「鎌倉時代ってどんな時代?」
「鎌倉時代がいつからいつまでか知りたい!」
「鎌倉時代の人物は?」
このページをご覧の皆さんはそのようにお考えかもしれません。
鎌倉時代は武士中心の時代でした。
源頼朝は関東の御家人たちをまとめあげ、鎌倉に武士の都を建設します。
そこからおよそ140年にわたる鎌倉時代が始まりました。
鎌倉時代は1185年、または1192年から1333年。
世紀でいうと12世紀末から14世紀前半にあたります。
世界的にはモンゴル帝国の拡大や中世ヨーロッパの騎士の時代でした。
また、鎌倉時代はそれ以前に比べ覚えるべき人物が増える時代でもあります。
政治や経済に限っても重要人物が大勢います。
流れを理解するには、彼らがどんな人物か知った方がよいでしょう。
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今回は鎌倉時代がどんな時代化、いつからいつまでか、誰が登場するかなどについてまとめます。
鎌倉時代 いつからいつまで?
鎌倉時代は12世紀末から13世紀前半(1333年)までのおよそ140年間をさす時代区分です。
鎌倉時代の始まりは鎌倉幕府ができた年ですが、幕府がいつできたかについては諸説あります。
鎌倉時代の始まり「3つの説」
①1183年説
源頼朝が朝廷から東国の支配権を認められた1183年を鎌倉時代の始まりとする説です。
ちなみに、朝廷が頼朝に東国支配を認めた宣旨を「寿永二年十月宣旨」といいます。
②1185年説
平氏が壇ノ浦で滅んだ後、頼朝と弟の義経の対立が激化。
1185年、頼朝は義経逮捕を命じ、指名手配された義経は京都を脱出し奥州を目指します。
奥州には義経をかばって養育してくれた藤原秀衡がいたからです。
頼朝は朝廷に迫り、義経の逮捕・討伐のため諸国に守護・地頭を設置することを認めさせました。
頼朝の息がかかった武士が守護や地頭として全国に散ったことで武士の時代である鎌倉時代が始まったという考えですね。
③1192年説
1192年、源頼朝は征夷大将軍に任じられました。
従来、この年が鎌倉幕府が開かれた年であり、鎌倉時代が始まった年とされてきました。
しかし、頼朝の征夷大将軍就任は幕府を開く最後の段階だと考え、幕府の始まりはそれ以前になるのではないかという主張が生まれました。
それが、1183年説や1185年説です。
鎌倉時代の終わり(1333年)
引用:北条高時 - Wikipedia
鎌倉幕府の終わりは1333年です。
鎌倉幕府の支配に不満を持っていた後醍醐天皇が、同じく幕府政治に不満を持つ楠木正成らとともに討幕の動きを強めました。
幕府は後醍醐天皇を隠岐に流し、退位させるなど強引に討幕運動を弾圧しました。
しかし、楠木正成ら悪党の抵抗にあい苦戦します。
そして、1333年、新田義貞が鎌倉を、足利高氏(のち、尊氏)が京都の六波羅探題を攻め滅ぼすことで鎌倉幕府の中枢を破壊し滅亡に追いやりました。
源頼朝(1147-1199)
引用:源頼朝 - Wikipedia
河内源氏の嫡流、源義朝の三男として生まれました。
父義朝が平治の乱で敗死した時、頼朝は平氏に捕らえられ伊豆に流されます。
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1180年、以仁王の令旨に応じて挙兵。平氏や奥州藤原氏を倒し鎌倉に武家政権を打ち立てました。
鎌倉殿とよばれ、御家人たちの厚い信望を集めます。
源義経(1159-89)
引用:源義経 - Wikipedia
源頼朝の弟で幼名は牛若丸。
奥州で藤原秀衡の支援を得て成長。
頼朝が挙兵すると彼のもとにはせ参じ、源義仲や平氏の討伐で功績を上げました。
しかし、のちに頼朝と対立し奥州に逃れます。
その後、頼朝が奥州藤原氏を圧迫。
藤原泰衡は頼朝との関係悪化を恐れ、義経を攻めて自殺に追い込みました。
北条時政(1138-1215)
引用:北条時政 - Wikipedia
伊豆の豪族。
頼朝の妻である政子の父。
頼朝の挙兵に協力し鎌倉幕府の有力御家人となります。
