元予備校講師の受験対策ブログ

元予備校講師の木彫りグマが、受験対策(主に古文・漢文・地歴公民・面接・小論文)について書くブログ

 本サイトはプロモーションが含まれています

「鳥獣戯画って何?」「鳥獣戯画の作者は誰?」「おすすめの鳥獣戯画グッズはある?」わかりやすく解説します!

鳥獣戯画って何?

鳥獣戯画の作者は誰?

オススメの鳥獣戯画グッズはある?

 

このページをご覧の皆さんは、そのようなことをお考えかもしれません。

鳥獣戯画平安時代後期から鎌倉時代初期に描かれた絵巻物です。

平安時代全体の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

墨一色で書かれていますが、ユーモラスな表情や、生き生きとした動物の様子がとても愛らしく、人気の絵巻物です。

京都の高山寺に伝えられていましたが、国宝とされ、現在は東京国立博物館京都国立博物館に保存されています。

今回は鳥獣戯画とは何か、誰が書いたのか、オススメの鳥獣戯画グッズなどについてまとめます。

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

f:id:kiboriguma:20210516140903p:plain

鳥獣戯画鳥獣人物戯画

引用:鳥獣人物戯画 - Wikipedia

 

鳥獣戯画って何?

鳥獣戯画鳥獣人物戯画)は、京都市右京区にある高山寺に伝えられた絵巻物です。

甲・乙・丙・丁の4巻からなります。

4巻の中でとくに有名なのが、ウサギやカエル、サルなどを擬人化して描いた甲巻です。

f:id:kiboriguma:20210516222244p:plain

鳥獣戯画 甲巻の一部

引用:鳥獣人物戯画 - Wikipedia

 

甲巻に描かれているのは相撲や水遊び、賭け弓、法要、ケンカの場面など様々ですが、いずれも動物たちが演じているため、非常にユーモラスです。

みていると、ゆるキャラ同士のじゃれあいにも見えてくるのが面白いですね。

何のために書かれたものかよくわかっていませんが、横長になったマンガのようにも見えることから、「最古のマンガ」とも呼ばれました。

現在は、マンガという見方はあまりされませんが、マンガに見えても不思議はないですね。

   

鳥獣戯画の作者は誰?

鳥獣戯画の作者は不明です。

ただ、江戸時代から作者と目されていた人物はいました。

それが鳥羽僧正覚猷です。

それと、もうひとりの候補が定智でした。

鳥羽僧正覚猷(かくゆう)

鳥羽僧正覚猷は、平安時代後期の天台宗の僧侶です。

大僧正にもなった仏教界の重鎮でした。

高僧である覚猷のもう一つの顔が絵画に精通した絵描きの顔。

一筋縄ではいかない人物だった覚猷は、死の間際に遺産を分割するための遺言を残してくれとせがむ弟子たちに対し

(財産の)処分は腕力によるべし」と言い残します。

誰に残すとかそういうのを考えるのが面倒だったのか、はたまた、当時の実力主義の風潮を皮肉ってのことなのかは定かではありません。

ちなみに、江戸時代になると日常生活を題材とした戯画や簡略、軽妙に人物などを描いた墨書きの滑稽な絵のことを鳥羽絵(とばえ)と呼ぶようになりました。

この鳥羽は、鳥羽僧正の鳥羽からきているといいます。

なかなか、面白い人物だったようですね。

定智(じょうち)

定智平安時代後期に活躍した僧侶。

絵の名手として知られ、鳥羽僧正覚猷に協力して密教の白描図像(仏や曼荼羅などを墨のみで素描したもの)を収集しました。

醍醐寺高野山でも画僧として活躍します。

高い画力を持っていた定智なら、鳥獣戯画の作者であってもおかしくありません。 

 

鳥獣戯画がある高山寺とは?

f:id:kiboriguma:20210517084841p:plain

高山寺 遺香院

引用:高山寺 - Wikipedia

 

高山寺京都市右京区栂尾にある古刹です。

創建は奈良時代にさかのぼりますが、そのころの実態は不明です。

f:id:kiboriguma:20210517085855p:plain

明恵上人

引用:明恵 - Wikipedia

 

高山寺を大きく発展させたのは明恵上人の時代でした。

明恵上人は後鳥羽上皇から栂尾の土地を拝領し、高山寺を再興します。

明恵上人の生きた時代と鳥獣戯画が作成された時代はほぼ一致していますので、明恵上人の関係者が鳥獣戯画にかかわった可能性もあるでしょう。

公式HPにも高山寺の詳しい解説ありますので、そちらも是非ご覧ください。

kosanji.com

まとめ

今回は鳥獣戯画についてまとめました。

鳥獣戯画平安時代に書かれた作者不明の絵巻物です。

鳥羽僧正覚猷が作者とされてきましたが、本当のところはわかりません。

この絵巻物が伝えられていたのは京都の高山寺

明恵上人にはじまる名刹で紅葉の名所です。

秋のシーズンにぜひ訪れたいですね。

鳥獣戯画はとても人気のデザインで、今回あげた3つ以外にもおすすめ商品がたくさんあります。

ぜひ、あなた好みの鳥獣戯画グッズを探してみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。 

「鎌倉時代ってどんな時代?」「鎌倉時代はいつからいつまで?」「人物や流れは?」わかりやすく解説!

鎌倉時代ってどんな時代?

鎌倉時代がいつからいつまでか知りたい!

鎌倉時代の人物は?

 

このページをご覧の皆さんはそのようにお考えかもしれません。

鎌倉時代は武士中心の時代でした。

源頼朝は関東の御家人たちをまとめあげ、鎌倉に武士の都を建設します。

そこからおよそ140年にわたる鎌倉時代が始まりました。

 

鎌倉時代は1185年、または1192年から1333年。

世紀でいうと12世紀末から14世紀前半にあたります。

世界的にはモンゴル帝国の拡大や中世ヨーロッパの騎士の時代でした。

 

また、鎌倉時代はそれ以前に比べ覚えるべき人物が増える時代でもあります。

政治や経済に限っても重要人物が大勢います。

流れを理解するには、彼らがどんな人物か知った方がよいでしょう。

鎌倉時代に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!
kiboriguma.hatenadiary.jp 

   

今回は鎌倉時代がどんな時代化、いつからいつまでか、誰が登場するかなどについてまとめます。 

f:id:kiboriguma:20210507191241p:plain

鶴岡八幡宮

 

鎌倉時代 いつからいつまで?

鎌倉時代は12世紀末から13世紀前半(1333年)までのおよそ140年間をさす時代区分です。

鎌倉時代の始まりは鎌倉幕府ができた年ですが、幕府がいつできたかについては諸説あります。

鎌倉時代の始まり「3つの説」

①1183年説

源頼朝が朝廷から東国の支配権を認められた1183年を鎌倉時代の始まりとする説です。

ちなみに、朝廷が頼朝に東国支配を認めた宣旨を「寿永二年十月宣旨」といいます。

②1185年説

平氏が壇ノ浦で滅んだ後、頼朝と弟の義経の対立が激化。

1185年、頼朝は義経逮捕を命じ、指名手配された義経は京都を脱出し奥州を目指します。

奥州には義経をかばって養育してくれた藤原秀衡がいたからです。

頼朝は朝廷に迫り、義経の逮捕・討伐のため諸国に守護・地頭を設置することを認めさせました

頼朝の息がかかった武士が守護や地頭として全国に散ったことで武士の時代である鎌倉時代が始まったという考えですね。

③1192年説 

1192年、源頼朝征夷大将軍に任じられました。

従来、この年が鎌倉幕府が開かれた年であり、鎌倉時代が始まった年とされてきました。

しかし、頼朝の征夷大将軍就任は幕府を開く最後の段階だと考え、幕府の始まりはそれ以前になるのではないかという主張が生まれました。

それが、1183年説や1185年説です。

鎌倉時代の終わり(1333年) 

f:id:kiboriguma:20210509140858p:plain

北条高時切腹した「腹切りやぐら」

引用:北条高時 - Wikipedia

 

鎌倉幕府の終わりは1333年です。

鎌倉幕府の支配に不満を持っていた後醍醐天皇が、同じく幕府政治に不満を持つ楠木正成らとともに討幕の動きを強めました。

幕府は後醍醐天皇隠岐に流し、退位させるなど強引に討幕運動を弾圧しました。

しかし、楠木正成ら悪党の抵抗にあい苦戦します。

そして、1333年、新田義貞が鎌倉を、足利高氏(のち、尊氏)が京都の六波羅探題を攻め滅ぼすことで鎌倉幕府の中枢を破壊し滅亡に追いやりました。 

 

