「平安時代ってどんな時代?」
「平安時代の流れが知りたい!」
「平安時代の主な登場人物とは?」
このページをご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。
平安時代は794年から1192年までのおよそ400年間続きました。
この長い時代の流れは平安時代を3つに分割すると一気に理解しやすくなります。
また、平安時代の登場人物を3つの区分にあてはめることで、定期テストや入試の定番である並べ替え問題に正解しやすくなります。
大まかな流れだけで十分な人は流れの3つの区分を、もっと詳しく知りたい人は登場人物まで読んでいただければと思います。
今回は、平安時代の流れや登場人物についてまとめます。
平安時代に興味がある方はこちらの記事どうぞ!
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平安時代とは、794年の平安遷都から1185年、または1192年の鎌倉幕府成立までの期間を指す時代呼称です。
鎌倉時代の始まりについて詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
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縄文時代や弥生時代を除くと、平安時代のおよそ400年間は日本史で最も長い期間の時代です。
平安時代のはじめは、桓武天皇や嵯峨天皇による律令制度の立て直しの時代です。
平安時代の中ころになると実権は天皇から貴族、なかでも藤原氏に移り摂関政治が展開されました。
平安時代の終わりころは院政と武士の時代。
上皇(退位した天皇)が院で行ったのが院政で、上皇は天皇家の家長となり最高権力者として日本に君臨しました。
院政で力を増した平氏は平清盛の時代に平氏政権を打ち立てます。
平安時代は3つに分けて理解!
天皇中心の時代
平安時代は桓武天皇の平安遷都によって幕を開けました。
奈良時代の後半、律令制度のほころびが数多くみられ、改革が必要とされていました。
桓武天皇は都を平城京から平安京に遷都。
人心を一新し、制度改革に着手します。
桓武天皇の改革を引き継いだのが嵯峨天皇でした。
嵯峨天皇は藤原冬嗣を重用し、律令制度を改革します。
この桓武天皇や嵯峨天皇に仕え、大陸から持ち帰った新しい仏教を広めたのが最澄と空海でした。
最澄は比叡山延暦寺を、空海は高野山金剛峰寺と京都の教王護国寺(東寺)を与えられ研鑽に励みます。
貴族中心の時代
嵯峨天皇の死後、存在感を増したのが藤原冬嗣の子孫である藤原北家です。
冬嗣の子の藤原良房は皇族以外で初の摂政に就任します(人臣摂政)。
さらに、良房の子の基経は阿衡の紛議で宇多天皇をねじ伏せ、藤原北家の力を世に示しました。
基経の死後、宇多天皇は学者の菅原道真を登用し藤原氏などの力を抑えようとしますが最終的に失敗。
藤原氏は着々と他氏を排斥して朝廷の高位を独占します。
そして、天皇家に娘を嫁がせ、その子の父として政治を行う摂関政治の仕組みを確立しました。
中央で藤原氏が摂関政治を行っていたころ、地方は国司による収奪に苦しみます。
地方豪族の中には治安の悪化や国司の横暴に対抗するため武装する者も現れました。
これが武士の始まりとされます。
地方で力を増した武士たちの一部は武力で国司や朝廷に反抗しました。
その代表が平清盛と藤原純友です。
彼らの反乱は鎮圧されますが、摂関政治期を通じて地方では武士が成長しました。
摂関政治が確立すると、今度は藤原北家内部で権力闘争が始まります。
この争いの勝利したのが藤原道長でした。
道長は子の頼通とともに80年にわたって摂政・関白として国政を動かします。
院政と武士の時代
平将門や藤原純友の反乱が鎮圧された後も、地方では独自の武力を持つ武士の力が強まり続けます。
すると、中央の貴族や皇族は武士の力を利用するため、彼らを護衛に雇ったり、地方の治安維持にあたらせました。
やがて、地方の武士たちは皇族や藤原氏に由来を持つ人物を棟梁とする武士団を形成します。
その代表が平氏や源氏でした。
一方、中央では白河上皇が政治の主導権を藤原氏から取り戻し、院で政治を行います(院政)。
院は北面の武士を設置し、武士の力を政権に取り入れました。
中でも、平正盛をはじめとする伊勢平氏は院政と深く結びつき、武士としては異例の昇進を果たします。
やがて、他の貴族たちも武士の力を積極的に利用するようになりました。
そして、京都で政権争いである保元の乱や平治の乱が起きます。
保元の乱や平治の乱について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
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これらの戦いに勝利したのが平清盛でした。
平清盛について知りたい方はこちらもどうぞ!