1203年、頼家の妻の父である比企能員の反乱を鎮圧後、初代執権となりました。
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1205年、3代将軍となっていた源実朝を排除し、娘婿の平賀朝雅を新将軍にしようとしました。
しかし、北条政子や北条義時、他の有力御家人が反対。
時政は将軍交代に失敗し失脚します。
北条政子(1157-1225)
引用:北条政子 - Wikipedia
北条時政の娘。
時政は伊豆に流された源頼朝の監視役でした。
しかし、時政が不在のうちに頼朝と政子は恋仲となってしまいます。
それを知った時政は政子と頼朝を引き離そうとしますが失敗。
やむなく、政子と時政の結婚を認めました。
政子は頼朝を支え、幕府の創業を支援します。
頼朝の死後、政子は出家して尼となりながらも幕府政治を採決。
世の人々は彼女を「尼将軍」とよびます。
父の時政が平賀朝雅を将軍にしようとした事件や承久の乱の勃発など、幕府が危機に陥るたびに指導力を発揮しました。
源頼家(1182-1204)
引用:源頼家 - Wikipedia
頼朝と政子の子。
頼朝の急死により、18歳の若さで家督を相続し2代将軍になりました。
しかし、頼家の判断は過去の慣例を無視するもので、御家人たちは頼家の独裁を停止。
かわって、幕府の政治は13人の御家人による合議制に移行しました。
これに対し、頼家は妻の実家である比企氏を頼ります。
しかし、義父の比企能員が北条氏によって滅ぼされると将軍の座を追われました。
その後、伊豆の修善寺に幽閉され1204年に謀殺されました。
源実朝(1192-1219)
引用:源実朝 - Wikipedia
頼朝と政子の子で頼家の弟。
兄が将軍の座を追われたため、1203年に3代将軍となりました。
政治の実権は北条氏に握られていましたが、文化面では高い能力を発揮します。
和歌に優れ、京都の朝廷との関係も改善。
武士として初めて右大臣に任じられました。
ところが、鶴岡八幡宮で行われた右大臣就任に関連する儀式の最中に、頼家の子公暁によって殺害されました。
彼の死により、頼朝の直系男児が絶えてしまいます。
執権政治の時代
後鳥羽上皇(1180-1239)
引用:後鳥羽天皇 - Wikipedia
後白河天皇の孫で第82代天皇。
1198年に退位し、以後、1221年まで院政を行いました。
頼朝が生きていたころは、鎌倉幕府と良好な関係を保ちます。
しかし、頼朝や朝廷と関係が深かった頼家が死ぬと、幕府との関係が悪化。
西面の武士を設けるなど武力を強化します。
そして、1221年に討幕を企て挙兵しました(承久の乱)。
しかし、幕府側の結束は固く後鳥羽上皇方は大敗します。
戦後、後鳥羽上皇は隠岐に流されました。
北条義時(1163-1224)
引用:北条義時 - Wikipedia
北条時政の子で鎌倉幕府2代執権。
時政失脚後、彼にかわって政所執事となり、1213年の和田合戦後には侍所別当も兼任。
執権の地位を確立します。
1221年に起きた承久の乱では、姉の政子の助けを借りつつ御家人たちの力を結集し、後鳥羽上皇方に勝利しました。
北条泰時(1183-1242)
引用:北条泰時 - Wikipedia
北条義時の子で3代執権。
承久の乱では幕府軍の総大将として後鳥羽上皇方の軍と戦い勝利します。
承久の乱後、叔父の北条時房とともに初代六波羅探題となりました。
義時の死後、執権に就任。
連署や評定衆といった役職を整備して執権政治を確立しました。
また、武士たちの法律ともいえる「御成敗式目」を制定したのも彼です。
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北条時宗(1251-1284)
引用:北条時宗 - Wikipedia
5代執権時頼の子で鎌倉幕府8代執権。
フビライが送ってきた服属要求の使者を斬首し、元と戦いになりました。
モンゴル軍が日本に攻めてきた元寇(文永の役・弘安の役)では、九州などの武士を動員しモンゴル軍の侵入を阻止します。