鎌倉時代の主な人物

鎌倉幕府の成立

源頼朝(1147-1199

f:id:kiboriguma:20210510220540p:plain

伝・源頼朝

引用:源頼朝 - Wikipedia

河内源氏嫡流源義朝の三男として生まれました。

父義朝が平治の乱で敗死した時、頼朝は平氏に捕らえられ伊豆に流されます。

保元の乱平治の乱について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

1180年、以仁王の令旨に応じて挙兵。平氏奥州藤原氏を倒し鎌倉に武家政権を打ち立てました。

鎌倉殿とよばれ、御家人たちの厚い信望を集めます。

源義経(1159-89)

f:id:kiboriguma:20210510220624p:plain

源義経

引用:源義経 - Wikipedia

 

源頼朝の弟で幼名は牛若丸。

奥州で藤原秀衡の支援を得て成長。

頼朝が挙兵すると彼のもとにはせ参じ、源義仲平氏の討伐で功績を上げました。

しかし、のちに頼朝と対立し奥州に逃れます。

その後、頼朝が奥州藤原氏を圧迫。

藤原泰衡は頼朝との関係悪化を恐れ、義経を攻めて自殺に追い込みました。

北条時政(1138-1215)

f:id:kiboriguma:20210510220700p:plain

北条時政

引用:北条時政 - Wikipedia

伊豆の豪族。

頼朝の妻である政子の父。

頼朝の挙兵に協力し鎌倉幕府の有力御家人となります。

1203年、頼家の妻の父である比企能員の反乱を鎮圧後、初代執権となりました。

比企能員の乱について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

1205年、3代将軍となっていた源実朝を排除し、娘婿の平賀朝雅を新将軍にしようとしました。

しかし、北条政子北条義時、他の有力御家人が反対。

時政は将軍交代に失敗し失脚します。

北条政子(1157-1225)

f:id:kiboriguma:20210510220800p:plain

北条政子

引用:北条政子 - Wikipedia

 

北条時政の娘。

時政は伊豆に流された源頼朝の監視役でした。

しかし、時政が不在のうちに頼朝と政子は恋仲となってしまいます。

それを知った時政は政子と頼朝を引き離そうとしますが失敗。

やむなく、政子と時政の結婚を認めました。

政子は頼朝を支え、幕府の創業を支援します。

頼朝の死後、政子は出家して尼となりながらも幕府政治を採決。

世の人々は彼女を「尼将軍」とよびます。

父の時政が平賀朝雅を将軍にしようとした事件や承久の乱の勃発など、幕府が危機に陥るたびに指導力を発揮しました。

源頼家(1182-1204)

f:id:kiboriguma:20210512074701p:plain

源頼家

引用:源頼家 - Wikipedia

 

頼朝と政子の子。

頼朝の急死により、18歳の若さで家督を相続し2代将軍になりました。

しかし、頼家の判断は過去の慣例を無視するもので、御家人たちは頼家の独裁を停止。

かわって、幕府の政治は13人の御家人による合議制に移行しました。

これに対し、頼家は妻の実家である比企氏を頼ります。

しかし、義父の比企能員が北条氏によって滅ぼされると将軍の座を追われました。

その後、伊豆の修善寺に幽閉され1204年に謀殺されました。

源実朝(1192-1219)

f:id:kiboriguma:20210512075024p:plain

源実朝

引用:源実朝 - Wikipedia

 

頼朝と政子の子で頼家の弟。

兄が将軍の座を追われたため、1203年に3代将軍となりました。

政治の実権は北条氏に握られていましたが、文化面では高い能力を発揮します。

和歌に優れ、京都の朝廷との関係も改善。

武士として初めて右大臣に任じられました。

ところが、鶴岡八幡宮で行われた右大臣就任に関連する儀式の最中に、頼家の子公暁によって殺害されました。

彼の死により、頼朝の直系男児が絶えてしまいます。

 

執権政治の時代

後鳥羽上皇(1180-1239)

f:id:kiboriguma:20210512080757p:plain

後鳥羽上皇

引用:後鳥羽天皇 - Wikipedia

 

後白河天皇の孫で第82代天皇

1198年に退位し、以後、1221年まで院政を行いました。

頼朝が生きていたころは、鎌倉幕府と良好な関係を保ちます。

しかし、頼朝や朝廷と関係が深かった頼家が死ぬと、幕府との関係が悪化。

西面の武士を設けるなど武力を強化します。

そして、1221年に討幕を企て挙兵しました(承久の乱)。

しかし、幕府側の結束は固く後鳥羽上皇方は大敗します。

戦後、後鳥羽上皇隠岐に流されました。

北条義時(1163-1224)

f:id:kiboriguma:20210512080856p:plain

北条義時

引用:北条義時 - Wikipedia

 

北条時政の子で鎌倉幕府2代執権。

時政失脚後、彼にかわって政所執事となり、1213年の和田合戦後には侍所別当も兼任。

執権の地位を確立します。

1221年に起きた承久の乱では、姉の政子の助けを借りつつ御家人たちの力を結集し、後鳥羽上皇方に勝利しました。

北条泰時(1183-1242)

f:id:kiboriguma:20210512081258p:plain

北条泰時

 

引用:北条泰時 - Wikipedia

 

北条義時の子で3代執権。

承久の乱では幕府軍の総大将として後鳥羽上皇方の軍と戦い勝利します。

承久の乱後、叔父の北条時房とともに初代六波羅探題となりました。

義時の死後、執権に就任。

連署評定衆といった役職を整備して執権政治を確立しました。

また、武士たちの法律ともいえる「御成敗式目」を制定したのも彼です。

御成敗式目について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

北条氏の専制政治得宗専制

北条時宗(1251-1284)

f:id:kiboriguma:20210512215804p:plain

北条時宗

引用:北条時宗 - Wikipedia

 

5代執権時頼の子で鎌倉幕府8代執権。

フビライが送ってきた服属要求の使者を斬首し、元と戦いになりました。

モンゴル軍が日本に攻めてきた元寇文永の役弘安の役)では、九州などの武士を動員しモンゴル軍の侵入を阻止します。

また、南宋から名僧無学祖元を鎌倉に招き、円覚寺を創建するなど禅宗にも理解があったといいます。

フビライ(クビライ)(1215-1294)

f:id:kiboriguma:20210513080740p:plain

フビライ(クビライ)

引用:クビライ - Wikipedia

 

チンギス・ハーンの孫でモンゴル帝国の第5代ハーン。

弟との帝位継承争いに勝利し、巨大帝国の主となりました。

都をモンゴル高原カラコルムから現在の北京にあたる大都に移し、国号を元とします。

周辺諸国を次々と征服し領土を拡大したフビライは日本にも服属を要求します。

しかし、北条時宗は服属要求を拒否。

そのため、フビライは二度にわたって日本を攻めましたが失敗に終わりました。

 

鎌倉時代末期

後醍醐天皇(1288-1339)

f:id:kiboriguma:20210513081120p:plain

後醍醐天皇

引用:後醍醐天皇 - Wikipedia

 

後醍醐天皇は第96代天皇です。

1318年に即位後、父の後宇多上皇院政を廃止し、天皇親政を目指しました。

同時に、朝廷よりも強い力を持つ鎌倉幕府の打倒を決意。

側近たちと共に正中の変・元弘の変で討幕を図りますが失敗しました。

そのため、後醍醐天皇隠岐に流されます。

しかし、名和長利らの支援で隠岐を脱出しました。

 

その後、足利尊氏新田義貞楠木正成らの活躍で鎌倉幕府は滅亡します。

京都に戻った後醍醐天皇建武の新政を行いました。

ところが、この政治が武士たちに強い不満を抱かせます。

不満を持った武士たちは足利尊氏のもとに結集。

後醍醐天皇は尊氏軍との戦いに敗れ京都の吉野に移り南朝を立てます。

そして、後醍醐天皇は京都に帰ることなく吉野で亡くなりました。

北条高時(1303-1333)

f:id:kiboriguma:20210513082150p:plain

北条高時

引用:北条高時 - Wikipedia

 