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平治の乱に勝利した清盛や彼の一族は、高位高官を独占。
平氏政権を打ち立てました。
しかし、平氏の専横に反感を持つ人々は、以仁王の令旨をきっかけに各地で挙兵します。
しかも、平氏側では棟梁の平清盛が病死。
体勢を立て直せないまま、源氏に都を追い出されました。
その後、源氏の中でも関東を制圧した源頼朝が同族の源義仲、平氏の残党、奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開きます。
主な登場人物
天皇中心の時代
引用:桓武天皇 - Wikipedia
平安京に都を移し、平安時代をスタートさせたのが桓武天皇です。
彼は、本来なら天皇に慣れないはずの人物でした。
奈良時代は壬申の乱で勝利した天武天皇の子孫たちが天皇になっていました。
ところが、称徳天皇で天武系の血が絶えてしまいます。
そこで、藤原百川らは天智天皇の子孫である白壁王を光仁天皇として即位させました。
もっとも、光仁天皇は即位時で62歳。
人々は白壁王の子で有能さを知られた山部親王に期待します。
781年、光仁天皇の死に伴い山部親王が即位しました(桓武天皇)。
桓武天皇は仏教勢力が強すぎる平城京を去り、長岡京、そして平安京へと遷都します。
遷都した桓武天皇は律令制度の立て直しに勤めました。
同時に、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、東北地方の蝦夷を征服させ朝廷の支配領域を拡大します。
引用:嵯峨天皇 - Wikipedia
桓武天皇が亡くなると、平城天皇が即位しました。
しかし、平城天皇が病で2年で退位したため、弟が嵯峨天皇として即位します。
一方、病から回復した平城天皇は側近たちと復活を画策。
これを知った嵯峨天皇は側近の蔵人頭藤原冬嗣とともに平城上皇派に勝利しました(薬子の変)。
即位直後の危機を乗り切った嵯峨天皇は父に倣い律令制度の立て直しに勤めます。
また、書の名手としても知られ、三筆の一人に数え上げられました。
引用:最澄 - Wikipedia
最澄は桓武天皇の信任を得た僧侶です。
804年、最澄は遣唐使の一因として唐にわたり、仏教の研究に励みました。
ちなみに、中国で仏教研究に励むことを入唐求法といいますよ。
中国に渡った最澄は中国南部にある天台山に上り貴重な仏典を多く手に入れました。
これらの仏典は日本仏教発展に大きな役割を果たします。
翌805年、最澄は日本に帰国。
比叡山延暦寺を本山とする天台宗を開きました。
空海は嵯峨天皇の信任を得た僧侶です。
最澄と同じ遣唐使で唐にわたります。
すでに桓武天皇の信任を得ていた最澄とくらべると、空海は一介の修行僧にすぎません。
しかも、1年で帰国する予定だった最澄と異なり、20年の留学予定がありました。
唐についた空海は唐の都長安で修行を開始します。
空海が最初に学んだのは梵語(サンスクリット語)でした。
漢訳の仏典ではなく、サンスクリット語の原典まで調べようという意欲を感じます。
そして、空海は当時最先端の仏教といえる密教を学びました。
空海の師である恵果は空海の才能にほれ込み、彼に真言密教の秘伝を伝授します。
全てを学び終えた空海は806年に帰国。
嵯峨天皇の信任を得て京都に教王護国寺、紀伊国に高野山金剛峰寺を与えられます。
天才の誉れ高い空海と絶世の美女楊貴妃を主人公とした映画が2017年につくられました。
それが『空海 美しき王妃の謎』です。
海を渡った若き天才空海が、かつて殺された絶世の美女楊貴妃の死の謎に挑みます。
今見ても十分楽しめる名作です。
よかったら、ぜひ見てください!