また、南宋から名僧無学祖元を鎌倉に招き、円覚寺を創建するなど禅宗にも理解があったといいます。
フビライ(クビライ)(1215-1294)
引用:クビライ - Wikipedia
チンギス・ハーンの孫でモンゴル帝国の第5代ハーン。
弟との帝位継承争いに勝利し、巨大帝国の主となりました。
都をモンゴル高原のカラコルムから現在の北京にあたる大都に移し、国号を元とします。
周辺諸国を次々と征服し領土を拡大したフビライは日本にも服属を要求します。
しかし、北条時宗は服属要求を拒否。
そのため、フビライは二度にわたって日本を攻めましたが失敗に終わりました。
後醍醐天皇(1288-1339)
引用:後醍醐天皇 - Wikipedia
後醍醐天皇は第96代天皇です。
1318年に即位後、父の後宇多上皇の院政を廃止し、天皇親政を目指しました。
同時に、朝廷よりも強い力を持つ鎌倉幕府の打倒を決意。
側近たちと共に正中の変・元弘の変で討幕を図りますが失敗しました。
そのため、後醍醐天皇は隠岐に流されます。
しかし、名和長利らの支援で隠岐を脱出しました。
その後、足利尊氏や新田義貞、楠木正成らの活躍で鎌倉幕府は滅亡します。
京都に戻った後醍醐天皇は建武の新政を行いました。
ところが、この政治が武士たちに強い不満を抱かせます。
不満を持った武士たちは足利尊氏のもとに結集。
後醍醐天皇は尊氏軍との戦いに敗れ京都の吉野に移り南朝を立てます。
そして、後醍醐天皇は京都に帰ることなく吉野で亡くなりました。
北条高時(1303-1333)
引用:北条高時 - Wikipedia
鎌倉幕府14代執権で、最後の得宗(本家の家督相続者)。
身内人とよばれる側近たちに政治を任せてしまい、幕政の衰退を招きます。
後醍醐天皇が挙兵すると御家人たちに天皇討伐を命じますが、逆に自らが攻撃されてしまいました。
最終的に、新田義貞の鎌倉攻撃を防ぎきれず東勝寺で自刃します。
足利尊氏(1305-1358)
引用:足利尊氏 - Wikipedia
足利氏は源義家の孫である源義康を祖とする源氏の一派です。
鎌倉時代には有力御家人として幕府に仕えていました。
隠岐に流されていた後醍醐天皇が脱出し再挙兵すると、幕府は足利高氏に後醍醐天皇討伐を命じます。
ところが、高氏は幕府の命令に反し、京都における幕府の拠点だった六波羅探題を攻撃し、占拠します。
結局、幕府は高氏や同時期に鎌倉を攻撃した新田義貞の攻撃を防ぎきれず滅亡しました。
幕府討伐に功績があったとして高氏は後醍醐天皇の名の一部をもらって尊氏と名乗ります。
しかし、天皇中心の政治を行い武士たちの不満を解消で期待後醍醐天皇と、武士の利益を尊重する尊氏は次第に対立。
両者は全面衝突してしまいました。
一進一退の攻防の末、後醍醐天皇は京都を脱出。
尊氏は後醍醐天皇と対立していた持明院統の光明天皇を擁立し、征夷大将軍となります。
引用:新田義貞 - Wikipedia
新田義貞は源氏の流れをくむ武士で、足利氏と同じく源義家の孫を祖とします。
義貞は後醍醐天皇の求めに応じ、鎌倉幕府討伐の兵をあげました。
このとき、義貞は主力部隊を送り出し手薄になっていた鎌倉を攻撃。
北条高時以下、北条一族を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させます。
後醍醐天皇が建武の新政を始めると、義貞は武者所頭人となりました。
しかし、尊氏が挙兵すると彼と戦い敗北し戦死しました。
引用:楠木正成 - Wikipedia
楠木正成は河内国の豪族です。
後醍醐天皇が反幕府の兵をあげると正成はこれに応じて挙兵します。
幕府は正成討伐を決め、正成が築いた河内の赤坂城や金剛山の千早城を攻撃しました。
正成は圧倒的な大軍で押し寄せる鎌倉幕府の軍勢をあの手この手を使って防ぎ続けます。
一度は、幕府の攻撃で城を捨てますが、幕府軍が撤退すると再び挙兵。
幕府軍を釘付けにすることによって後醍醐天皇を助けました。
建武の新政では摂津・河内・和泉の守護に任じられます。