鎌倉幕府14代執権で、最後の得宗(本家の家督相続者)。

身内人とよばれる側近たちに政治を任せてしまい、幕政の衰退を招きます。

後醍醐天皇が挙兵すると御家人たちに天皇討伐を命じますが、逆に自らが攻撃されてしまいました。

最終的に、新田義貞の鎌倉攻撃を防ぎきれず東勝寺で自刃します。

足利尊氏(1305-1358)

f:id:kiboriguma:20210513213700p:plain

足利尊氏

引用:足利尊氏 - Wikipedia

 

足利氏は源義家の孫である源義康を祖とする源氏の一派です。

鎌倉時代には有力御家人として幕府に仕えていました。

隠岐に流されていた後醍醐天皇が脱出し再挙兵すると、幕府は足利高氏後醍醐天皇討伐を命じます。

ところが、高氏は幕府の命令に反し、京都における幕府の拠点だった六波羅探題を攻撃し、占拠します。

結局、幕府は高氏や同時期に鎌倉を攻撃した新田義貞の攻撃を防ぎきれず滅亡しました。

幕府討伐に功績があったとして高氏は後醍醐天皇の名の一部をもらって尊氏と名乗ります。

しかし、天皇中心の政治を行い武士たちの不満を解消で期待後醍醐天皇と、武士の利益を尊重する尊氏は次第に対立。

両者は全面衝突してしまいました。

一進一退の攻防の末、後醍醐天皇は京都を脱出。

尊氏は後醍醐天皇と対立していた持明院統光明天皇を擁立し、征夷大将軍となります。 

新田義貞(?-1338)

f:id:kiboriguma:20210513214147p:plain

新田義貞

引用:新田義貞 - Wikipedia

 

新田義貞は源氏の流れをくむ武士で、足利氏と同じく源義家の孫を祖とします。

義貞は後醍醐天皇の求めに応じ、鎌倉幕府討伐の兵をあげました。

このとき、義貞は主力部隊を送り出し手薄になっていた鎌倉を攻撃。

北条高時以下、北条一族を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させます。

後醍醐天皇建武の新政を始めると、義貞は武者所頭人となりました。

しかし、尊氏が挙兵すると彼と戦い敗北し戦死しました。

楠木正成(?-1336)

f:id:kiboriguma:20210513214534p:plain

楠木正成

引用:楠木正成 - Wikipedia

 

楠木正成河内国の豪族です。

後醍醐天皇が反幕府の兵をあげると正成はこれに応じて挙兵します。

幕府は正成討伐を決め、正成が築いた河内の赤坂城や金剛山千早城を攻撃しました。

正成は圧倒的な大軍で押し寄せる鎌倉幕府の軍勢をあの手この手を使って防ぎ続けます。

一度は、幕府の攻撃で城を捨てますが、幕府軍が撤退すると再び挙兵。

幕府軍を釘付けにすることによって後醍醐天皇を助けました。

建武の新政では摂津・河内・和泉の守護に任じられます。

足利尊氏後醍醐天皇と対立し挙兵すると、正成は朝廷軍の一員として尊氏と戦います。

はじめ、正成ら朝廷軍は尊氏軍に勝利しました。

しかし、尊氏は九州で大勢を立て直し再び京都に迫ります。

正成は後醍醐天皇比叡山に移し、京都で迎撃しようとしますが天皇側近の反対によりこの作戦は実行できません。

やむなく、湊川で尊氏軍と戦って敗北し戦死しました。

北畠顕家(1318-1338)

f:id:kiboriguma:20210513215137p:plain

北畠顕家

引用:北畠顕家 - Wikipedia

 

後醍醐天皇の側近である北畠親房の子。

鎌倉幕府滅亡後は奥州を治めていました。

足利尊氏が挙兵すると、顕家は奥州勢を率いて上洛。

一度は尊氏を打ち破り、九州に追いやりました。

しかし、尊氏が体勢を立て直すと次第に戦況は悪化。

和泉石津の戦いで敗北し戦死しました。

北畠顕家について知りたい方はこちららの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

鎌倉時代の流れ

鎌倉時代は大きく4つに分けることが可能です。

はじめは、頼朝が鎌倉幕府を作り上げる幕府草創期。

次に北条義時・泰時らが活躍する執権政治の時代。

ついで、二度にわたる元寇と北条氏による権力強化の時期。

そして最後に、幕府の滅亡。

それぞれの時代の特徴をまとめます。

鎌倉幕府の成立

 

1185年 守護・地頭の設置

1192年 頼朝、征夷大将軍に就任

1199年 源頼朝の死

 

平安時代の末期、それまで王侯貴族の用心棒的立場にあった武士たちは徐々に力を強め、中央の政局を左右する存在に成長しました。

その代表が平氏政権を打ち立てた平清盛です。

平氏政権の末期、後白河法皇の皇子の一人である以仁王平氏追討の令旨(以仁王の令旨)を全国に発しました。

これに応じて源頼朝源義仲が挙兵。

清盛の死で混乱する平氏を尻目に、源氏の勢力が急拡大しました。

 

f:id:kiboriguma:20210515214444p:plain

壇の浦の戦い

引用:壇ノ浦の戦い - Wikipedia

 

中でも、関東を支配した源頼朝は朝廷から東国の支配権を認められるなど強固な基盤づくりに成功します。

その後、頼朝は弟の義経らに兵を預け、源義仲や西国に落ち延びた平氏一門を討伐させました。

 

ところが、頼朝と義経は朝廷への対応などをめぐって対立。

義経は頼朝に討伐され奥州藤原氏のもとに逃げ込みました。

このとき、頼朝は朝廷から諸国に守護・地頭を設置する権利を認められます。

頼朝は奥州藤原氏に圧力をかけ、義経を殺させた上で、大軍を派遣。

奥州藤原氏を滅ぼします。

1192年に征夷大将軍となった頼朝は幕府の力をさらに強めようとしましたが、そのさなかに落馬で命を落とします。

執権政治の時代

 

1219年 源実朝の暗殺

1221年 承久の乱

1232年 御成敗式目の制定

 

頼朝の死後、長男の頼家が2代将軍となりました。

しかし、まだ若年の頼家は御家人たちを納得させる政治をすることができません。

そのため、将軍としての権利を奪われます。

 

頼家失脚後、13人の御家人たちが合議で幕府の政治を運営しました。

その後、頼家は謀殺され弟の実朝が3代将軍となります。

ところが、その実朝が頼家の子の公卿に殺されました。

これにより、頼朝の血は絶えてしまいます。

かわって、頼朝の遠縁にあたる藤原氏から将軍を迎える摂家将軍の時代となりました。

 

f:id:kiboriguma:20210515214538p:plain

承久の乱の関連地図

引用:承久の乱 - Wikipedia

 

このころ、幕府内部では有力御家人同士の権力争いが続きます。

幕府の混乱をチャンスと考えたのが後鳥羽上皇です。

上皇は幕府の実力者北条義時討伐の院宣を発し、幕府と全面対決しました。

義時は姉の政子と協力し、御家人たちをまとめ上げます。

そして、10万以上の大軍を編成し、後鳥羽上皇方の軍勢を打ち破りました。(承久の乱

 

義時の死後、子の泰時が執権となります。

泰時は執権の独裁を避け、連署評定衆とともに合議制で幕府政治を運営します。

この泰時が作り上げたシステムを執権政治とよびました。

 

また、泰時は武士のための法律ともいうべき御成敗式目を制定。

御成敗式目は武士の基本法として鎌倉時代室町時代を通じて効力を持ちます。 

 

北条氏の専制政治

 

1274年 文永の役

1281年 弘安の役

1297年 永仁の徳政令

 

5代執権北条時頼は、執権を退いた後、北条氏本家のトップである得宗として政治に関与しました。

こうした政治の在り方を得宗専制といいます。

得宗専制の仕組みは8代執権北条時宗にも引き継がれました。

 

北条時宗が執権になったころ、ユーラシア大陸ではチンギスハンに始まるモンゴル帝国が強大化。

周辺諸国を次々と征服していました。

このモンゴル帝国ではトップである大ハーンになるため、代々熾烈な争いを繰り広げます。 

 

そのモンゴル帝国で後継者争いに勝利し、第5代大ハーンとなったのがフビライでした。

フビライもまた、積極的に周辺諸国に出兵し征服を図ります。

そして、フビライの矛先は海を隔てた日本に向けられました。

こうして、二度にわたる日本攻撃である「元寇」が起きたのです。

f:id:kiboriguma:20210515214738p:plain

蒙古襲来(元寇

引用:元寇 - Wikipedia

 