貴族中心の時代
引用:菅原道真 - Wikipedia
菅原道真は9世紀後半に活躍した人物です。
菅原家は代々学者の家系で、高位高官に上る家柄ではありませんでした。
しかし、道真は学者としてとても優秀で、阿衡の紛議の際に藤原基経を諫めたことで宇多天皇の知己を得ます。
そして、宇多天皇は道真を側近中の側近である蔵人頭に抜擢。
以後、異例の昇進を果たします。
しかし、道真の厚遇を苦い思いで見ていたのが藤原時平でした。
彼は宇多天皇が退位し、醍醐天皇にかわったタイミングで道真を太宰府に追放することに成功。
道真は都に戻ることなくこの世を去りました。
その後、都では天変地異や御所への落雷など不祥事が立て続けに起きます。
これを道真の怨霊の仕業と恐れた朝廷は道真を天神として祀りました。
これが北野天満宮や太宰府天満宮の始まりです。
はじめは怨霊して恐れられた道真ですが、次第に彼の学識にあやかろうと学問の神として崇拝されるようになりました。
平将門も藤原純友も10世紀前半に活動した人物です。
引用:平将門 - Wikipedia
平将門は平安時代中期に生きた関東の豪族。
このころ、関東平野では平氏一族が所領争いを繰り広げていました。
一族同士の内紛に、中央から派遣された国司や地元豪族の利害などが複雑に絡み合うことで紛争は激化します。
そして939年、平将門は常陸国の国府を襲撃し占領。
国司の象徴である印綬を奪い取りました(平将門の乱)。
これ以後、将門は関東各地の国府を占領し、「新皇」を自称します。
事の次第を知った朝廷は将門を朝敵とし、討伐軍を派遣しました。
最終的に将門は討伐軍の一員である平貞盛と藤原秀郷によって滅ぼされました。
平将門にまつわる映画として有名なのが『帝都物語』
超能力者加藤保憲が非業の死を遂げた平将門の霊をよみがえらせ帝都東京を壊滅させようとする物語です。
帝都東京を舞台に繰り広げられるスケールの大きなストーリーが魅力でした。
出演者も今では考えられないような大物ばかりで驚きます。
興味がある方はぜひ見てみてください!
引用:藤原純友 - Wikipedia
藤原純友は藤原北家に連なる人物で瀬戸内海で勢力を拡大します。
そもそも、純友は朝廷の命令で瀬戸内海の海賊討伐をしていました。
しかし、次第に朝廷と対立すると自らが海賊となって朝廷に反抗します。
やがて純友の船団は瀬戸内海全域で暴れまわるようになりました。
しかも、純友は九州の重要拠点である太宰府を襲撃するなど手が付けられないほどの勢力に拡大します。
朝廷は討伐軍を派遣し、博多湾で純友の船団と対決。
純友軍は敗北し、純友は捕縛され処刑されました。
引用:藤原道長 - Wikipedia
藤原道長は関白藤原兼家の4男です。
兄たちがいたため、本来なら家督を継ぐことなどできません。
しかし、兄たちが次々と病死したため彼にとっての道が開けます。
道長にとって最大のライバルは兄道隆の子(甥)の伊周と隆家でした。
道長は天皇の后となっていた姉たちの助けを借り、後継者争いに勝利。
しかも、伊周と隆家は女性関係のトラブルから花山法皇の輿に矢を射かけるという不敬をやらかしたため失脚してしまいました。
伊周や隆家など中の関白家の人々について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
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一条天皇の摂政となった道長は、娘たちを天皇家に嫁がせます。
結局、道長の娘たちは一条天皇、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇の后となりました。
その結果、道長は30年にわたり政権を握ります。
晩年、道長は法成寺を造営し、御堂関白とよばれます。
ちなみに道長は若いころから気が強い人物でした。
それを表すのが「競べ弓」のエピソードです。
興味がある方は是非読んでください!