足利尊氏が後醍醐天皇と対立し挙兵すると、正成は朝廷軍の一員として尊氏と戦います。
はじめ、正成ら朝廷軍は尊氏軍に勝利しました。
しかし、尊氏は九州で大勢を立て直し再び京都に迫ります。
正成は後醍醐天皇を比叡山に移し、京都で迎撃しようとしますが天皇側近の反対によりこの作戦は実行できません。
やむなく、湊川で尊氏軍と戦って敗北し戦死しました。
北畠顕家(1318-1338)
引用:北畠顕家 - Wikipedia
後醍醐天皇の側近である北畠親房の子。
鎌倉幕府滅亡後は奥州を治めていました。
足利尊氏が挙兵すると、顕家は奥州勢を率いて上洛。
一度は尊氏を打ち破り、九州に追いやりました。
しかし、尊氏が体勢を立て直すと次第に戦況は悪化。
和泉石津の戦いで敗北し戦死しました。
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鎌倉時代は大きく4つに分けることが可能です。
はじめは、頼朝が鎌倉幕府を作り上げる幕府草創期。
次に北条義時・泰時らが活躍する執権政治の時代。
ついで、二度にわたる元寇と北条氏による権力強化の時期。
そして最後に、幕府の滅亡。
それぞれの時代の特徴をまとめます。
1185年 守護・地頭の設置
1192年 頼朝、征夷大将軍に就任
1199年 源頼朝の死
平安時代の末期、それまで王侯貴族の用心棒的立場にあった武士たちは徐々に力を強め、中央の政局を左右する存在に成長しました。
その代表が平氏政権を打ち立てた平清盛です。
平氏政権の末期、後白河法皇の皇子の一人である以仁王が平氏追討の令旨(以仁王の令旨)を全国に発しました。
これに応じて源頼朝や源義仲が挙兵。
清盛の死で混乱する平氏を尻目に、源氏の勢力が急拡大しました。
引用:壇ノ浦の戦い - Wikipedia
中でも、関東を支配した源頼朝は朝廷から東国の支配権を認められるなど強固な基盤づくりに成功します。
その後、頼朝は弟の義経らに兵を預け、源義仲や西国に落ち延びた平氏一門を討伐させました。
ところが、頼朝と義経は朝廷への対応などをめぐって対立。
義経は頼朝に討伐され奥州藤原氏のもとに逃げ込みました。
このとき、頼朝は朝廷から諸国に守護・地頭を設置する権利を認められます。
頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけ、義経を殺させた上で、大軍を派遣。
奥州藤原氏を滅ぼします。
1192年に征夷大将軍となった頼朝は幕府の力をさらに強めようとしましたが、そのさなかに落馬で命を落とします。
執権政治の時代
1219年 源実朝の暗殺
1221年 承久の乱
1232年 御成敗式目の制定
頼朝の死後、長男の頼家が2代将軍となりました。
しかし、まだ若年の頼家は御家人たちを納得させる政治をすることができません。
そのため、将軍としての権利を奪われます。
頼家失脚後、13人の御家人たちが合議で幕府の政治を運営しました。
その後、頼家は謀殺され弟の実朝が3代将軍となります。
ところが、その実朝が頼家の子の公卿に殺されました。
これにより、頼朝の血は絶えてしまいます。
かわって、頼朝の遠縁にあたる藤原氏から将軍を迎える摂家将軍の時代となりました。
引用:承久の乱 - Wikipedia
このころ、幕府内部では有力御家人同士の権力争いが続きます。
幕府の混乱をチャンスと考えたのが後鳥羽上皇です。
上皇は幕府の実力者北条義時討伐の院宣を発し、幕府と全面対決しました。
義時は姉の政子と協力し、御家人たちをまとめ上げます。
そして、10万以上の大軍を編成し、後鳥羽上皇方の軍勢を打ち破りました。(承久の乱)
義時の死後、子の泰時が執権となります。
泰時は執権の独裁を避け、連署や評定衆とともに合議制で幕府政治を運営します。
この泰時が作り上げたシステムを執権政治とよびました。
また、泰時は武士のための法律ともいうべき御成敗式目を制定。
御成敗式目は武士の基本法として鎌倉時代・室町時代を通じて効力を持ちます。
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