最初の元寇である文永の役は、元軍の集団戦法や「てつはう」などの火器に苦戦し、博多への上陸を許してしまいました。

その教訓を踏まえ、二度目の戦いである弘安の役では博多湾周辺に石垣を築き、簡単に上陸を許しません。

そればかりか、武士たちは少人数での夜襲を繰り返し、元軍を消耗させます。

戦いが膠着する中、九州北部が嵐に見舞われ、上陸できずに船にいた元軍は大損害を受けました。

 

元寇やその後の措置で、鎌倉幕府、特に北条氏の力はさらに強まりました。

全国の守護に占める北条氏の割合が大きくなったのもこのころです。

その反面、一般御家人、中でも元寇で軍役の義務を果たしながら恩賞が少なく元が取れなかった武士たちは困窮しました。

困窮した御家人たちは領地を質に入れ、さらに生活が苦しくなります。

幕府は永仁の徳政令を出し、御家人たちの借金を事実上帳消しにします。

しかし、徳政令は武士たちの収入を増やすものではなかったので、借金が無くなっても武士たちの生活は改善せず、そのせいで前より悪い条件で借金せざるを得なくなりました。

こうして、武士たちは北条氏の政治に強い不満を抱くようになります。

鎌倉幕府の滅亡

 

1324年 正中の変

1331年 楠木正成の挙兵

1333年 鎌倉幕府の滅亡

 

 鎌倉時代の後期、天皇家大覚寺統持明院統の二つに分かれて皇位を争っていました。

収拾がつかなくなった朝廷は幕府に仲裁を依頼。

幕府は大覚寺統持明院統天皇が交代で皇位につくことで争いを収めます。

 

しかし、この幕府の仲裁を皇位継承への介入ととらえ反発した天皇がいました。

後醍醐天皇です。

後醍醐天皇は側近たちとともに密かに討幕の計画を立てます。

ところが、この計画は幕府の耳に入り側近が処罰されました(正中の変)。

 

しかし、後醍醐天皇は幕府打倒をあきらめません。

ふたたび、後醍醐天皇は側近たちとともに討幕を計画。

これも事前に漏れてしまいました(元弘の変)。

やむなく、後醍醐天皇は挙兵しましたが、武力で幕府にかなうわけがなく、後醍醐天皇は幕府方に捕らえられてしまいます。

幕府は後醍醐天皇を退位させ、隠岐に流しました。

 

ところが、後醍醐天皇隠岐から脱出。

三度、討幕をはかります。

幕府は足利高氏に大軍を預け後醍醐天皇討伐に向かわせました。

しかし、ここで幕府が予想すらしていないことが起きます。

足利高氏は京都にあった幕府の出先機関六波羅探題を攻撃し滅ぼしました。

さらに、かねてから幕府に不満を持っていた御家人新田義貞が鎌倉を急襲。

鎌倉幕府と北条氏を滅ぼします。

まとめ

鎌倉時代は12世紀末から1333年までのおよそ140年間です。

源頼朝をはじめ、多くの人物が登場する時代でした。

鎌倉時代攻略のコツは時代を4つに分け、それぞれの登場人物を整理すること。

流れをつかみ、人物をはめ込むことで並べ替え問題など定期テストや入試問題に対応できます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。   

「田沼意次とは?」「田沼がイケメンって本当?」商業重視の新しい政治で改革を断行した田沼意次について解説!

田沼意次とは?

 

田沼意次ってどんな人?

田沼が行った政治・経済の改革とは?

田沼の賄賂政治を批判した狂歌や川柳って何?

 

このページを見ている人はそんな疑問を持っているかもしれません。

 

田沼意次は9代将軍家重と10代将軍家治に仕え、商業重視の経済政策を展開した人物です。

 

彼は株仲間を公認し、長崎貿易で俵物の輸出を奨励するなどして幕府財政の立て直しを図ります。

 

また、意外なことにイケメンとしても知られている人物でした。

 

今回は田沼意次が仕えた将軍、彼のおこなった改革、彼の政治を批判した狂歌や川柳、イケメンエピソードなどを中心にまとめます。

江戸時代全体の流れや江戸幕府の仕組みを知りたい人は、こちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

 

f:id:kiboriguma:20201225081218p:plain


 

田沼意次の年表

f:id:kiboriguma:20201225074400p:plain

田沼意次のプロフィール

f:id:kiboriguma:20201225081316p:plain

田沼意次

引用:田沼意次 - Wikipedia

田沼意次は1719年に旗本田沼意行の長男として生まれました。

 

田沼家はもともと紀伊藩の藩士でしたが、紀伊藩主徳川吉宗が将軍となったことで幕臣編入された家です。

 

意次は家督相続前から9代将軍となる徳川家重の小姓として仕えます。

 

1745年、徳川吉宗が隠居し、家重が9代将軍となります。それにともなって、意次も西の丸から本丸に入りました。

 

以後、家重の側近として重用されます。そして1751年には御用取次に任じられました。

 

意次は家重の次の将軍である10代家治の御用取次にも選ばれました

 

そして、1767年に側用人が復活した時、意次がその職に任じられます。しかも、1769年には老中も兼務するようになりました。

 

しかし、意次の時代に賄賂がはやったとして反対勢力がこれを非難します。

 

賄賂自体は当時の慣習だったのですが、意次の場合、あまりに急速な出世が周囲の妬みを買ったのかもしれません。

 

1786年に家治が亡くなると、後ろ盾を失った意次は失脚してしまいました。

 

9代将軍家重、10代将軍徳川家治が田沼を信任

f:id:kiboriguma:20201225081403p:plain

田沼を信任した9代将軍徳川家重

引用:徳川家重 - Wikipedia

9代将軍となった家重は意次をかなり信任したようです。その証拠が、意次を御用取次に任じたことです。

 

御用取次とは、徳川吉宗側用人を廃止して設置した役職です。主な仕事は、将軍と老中の間を取り次ぐ連絡がかかりでした。

 

御用取次に任じられるのは側衆の中でも将軍の信任が厚い人物だけです。意次がいかに家重から信任されていたかがわかります。

 

そして、自分が死ぬ間際に家治に引き続き意次を重用するよう遺言しました。

 

家治の時代になると彼は復活した側用人や幕政のトップである老中などに任じられます。

 

こうして、のちに「田沼時代」とよばれる意次の政治が展開されたのです。

 

田沼が行った政治改革とは?

田沼は享保の改革が農業中心の財政政策と年貢増徴を図ったのとは対照的に、商業振興や貨幣政策、俵物の輸出奨励などによる経済政策を展開しました。

 

また、蝦夷地の開拓にも乗り出します。しかし、印旛沼手賀沼干拓事業には失敗しました。

商業政策

f:id:kiboriguma:20201225081527p:plain


株仲間の公認

田沼は商人たちの同業者組合である「株仲間」を公認する代わりに、その見返りとして幕府に運上や冥加という名の営業税を納めさせる仕組みをつくりました

 

新たな財源を探していた田沼は都市の商業資本に目を付けます。

 

江戸幕府は土地や土地を耕す農民に対して幾重にも支配・課税の仕組みを整えていたのに比べると、都市での課税が軽微でした。

 

そこで田沼は都市の富裕な商人から税をとろうとします。

 

しかし、むやみやたらと商人に課税をしても彼らが衰退してしまえば財源が失われます。

 

そこで、田沼は彼らの商売を「公認」し、独占権を認める代わりに彼らから冥加金を受け取るようにしました。

 

商人たちは幕府公認となることでライバルとの競争で有利になり、幕府は収入を得られるという仕組みです。

専売制の拡充

f:id:kiboriguma:20201225081658p:plain

高麗人参朝鮮人参)

引用:オタネニンジン - Wikipedia

田沼時代、高い利益を上げることができる4つの産品を幕府の専売としました。

 

その産品とは、銅・鉄・真鍮・朝鮮人です。銅は長崎貿易の輸出品として重要でした。

 

鉄や真鍮は手工業の原材料として使います。朝鮮人参は高価な薬として利用されました。

 

いずれの産品も幕府の専売制にすることで確実に利益を上げることができるものです。

 