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道長の権勢を引き継いだのが子の藤原頼通でした。
彼も娘たちを天皇家に嫁がせましたが、残念なことに男子が誕生しません。
そのため、藤原氏とつながりが薄い後三条天皇の登場を招いてしまいました。
引用:藤原頼通 - Wikipedia
また、頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建立します。
それゆえ、彼は宇治関白とよばれました。
院政と武士の時代
引用:白河天皇 - Wikipedia
白河上皇は11世紀後半に院政を始めた人物です。
父の後三条天皇は藤原氏と血のつながりが薄く、摂政・関白を置かずに政治を行いました。
しかし、病が原因で退位を余儀なくされます。
あとを継いだ白河天皇は後三条天皇の志を継ぎ、摂関家から政治の実権を取り戻そうとしました。
このとき、白河天皇が考えた作戦が院政です。
天皇という地位は律令に縛られがちですが、上皇(院)は律令の規定にないので比較的自由に行動できます。
まず、自らを律令の縛りから解放し、その上で「天皇の父」として天皇を後見するという政治スタイル、院政を行いました。
彼は堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の3代にわたり院政をおこないます。
白河上皇(後出家して白河法皇)の権勢は天下に並ぶものはなく、彼の思い通りにならないことは「鴨川の水」「山法師(比叡山の僧兵)」「サイコロの目」だけだといわれました。
平清盛は12世紀後半に平氏政権を打ち立てた人物で、武士で初めて太政大臣となりました。
清盛が出世できたのは、清盛の祖父の代から院政に協力してきたからです。
清盛の祖父である平正盛は白河上皇に仕える武士として、院政を支えました。
父の平忠盛は鳥羽上皇の側近として仕え、日宋貿易や瀬戸内海の交易などで富を蓄えます。
そして、平清盛は天皇家や摂関家の内紛である保元の乱と後白河上皇側近同士の争いである平治の乱に勝利して権勢を強めました。
清盛の権勢は次第に最高権力者であるはずの後白河法皇を凌ぐようになります。
後白河法皇としては面白かろうはずがありません。
そして、後白河法皇の側近たちは法皇の意を忖度し平氏打倒の陰謀である鹿ケ谷の陰謀を企てました。
ところが、謀議は事前に清盛にばれてしまい関係者には厳しい罰が下されます。
とはいえ、これで清盛に対する反感がなくなったわけではありません。
1180年、後白河法皇の皇子の一人である以仁王は源頼政の支援を受け挙兵。
全国各地に「以仁王の令旨」を発します。
清盛は反平氏勢力の打倒を指令しますが、そのさなかに熱病によって死去しました。
源頼朝は平安時代末期の源平争乱に勝利し、鎌倉に幕府を開いた人物です。
頼朝の父である源義朝は平治の乱で平清盛に敗れて殺されました。
その際、頼朝は捕らえられてしまいます。
頼朝を殺そうとする清盛に対し、清盛の母が頼朝を生かすよう頼んだため、頼朝は伊豆に流刑となりました。
伊豆に流された頼朝は監視役の一人である北条時政の娘、政子と恋仲になります。
時政は政子と頼朝を引き離そうとしますが、政子は駆け落ちして頼朝のところに行ってしまいました。
これには時政もどうすることもできず、彼らの仲を認めます。
1180年、頼朝は伊豆で以仁王の令旨を受け取り挙兵しました。
最初、頼朝は石橋山で関東の平氏方と戦いましたが敗北し、房総半島に脱出します。
その後、千葉氏などの力を得て勢力を回復し、関東を制圧しました。
清盛は大軍を差し向け頼朝討伐を行いましたが、富士川の戦いで平氏軍が大敗します。
1181年に清盛が熱病で亡くなると、平氏の勢力は衰退。
平氏は都を明け渡し西国に落ち延びます。
かわって都を支配したのが木曽義仲でした。
ところが、義仲は後白河法皇と対立。
固有の武力を持たない後白河法皇は頼朝に義仲追討を命じます。
これをチャンスと考えた頼朝は弟の義経と範頼に兵を預け義仲軍を攻撃させました。
戦いは頼朝軍が勝利します。
さらに、頼朝は彼らに西国の平氏討伐を命じました。
結局、1185年の壇ノ浦の戦いで兵士を滅ぼすことに成功しました。
その後、頼朝は義経と対立。
義経が逃げ込んだ奥州藤原氏も滅ぼし、日本で最も強い軍事集団となります。
そして1192年に征夷た将軍となり鎌倉に幕府を開きました。
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まとめ
いかがでしたか?
平安時代は大きく分けて3つに区分できます。
天皇中心の初期、貴族中心の中期、院政と武士の時代となった後期です。
それぞれの時代の特徴や登場人物を整理することで定期テストや入試の問題に対応できるようになるでしょう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。