1297年 永仁の徳政令
5代執権北条時頼は、執権を退いた後、北条氏本家のトップである得宗として政治に関与しました。
こうした政治の在り方を得宗専制といいます。
得宗専制の仕組みは8代執権北条時宗にも引き継がれました。
北条時宗が執権になったころ、ユーラシア大陸ではチンギスハンに始まるモンゴル帝国が強大化。
周辺諸国を次々と征服していました。
このモンゴル帝国ではトップである大ハーンになるため、代々熾烈な争いを繰り広げます。
そのモンゴル帝国で後継者争いに勝利し、第5代大ハーンとなったのがフビライでした。
フビライもまた、積極的に周辺諸国に出兵し征服を図ります。
そして、フビライの矛先は海を隔てた日本に向けられました。
こうして、二度にわたる日本攻撃である「元寇」が起きたのです。
引用:元寇 - Wikipedia
最初の元寇である文永の役は、元軍の集団戦法や「てつはう」などの火器に苦戦し、博多への上陸を許してしまいました。
その教訓を踏まえ、二度目の戦いである弘安の役では博多湾周辺に石垣を築き、簡単に上陸を許しません。
そればかりか、武士たちは少人数での夜襲を繰り返し、元軍を消耗させます。
戦いが膠着する中、九州北部が嵐に見舞われ、上陸できずに船にいた元軍は大損害を受けました。
元寇やその後の措置で、鎌倉幕府、特に北条氏の力はさらに強まりました。
全国の守護に占める北条氏の割合が大きくなったのもこのころです。
その反面、一般御家人、中でも元寇で軍役の義務を果たしながら恩賞が少なく元が取れなかった武士たちは困窮しました。
困窮した御家人たちは領地を質に入れ、さらに生活が苦しくなります。
幕府は永仁の徳政令を出し、御家人たちの借金を事実上帳消しにします。
しかし、徳政令は武士たちの収入を増やすものではなかったので、借金が無くなっても武士たちの生活は改善せず、そのせいで前より悪い条件で借金せざるを得なくなりました。
こうして、武士たちは北条氏の政治に強い不満を抱くようになります。
1324年 正中の変
1331年 楠木正成の挙兵
1333年 鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代の後期、天皇家は大覚寺統と持明院統の二つに分かれて皇位を争っていました。
収拾がつかなくなった朝廷は幕府に仲裁を依頼。
幕府は大覚寺統と持明院統の天皇が交代で皇位につくことで争いを収めます。
しかし、この幕府の仲裁を皇位継承への介入ととらえ反発した天皇がいました。
後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は側近たちとともに密かに討幕の計画を立てます。
ところが、この計画は幕府の耳に入り側近が処罰されました(正中の変)。
しかし、後醍醐天皇は幕府打倒をあきらめません。
ふたたび、後醍醐天皇は側近たちとともに討幕を計画。
これも事前に漏れてしまいました(元弘の変)。
やむなく、後醍醐天皇は挙兵しましたが、武力で幕府にかなうわけがなく、後醍醐天皇は幕府方に捕らえられてしまいます。
幕府は後醍醐天皇を退位させ、隠岐に流しました。
ところが、後醍醐天皇は隠岐から脱出。
三度、討幕をはかります。
幕府は足利高氏に大軍を預け後醍醐天皇討伐に向かわせました。
しかし、ここで幕府が予想すらしていないことが起きます。
足利高氏は京都にあった幕府の出先機関の六波羅探題を攻撃し滅ぼしました。
さらに、かねてから幕府に不満を持っていた御家人の新田義貞が鎌倉を急襲。
鎌倉幕府と北条氏を滅ぼします。
まとめ
鎌倉時代は12世紀末から1333年までのおよそ140年間です。
源頼朝をはじめ、多くの人物が登場する時代でした。
鎌倉時代攻略のコツは時代を4つに分け、それぞれの登場人物を整理すること。
流れをつかみ、人物をはめ込むことで並べ替え問題など定期テストや入試問題に対応できます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。