田沼はそれぞれの産品で商人たちに座を作らせ独占販売を認める代わりに、運上や冥加を得ました

 

南鐐二朱銀の鋳造

f:id:kiboriguma:20201225081737p:plain

田沼が発行させた南鐐二朱銀

引用:南鐐二朱銀 - Wikipedia

南鐐二朱銀とは、「二朱」と額面が決められた銀貨です。江戸時代、東日本では小判をはじめとする金貨、西日本では量って使う銀貨が使われていました。

 

金貨は現在の私たちのお金と同じく額面がついていました。金1両は4分、1分は4朱でした。ということは、金1両は16朱となります。このような貨幣を計数貨幣といいました。

 

一方、銀貨は使うときに秤で重さを図って、〇〇匁(もんめ)と割り出してから使います。このような貨幣を秤量貨幣といいました。

 

商業活動が西日本・東日本の圏内にとどまっているならよいのですが、江戸時代は日本全国をまたにかけた商売が盛んになります。

 

金貨と銀貨の交換をスムーズにするため、「二朱」という額面付きの銀貨が作られました。それが南鐐二朱銀です。

 

これで、いちいち量らなくても金1両=南鐐二朱銀8枚という交換が可能となりました。

 

大坂と江戸で商売するような人にとってとても便利な通貨が誕生したことになりますね。

貿易政策

f:id:kiboriguma:20201225081834p:plain

俵物の輸出

田沼は長崎貿易の赤字を解消するため、俵物とよばれる海産物の輸出に力を入れました。

 

長崎貿易は中国産の生糸やオランダ船が持ち込むヨーロッパ製品を輸入し、金・銀・銅などを輸出する貿易です。

 

幕府は長崎貿易によって貨幣の原料となる金・銀・銅が輸出するのは好ましくないと考え、長崎貿易を制限するようになりました。

 

田沼はそれとは違い、新たな輸出品を作り出すことで金・銀・銅の輸出を抑えようと考えました。

 

田沼が目を付けたのは海産物、とくに干しアワビやいりこ、フカヒレなどを詰めた俵物でした。

 

これらの品物は中華料理の原料として高値が付くため、利益が出せる輸出品となります。

 

積極的な俵物輸出の奨励により長崎貿易での金・銀・銅の輸出を抑制することができました。 

農業政策

f:id:kiboriguma:20201225081941p:plain


印旛沼手賀沼干拓

印旛沼手賀沼も千葉県北部にある湖沼です。徳川吉宗の時代、新田開発の一環として開拓が試みられましたがうまくいかなかった場所でした。

 

田沼は利根川水系の開発で水運の強化と新田開発の一挙両得を狙います。

 

しかし、工事がある程度進んだ頃に関東平野を大規模な水害が襲いました。そのせいで印旛沼手賀沼干拓は失敗に終わります。

 

『赤蝦夷風説考』を読み蝦夷地探査を実行

 

田沼は仙台藩出身の工藤平助が書いた『蝦夷風説考』を読み、ロシア帝国蝦夷地に迫っていることを知りました。

 

田沼はそれまで松前藩によって独占されていた蝦夷地を本格的に探査しようと考えます。

 

松前藩について知りたい方はこちらもどうぞ! 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

こうして、最上徳内らをメンバーとする蝦夷地探検隊を組織します。

 

最上徳内らは1785年と1786年に千島列島を探査しました。田沼失脚後も蝦夷地探査は続けられ、幕府による蝦夷地直轄に繋がります。

田沼意次松平定信の関係

f:id:kiboriguma:20201225082118p:plain

田沼失脚後、寛政の改革を行った松平定信

引用:松平定信 - Wikipedia

松平定信田沼意次の失脚後、老中首座として寛政の改革を行った人物です。

定信について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

彼は徳川吉宗の孫で、白河松平家に養子に出されていなければ将軍になれた可能性があった人物でした。

 

この養子縁組に田沼が関わったとする説がありますが、定かではありません。

 

将軍家治の死によって田沼が失脚したのち、定信は老中首座となり、改革を実施しました

 

この改革では質素倹約が奨励されました。しかし、 田沼政治の全てを否定したわけではありません。

 

南鐐二朱銀など先進的な経済政策は継続させています

 

田沼政治に関連する狂歌・川柳

 

狂歌年号は安く永しと変われども諸色高直いまにめいわ九

 

田沼時代の明和九年、年号が安永と改元されました。しかし、諸色=米以外の物価は高値で年号が「安く永し」となっても生活が苦しいと皮肉っています。

 

川柳「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ

 

にぎにぎとは賄賂のことです。役人となると仕事よりも賄賂を受け取ることばかりがうまくなるという皮肉です。

 

田沼時代は幕府の保護を受けた商人や商人からわいろを受け取る役人たちにとって有利な時代で、自分たち庶民は何の恩恵もないという庶民の嘆きが聞こえてくるようです。

 

田沼意次に関するエピソード・伝説

田沼がイケメンだったって本当?

田沼意次は若いころから「イケメン」として有名でした。

 

彼は将軍付きの小姓として家重に仕えます。将軍後継者のお供ですから、当然、大奥の女性たちの目に触れる機会も多かったでしょう。

 

大奥の女性たちは豆まきのイベントの際、無礼講なのをチャンスとして将軍側近などの男性陣の中から「年男」を簀巻きにしていたずらすることをしていました。

 

ところが、意次はそのターゲットにされたことがありません。

 

その理由は、あまりにイケメン過ぎて、神々しくて近寄りがたかったからとのこと。

 

現代なら、さしずめジャニーズのアイドルのような扱いだったのかもしれませんね。

 

田沼は気遣いで出世!

田沼は気遣いの人でした。彼が仕えた9代将軍家重は病気で言葉が不明瞭な人物でした。

 

田沼は丁寧に家重の意向を聞き、気持ちを察して行動したといいます。こうした日頃の言動が家重・家治から絶大な信任を得た理由です。

 

彼が気を使ったのは目上だけではありません。部下たちにも気を使いました

 

ある寒い日、都城を控えた田沼は寒さに震える部下たちに酒をふるまい、体を温めさせます。

 

それだけではなく、酒を飲めないもののために温かい食べ物も用意したといいます。田沼は細やかな気遣いができる人だったことがわかります。

 

田沼の部下がもらった「京人形」とは

田沼の権勢を物語る伝説として「京人形」の話があります。

 

あるとき、田沼の部下である勘定奉行松本秀持は大坂の商人から大きな箱の贈り物をもらいました。

 

その箱には「京人形」が入っているといいます。あけてみると中から美しい着物を着た京人形が現れました。

 

等身大の美しい人形でしたが何か変です。よくよく見ると人形は息をしています。そう、その人形は生きた美女だったのです。

 

現代的な価値観で見れば、人間を贈り物にするというのはとてもひどい話に聞こえますが、当時としてはしゃれた贈り物のつもりだったのでしょう。 

 

田沼意次についてのまとめ

今回は田沼意次について紹介しました。

 

田沼は江戸時代に主流だった農業中心の改革と一線を画す商業重視の政策を行いました。

 

これにより、幕府は新たな収入源を確保することができました。

 

また、長崎貿易の収支を改善し金銀などの流出を抑えることにも成功します。

 

しかし、田沼の商業重視は賄賂政治を招いてしまい世間の反発を買ってしまいました。

 

そのため、彼を信任していた9代将軍家重、10代将軍家治がこの世を去ると後ろ盾を失った田沼は失脚してしまいます。

 

この記事を読んで田沼意次の政治やエピソードが「わかった!」と思っていただけたら幸いです。

 

『枕草子』「中納言参りたまひて」登場人物の人物像やあらすじ、敬語についてわかりやすく解説!

中納言参りたまひての登場人物は?

中納言参りたまひてのあらすじは?

中納言参りたまひてに出てくる敬語とは?

