場所です。
秀衡は死に際に、義経を主君として立て頼朝に対抗するよう遺言しました。
忠衡はこの遺言に従い義経保護を主張します。
しかし、頼朝の圧力に屈した泰衡は忠衡を殺害してしまいました。
和泉が城は衣川によって守られた要害で、義経がこの城に立てこもった場合、頼朝軍も苦戦したかもしれません。
衣が関
中尊寺の北西にある衣川関のこと。
北方の蝦夷(えみし)を防ぐためにつくられた防衛拠点で、古来、歌枕として和歌に詠まれました。
平安時代の後期には奥州藤原氏の前の東北の支配者である安倍氏の館が置かれていました。
『奥の細道』「平泉」の現代語訳
三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
奥州藤原氏三代の栄華はまるでひと眠りの間に見る夢のようにはかないものだ。大門のあとは一里こちら側にある。秀衡が住んだ伽羅御所の跡地は田野になってしまい、金鶏山だけがその形を残している。
まづ、高館に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣側は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。
はじめに義経がいたという高館に登って周囲を見ると、南部地方(盛岡市方面)から流れてくる北上川が見える。高館の北にある衣川は、和泉が城をめぐって、高館の近くで北上川と合流する。泰衡らが住んでいた場所は衣川関を間において、南部方面からの敵を防ぐものと見えた。
さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。
それにしても、忠義の家臣(義経の家臣)はよりすぐってこの城(高館)に立てこもって戦った。彼らが奮戦してたてた功名は一時のことで、今となっては草むらとなっている。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」
と笠うち敷きて、時の移るまで、涙を落としはべりぬ。
「平泉」で詠まれた俳句2句
夏草や つはものどもが 夢の跡
この句の季語は「夏草」。
文字通り、夏の草のことで特定の草を指しているわけではありません。
切れ字の「や」が夏草についていることから、初句切れの句だとわかります。
また、切れ字の「や」は詠嘆・感動を意味することから、芭蕉が夏草を見て、何らかの感動持ったことがわかります。
芭蕉は、かつてこの地で戦い散っていった「義臣」やその主君である義経の悲劇に思いをいたして感動したのではないでしょうか。
彼ら「つわものども」が戦ったのも、今となっては遠い夢のかなたになってしまったと詠んだのでしょう。
卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな
この句の季語は「卯の花」。
卯の花は「ウツギ(空木)」という木の花で卯の月(旧暦4月)に咲く白い花です。
初夏を告げる花で初夏の風物詩となっています。
兼房は義経主従について書かれた軍記物語『義経記』の登場人物です。
義経の妻に仕えた老武士で、義経の妻と子の最後を見届けた後、高館に火を放ち、敵の大将である長崎太郎を討ち取るなど獅子奮迅の働きを見せました。
最後は長崎太郎の弟を小脇に抱え、炎の中に飛び込んで亡くなります。
卯の花の俳句は、切れ字の「かな」が三句目にあるので三句切れです。
曾良は卯の花の白さと、高齢だった兼房の白髪を重ね合わせました。
そして、兼房の勇壮な最期を詠みこんだのでしょう。
「平泉」に関連する漢文
邯鄲一炊の夢
邯鄲の夢とも、一炊の夢、邯鄲の枕ともいいます。
人の世の栄枯盛衰がはかないことのたとえとして用いられます。
盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱(こうりょう)もまだ炊き上がっていないわずかな時間であったという「枕中記」の故事から
芭蕉は藤原三代100年の栄華も邯鄲の夢と同じく、一瞬の出来事だといいたかったのでしょう。
春望
芭蕉は唐の時代の詩人杜甫の『春望』の一節を少し改変しています。
もともとは「国破れて山河あり。城春にして草木深し」ですが、芭蕉は「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と変えています。
これは、目の前の青い夏草に寄せたからかもしれません。
芭蕉は、奥州藤原100年の栄華が滅び去っても、自然の山河がそのまま残っていることを示したかったのでしょう。
代わらず残り続ける山河・自然と、滅び去ってしまったかつての奥州藤原氏や義経、彼の家臣たちの物語とを対比させているのです。
『おくの細道』は名前の通り、奥が深い作品で古文だけではなく漢文の基礎知識も必要です。
「平泉」にこめられた芭蕉の思いとは
松尾芭蕉は廃墟と化した平泉の旧跡を眺めつつ、過去の歴史を振り返りました。
そして、滅び去った者に対し尽きることない思いを寄せました。
だからこそ、芭蕉は「笠うち敷きて、涙をおとしはべりぬ」となったのです。
それと同時に、永久に残り続ける山河と滅び去った人々の儚さを対比させています。
まとめ
なかでも、「夏草や つはものどもが 夢の跡」の句が添えられている「平泉」は学校の教科書でも扱われるもっとも有名な一節です。
「夏草や」も弟子の曾良が詠んだ「卯の花に」も秀作として人々に愛されています。
この記事を読んで『おくのほそ道』や「平泉」の内容、「平泉」に出てくる地名や位置関係などについてすこしでも参考になったらうれしいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。