 

この記事を見てくださっている方は、このような疑問を持っているかもしれません。

中納言参りたまひて」は清少納言の随筆『枕草子』の102段に収められているお話です。

 

この話には関白藤原道隆の子の「中納言藤原隆家彼の姉である中宮定子、定子の女房の一人である清少納言の3人が登場します。

 

あるとき、中納言隆家が定子の部屋を訪れて扇の骨を自慢します。

そのときに、清少納言が機知に富む返しをしたというのがこのお話でした。

 

今回は、「中納言参りたまひて」の登場人物の人物像や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項についてまとめます。

平安時代全体の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

f:id:kiboriguma:20201220073519j:plain

   

中納言参りたまひて」の登場人物と人物像

中納言藤原隆家

文中に出てくる中納言藤原隆家のことです。彼は時の関白藤原道隆の子でした。

 

兄は内大臣藤原伊周、妹は一条天皇中宮となった定子です。

彼の一家のことを「中関白家(なかのかんぱくけ)」といいます。

 

隆家は979年に誕生しました。

そして、一条天皇時代の989年に元服し11歳で従五位下侍従に任じられ貴族の一員となりました。

 

その後、父道隆の手によりどんどん位階を引き上げられ、995年には中納言に任じられます。

このとき、彼は16歳の若者で、明るい未来が待っているように思われました。

 

しかし、彼が中納言になって間もなく、父道隆が亡くなります。

このことは中関白家の人々に暗い影を落としました。

 

996年、伊周と隆家は伊周の女性問題に端を発して花山法皇と対立し、こともあろうに花山法皇を襲撃し、法皇の着物の袖に矢を打ち込んでしまいました。

 

花山天皇の退位のいきさつについて知りたい方はこちらをどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

この事件を最大限利用したのが彼らのライバルだった藤原道長です。

道長と伊周の「競べ弓」の話を知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

これらの事件の責任を追及された伊周は太宰府に、隆家は出雲にそれぞれ左遷されてしまいました。

 

この中納言参りたまひて」は、若き日の隆家の屈託ない様子を描いた貴重な記録で隆家の人物像をうかがい知ることができるエピソードです。

 

また、隆家は激しい性格でしたが、一本気で政敵である道長にも評価されたといいます。

 

後年、大宰府に勤務した時は善政を施し、北方の異民族が九州を攻撃した刀伊の入寇では現地の武士を指揮し撃退に成功しています。

宮中での出世はかないませんでしたが、剛毅な一生を送った人物でした。

中宮定子

f:id:kiboriguma:20201220073638p:plain

枕草子』の挿絵に出てくる中宮定子

引用:藤原定子 - Wikipedia

中宮定子は隆家の姉で、一条天皇の后です。

清少納言にとって直接の上司にあたる女性で、『枕草子』もしばしば登場します。

母譲りの漢文の素養や文学に関する深い教養があったようです。

 

定子の漢文の素養に関してはこちらの記事をご覧ください

kiboriguma.hatenadiary.jp

999年、定子は一条天皇の皇子を身ごもります。

しかし、後ろ盾となるべき父の道隆はすでに亡くなっていました。

 

彼女を支えるべき兄の伊周と弟の隆家花山法皇襲撃事件を引き起こし、定子を頼って彼女が宿下がりしていた二条宮に逃げ込みます

 

定子は兄と弟をかくまいました。

しかし、一条天皇検非違使に二条宮の捜査を命じたため庇いきれなくなります。 

この捜査で隆家が逮捕されました。兄の伊周は逃亡後、捕まります。

捕縛された二人は、結局、左遷されてしまいました。

 

こうして、道長と伊周の出世争いは道長の勝利に終わります。


摂関政治の中身もわかるので、古典と日本史の両方を理解するのに役立ちました。

 

さて、仲の良かった兄たちが左遷された後、定子はどうしたのでしょうか?

左遷を知った定子は自らはさみを手に取って髪を切り、出家してしまいました。

宮廷生活に絶望したのかもしれません。

 

枕草子』の記述や、その後の生き方から定子のつつましやかで優しい人物像が伺われます。

その後、一条天皇が兄弟の罪を許したので、定子は再び宮中に入ります。

そして1001年、媄子内親王を出産した直後に亡くなりました

清少納言

f:id:kiboriguma:20201220074457p:plain

引用:清少納言 - Wikipedia

清少納言は966年に生まれました。主人である定子とは24歳差です。

 

彼女の父は『後撰和歌集』の選者で梨壺の五人の一人に挙げられる歌人清原元輔でした。

その後、橘則光藤原棟世らと結婚します。

 

彼女が宮中に出仕したのは993年頃のことで、一条天皇中宮となっていた定子に仕える女房の一人として採用されます

 

彼女が華やかな宮中での生活を書き記したのが『枕草子なのです。

ただ、『枕草子』は全てが事実ではなく多分にフィクションを含んでいるとの指摘もありますので、読み手は注意が必要です。

 

清少納言についてはこちらの記事でも触れています。 

kiboriguma.hatenadiary.jp

1001年に中宮定子が亡くなった後、清少納言は女房を辞めて宮中を去ったと考えられています。

 

清少納言の人物像としては才気煥発という言葉がふさわしいように思いますが、同時に、宮中での敵も多かったかもしれません。

周囲の人々(定子付きの他の女官たち)

f:id:kiboriguma:20201220074718p:plain

引用:女官 - Wikipedia


官職を持ち、宮中に使える女性たちのことを女官といいます。

 

尚侍、典侍掌侍などの高位の女官から、雑事をつかさどる一般の女官まで、宮中には様々な女性が働いていました。

清少納言もそうした女官の一人です。

 

作中に出てくる中宮定子は天皇の后という極めて高貴な身分の女性でした。

彼女の身の回りの世話をする侍女たちは清少納言だけではありません。

しかも、一定水準以上の教養の持ち主が選抜されていました。

   

中納言参りたまひて」のあらすじ

ある日、中納言藤原隆家中宮定子のもとを訪れました。

彼は、姉である定子に扇を献上します。そして、こんな話をしました。

 

隆家「私は素晴らしい骨を見つけました。これにふさわしい紙を張り付け、扇として献上したいのですが、ありきたりの紙を張ることなどできません。(だから、ふさわしい紙を)探してるのです。」

 

定子「(その骨は)どんなものですか?」

 

隆家「すべてが素晴らしい骨です。人々は「今まで全く見たことがない骨のようすです」と申しています。(私も)本当にこれだけの骨は見たことがありません。と声高におっしゃいました。

 

それを聞いた清少納言が隆家にいいます。

 

清少納言「それでは、扇の(骨)ではなく、くらげの(骨)のようですね」

 

隆家「(それはいい言葉だと思ったので)これは、隆家が言ったことにしてしまおう」

そういって、お笑いになりました。

 

なんだか自慢話のようで、書かないでおこうと主思ったのですが、周囲の人たち(女房達)「一つも書き漏らしてはいけない」などというので、書かないわけにはいかなくなったので書き記します。

 

中納言参りたまひて」の面白さとは?

f:id:kiboriguma:20201220075057j:plain

この話の「面白さ」は、楽しいという意味の面白さ(funny)ではなく、教養があるという点の面白さ(interesting)です

では、誰の教養なのでしょうか?それは、筆者である清少納言の教養です。

 

文中で隆家は扇の骨を「見たことがないほど素晴らしい」とほめちぎりました。

 

それを清少納言は、「見たことがない」→「存在しない」と連想し、そんな見たことがない骨なら、クラゲの骨のようですねと返したわけです。

 

しかも、そのことを隆家が褒めて、「自分のセリフにする」といいました。清少納言としては自分の機知を褒められ、とてもうれしかったのでしょう。

 

しかし、そのことをストレートに日記に書くと自慢話といわれます。

だからさいごに「皆が書けっていったから」という言い訳を書いたわけです。 

平安貴族のマストアイテムだった扇

扇は平安時代初期に生まれました。

宮中に出入りする貴族たちにとって、扇は欠かすことができないマストアイテムです。

扇には夏用の蝙蝠扇と冬用の檜扇があります。

夏の蝙蝠扇

f:id:kiboriguma:20201220075304p:plain

引用:扇子 - Wikipedia

夏に使う扇は蝙蝠扇とよばれました。蝙蝠はコウモリのこと。

開いた形が翼を広げたコウモリの形に似ていることからそのように呼ばれました。

 

骨に紙を貼るものですが、紙は扇の表面に貼られ、裏側には骨が露出していました。

 

文中で隆家はいい骨を手に入れたが、それに見合う(紙)がないといっていることから、彼が作ろうとしていたのは蝙蝠扇だと考えられます。

 

冬の檜扇

f:id:kiboriguma:20201220075438p:plain

引用:檜扇 - Wikipedia

檜扇は木製でつくられた扇のことです。

特に女性の檜扇を袙扇(あこめおうぎ)とよびます。

 

檜の薄板を重ね合わせ、要の留め具に和紙を用いたものでした。

貴族たちにとって檜扇は正装の一部でとても重要なものです。

 

檜扇は要を持たず、広げるときには要の少し上を持つのが作法とされました。

顔を見せないのが当たり前の平安女性にとって、檜扇は顔を隠すちょうどよいアイテムとなったでしょう。

 

扇についてはこちらの記事がとても参考になりました。

気になる方は、こちらもご覧ください。

扇子の老舗・宮脇賣扇庵|京扇子|京都 六角富小路

   

係り結びの法則

係り結びは「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」の係助詞(係り)が文中に登場すると文末(結び)が終止形以外の形に変化する法則のことです。

これは古文に使われる表現の一つで、強調や疑問をあらわします。

 

私たちは文章を書くとき、「!」や「?」を用いることで強調や疑問を表現することができます。

しかし、平安時代にこれらの記号は存在しませんでした。そこで用いられたのが係り結びです。

 

現代文で「!」にあたるのは、「ぞ」「なむ」「こそ」、「?」にあたるのは「や」「か」です。

これらの言葉が入ると、文末が変化します。「ぞ」「なむ」「や」「か」は文末が連体形に、「こそ」は已然形に変化するのです。

 

このお話だと「隆家こそいみじき骨は得てはべれ」の「こそ」が係助詞、「はべれ」は「はべる」の已然形です。

 

「隆家が!素晴らし骨を手に入れた」と自分こそが素晴らしい骨を手に入れたということを強調したいがための表現なのです。

 

姉に対して「見てみて!」と珍しい骨を持ってきて、褒めてもらいたいかのような隆家の振る舞いはなんともほほえましい限りですね。

 

最高ランクの人にしか使われない「二重敬語(最高敬語)」

 

敬語には尊敬語、謙譲語、丁寧語があります。

そのうち、尊敬語は相手の言動に対して尊敬の気持ちを込めて使います

 

通常、一つの動作に対し敬語は一つですが、とても偉い人に対しては二重に敬語を使います。

これが二重敬語、または最高敬語です。

 

(定子が隆家に)「いかようにかある」と問ひ聞こえさせたまへば、の部分で問うという定子の行動に対し、筆者の清少納言が「聞こゆ」と「させたまふ」という2つの敬語を重ねています

 

これは、定子が天皇の后(中宮)なので、最高の敬意を払う必要があるからです。

この文に限らず、「中納言参りたまひて」はやたらに敬語が出てきます。

しかも、主語がことごとく省略されているので非常にわかりにくいです。

 

ただ、清少納言の立場からすれば定子も隆家も自分の目上にあたる人たちなので、彼らの行動すべてに敬語をつける必要がありました。

 

大まかに言って、本文を書いている清少納言中宮定子や中納言隆家の行動すべてに尊敬語を用い、清少納言自身の行動には謙譲語を用いているといってよいでしょう。

 

まとめ

今回は『枕草子』に収録されている「中納言参りたまひて」をとりあげました。

 

学校で教材にされることが多く、敬語問題の定番としても出題されることから古典初心者を大いに悩ませる章段です。

 

ただ、登場人物や扇についての基礎知識、最低限の敬語の知識があれば内容は難しくありません。

 

この記事を読んで、登場人物や話に出てくる扇の古典常識、最高敬語をはじめとする注意すべき文法事項について「わかった!」と思っていただけたら幸いです。

 

百人一首の名歌「しのぶれど」。意味や作者、天徳内裏歌合での対決とは?

しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 

この歌はどういう意味だろう?

この歌と、恋すてふ の歌とのかかわりは?

しのぶれど という名のバラがあるって本当?

 

このページに来てくれた方は、そんな疑問を持っているかもしれません。

 

「しのぶれど」の歌は『拾遺和歌集』や『百人一首』に収められた名歌です。

 

歌の出来が素晴らしく、この歌が披露された歌会でもう一つの名歌と優劣を競ったエピソードをもちます。

 

今回は「しのぶれど」の歌の作者や歌の意味、「恋すてふ」の歌と競い合った天徳内裏歌合、「しのぶれど」の歌が登場する『名探偵コナン』や『ちはやふる』など現代の作品、「しのぶれど」という名のバラについてまとめます。

f:id:kiboriguma:20201215214438p:plain

 

しのぶれど 色に出でにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 「しのぶれど」の歌の意味

 

まず、「しのぶ」は我慢する、こらえるといった意味です。「しのぶれど」で、我慢していたけれどといった意味になります。

 

次に「色」は、表情や感情といった意味です。末尾に詠嘆の「けり」がついていることから、「顔に気持ちがでてしまったのだなぁ」という意味になります。

 

では、「色」に出てしまったのは何か?それは、「我が恋」、自分の恋心です。しかも、「ものや思ふ」、何か(誰か)を思っているのですか?と「人の問」、周りの人に問われてしまうほどまで。

 

もうこうなると、恋心がバレバレで他人に見えて、しかも聞かれてしまっているということになります。

 

まとめると、我慢してきた恋心でしたが、顔に出てしまっていたのだなぁ。ほかの人に「だれか好きな人でもいるの?」と聞かれてしまうくらいに

 

となります。学生時代にそんな経験をした人は多いかもしれませんね。

 

作者は平兼盛

f:id:kiboriguma:20201215214745p:plain

「しのぶれど」の作者である平兼盛

作者の平兼盛三十六歌仙の一人に選ばれるほどの和歌の名手です。

 

彼は光孝天皇のひ孫にあたり、後撰和歌集』時代の代表的な歌人でした。

 

出世競争では報われず、かろうじて貴族とよべる「従五位下上」にとどまりました。

 

彼の歌は後撰和歌集拾遺和歌集『後拾遺和歌集などに数多く採用されました。

 

兼盛の歌風は、比較的わかりやすく素直だと評されます。そのため、平安時代の古典に疎い現代人にとっても共感しやすいのかもしれません。

 

「しのぶれど」と「つつめども」の違い

この「しのぶれど」の歌には、初句が「つつめども」となっているものがあります。それは、鎌倉時代中期に書かれた『沙石集』です。

 

この中にある平兼盛壬生忠見が歌の優劣を競った「天徳内裏歌合」の記事で、兼盛の歌が「つつめども」と紹介されています。

 

「つつめども」も「しのぶれど」も、周囲に見えないように隠すという点では同じ意味になります。よって、どちらであっても意味に大差はありません。

 

ただ、勅撰和歌集である『拾遺和歌集』は1006年前後の成立とされていることから、もともとの歌は「しのぶれど」と考えるのが自然でしょう。

 

 

 披露されたのは「天徳内裏歌合」

 「しのぶれど」の歌が披露されたのは、村上天皇の時代にあたる天徳4年(960年)の「天徳内裏歌合」の時でした。

 

村上天皇を始め、上流貴族が勢ぞろいした豪華な歌会で、壬生忠見が詠んだ「恋すてふ」の歌と一騎打ちを演じます。

 天徳内裏歌合とは

f:id:kiboriguma:20201215214943p:plain

天徳内裏歌合が催された清涼殿

 天徳内裏歌合は、宇多天皇時代の「寛平后宮歌合」、鎌倉時代初期の「六百番歌合」などともに有名な歌会です。

 

披露される歌のお題は一か月前に告示され、歌人たちは歌合当日まで推敲を重ねました。

 

全部で20番の勝負で、勝敗の判定は判者である左大臣藤原実頼が決します。

 

補佐役には大納言の源高明がつきました。歌人たちは左右両陣営に分けられ、それぞれの歌を披露します。

 

ちなみに、右方の講師(歌を詠む人)は小説『陰陽師』で有名になった源博雅です。

 

左右両陣営には応援の女房達が割り振られ、左方は赤、右方は青をベースとした衣装で聞かざるなど、非常にきらびやかな演出がなされます。

 

こうして、村上天皇臨席のもと、天徳内裏歌合がスタートしました。

 

しのぶれど(つつめども)」VS「恋すてふ

 

歌合は、それぞれの歌を交互に披露して行われます。そして、優れている方を判者が決定して次の歌に進みました。

 

勝敗が決することもあれば、持といって引き分けになることもあります。歌合はどんどんすすみ、ついに最後の20番目の勝負となりました。

 

左方の講師は壬生忠見の歌を詠みます。

 

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

 

恋すてふ、というのは恋しているというのはという意味です。まだきは、もうすでにという意味です。

 

ですから、(あなたに)恋しているという私の名前が、すでに知られてしまった(噂になってしまった)なぁという訳になります。

 

人知れずこそは、人が知らないようにという意味で、思いそめは想い初め、つまり想い始めたばかりという意味になります。

 

ということで、人に知られないように、(あなたのことを)想い始めたばかりなのにという訳になります。

 

奇しくも、「しのぶれど」の歌と同じように秘めていた恋心があらわになった瞬間を詠んだ和歌となりました。

 

どちらの歌がよいか、左大臣実頼は判定がつかず、引き分けにしようとします。

 

ところが、村上天皇が納得しません。実頼はなんとしても勝負をつけるしかなくなりました。 

 

勝ったのは「しのぶれど」の歌

実頼が勝敗をつけかねていると、大納言の源高明がアドバイスします。

 

「帝(村上天皇)がしのぶれどの歌を口ずさんでいる」と教えてくれたのです。これで意を決した実頼は、右方を勝者と認定します。

 

こうして、歌合では「しのぶれど」が勝利しました。

 

敗れた壬生忠見は激しく落胆します。そして食が細くなり、ついには死んでしまったといいます。

 

『沙石集』では「歌ゆゑに命を失ふ事」というタイトルをつけ、天徳内裏歌合と壬生忠見の死のエピソードを紹介しました。 

まとめ

今回は百人一首に登場する「しのぶれど」の和歌について紹介しました。

 

この歌は、内に秘めた恋心を詠んだ名歌です。天徳内裏歌合では、同じく恋心を詠んだ壬生忠見の「恋すてふ」の歌と激しいつばぜり合いを演じました。

 

また、この歌は現代の作品にも影響を与えています。名探偵コナンや『ちはやふる』には「しのぶれど」の歌にちなんだエピソードが登場します。

 

千年たってまでリバイバルされるとは詠んだ平兼盛も思わなかったでしょうね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

   

「松前藩とは?」「松前藩のアイヌ交易や場所請負制度とは?」わかりやすく解説!

松前藩ってどんな藩?

松前藩の場所はどこ?

松前藩の歴史やアイヌとの関係が知りたい!

 

このページを訪れた皆さんは、そのようにお考えかもしれません。

 

松前藩は江戸時代に現在の北海道にあたる蝦夷地を支配した藩でした。

米がとれない松前藩アイヌとの交易を財源とするとても珍しい藩です。

江戸時代の中頃になると、松前藩アイヌと交易する場所の経営権を商人たちに委ねる場所請負制度をはじめます。

 

松前藩の支配が蝦夷地各地に及ぶようになると和人とアイヌの摩擦が起きるようになり、たびたび、戦いとなりました。

 

今回は、松前藩の歴史やアイヌとの関係、松前藩蝦夷地支配や松前藩アイヌを通じて行った山丹交易についてまとめます。

 

江戸時代に興味がある人は、こちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

写真AC 松前城



松前藩とは?

 

松前藩蝦夷地、現在の北海道に唯一成立した藩です。

 

渡島半島南部の松前周辺に福山城を築城し居城としました。

そのため、福山藩とも呼ばれます。

松前藩は江戸時代を通じて松前氏が支配しました。

 

1719年に松前藩は1万石の扱いとなり、大名として格付けされます。

幕末には北方警備の関連もあり3万石の扱いとなります。

 

松前藩は米を産しない特殊な藩でした。

米のかわりに松前藩の収入源となったのがアイヌとの交易です。

1593年に豊臣秀吉から船役(交易船から税を取る権利)を、1604年に徳川家康からアイヌ交易の独占権を認められました。

 

江戸時代の初め、松前藩の支配領域は松前周辺から渡島半島にかけての地域に限られていました。 

しかし、徐々に松前藩は支配を強化します。

 

17世紀後半になると、松前藩による交易独占や不公平な交易、場所請負制度に対するアイヌ側の不満が高まります。

 

1669年にはアイヌ内部の部族対立などをきっかけに、松前藩アイヌが武力衝突するシャクシャインの戦いが起きました。

その後、松前藩アイヌが住む蝦夷地に対する支配を強化します。

アイヌと和人(日本人)との対立はたびたび起きましたが、1789年のクナシリ・メナシの戦いをさいごに大規模な戦いは終わりました。

 

今回は江戸時代に北海道に成立した松前藩の歴史や松前藩蝦夷地支配、松前藩アイヌとの戦い、松前藩アイヌを通じて行った山丹交易についてまとめます。

 

松前藩はどこ?

渡島半島に道南十二館が成立

f:id:kiboriguma:20200810100937p:plain

鎌倉時代から室町時代にかけて道南に成立した和人の拠点「道南十二館」

引用:道南十二館 - Wikipedia

室町時代、東北地方北部と蝦夷地は交易をおこなっていました。

 

東北地方から蝦夷地に移り住んだ人々は蝦夷地の南西部にあたる渡島半島の沿岸に交易拠点を置きました。

この拠点を道南十二館といいます。

 

これら道南十二館を支配したのが蝦夷管領ともよばれた津軽の安東氏です。

道南十二館は上之国(現上ノ国町)、松前(現松前町)、下之国(現北斗市)に分けられ、それぞれに守護が置かれました。

 

当時の交易を物語る遺物が「下之国」の一部にあたる函館市銭亀沢の志海苔地区で見つかりました。

出土したのは室町時代の商人が埋めたと思われる古銭がつまった大きな甕2つです。

 

室町時代、取引に使われたのは中国から渡ってきた宋銭でした。

銭亀沢から出土した古銭の大半も宋銭です。

銭の重量は5トン、合計374,436枚もの古銭が入っていました。

 

銭亀沢地区の隣にある志海苔地区には道南十二館の一つである志苔館がありました。

古銭の甕の出土はこの地区で盛んに交易がおこなわれていたことをうかがわせる資料です。

コシャマインの戦いと武田信広

f:id:kiboriguma:20200810101043j:plain

志苔館の跡

引用:志苔館 - Wikipedia

1456年、志苔に住んでいた和人の鍛冶屋と客としてやってきたアイヌの男が製品をめぐって口論になりました。

やがて、口論はエスカレートし、和人の鍛冶屋はアイヌの客を殺してしまいます。

 

1457年に入ると、渡島半島東部のアイヌの首長コシャマインを中心にアイヌが団結し和人たちと武力衝突しました。

各地から集まったアイヌたちは志苔館をはじめ、道南十二館のうち十を攻め落とします

 

劣勢となった和人側は、若狭(現在の福井県西部)武田氏出身と称する武田信広を中心に団結します。

武田信広は武士たちを率いてアイヌに反撃し、七重浜コシャマイン父子を討ち取りました。

 

コシャマインの戦いが終結したのち、武田信広は上之国守護で花沢館を支配していた蠣崎氏の養子となり家督を相続します。

のち、蠣崎氏が松前藩をつくるので、武田信広松前藩の始祖とされます。

 

蠣崎氏による道南支配

コシャマインの戦いに勝利した武田信広勝山館を築城し、拠点とします。

信広の跡を継いだ蠣崎光広は本拠地を松前に移しました。

 

光広の子の蠣崎義広は、アイヌショヤコウジ兄弟と戦って勝利します。

主君の安東氏は義広に蝦夷地を訪れる交易船から税を取る権利を認めます。

 

これにより、蠣崎氏は他の道南十二館の館主よりも強い立場となりました。

ショヤコウジ兄弟との戦いの後も、義広とアイヌの戦いは続きます。

義広の跡を継いだ季広は、主君である安東氏の要請でたびたび本州に派兵しました。

安東氏から独立を果たした松前慶広

蠣崎慶広家督を継いだ1582年は、日本史で重要な年です。

天下統一を目前にした覇王織田信長本能寺の変で斃れた年だからです。

信長の後継者として頭角を現したのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉でした。

 

1590年、小田原攻めに勝利した豊臣秀吉は奥羽仕置と称して東北地方の支配固めを行いました。

蠣崎慶広は主君である安東実季に従い上洛しました。

このときの慶広の立場は安東氏の支配下にある蝦夷地代官です。

 

上洛後、慶広は前田利家らをつてとして、直接秀吉に会うことに成功します。

そして、秀吉から所領を安堵され、朝廷から従五位下の官位を与えられました。

これで、蠣崎慶広は安東氏から独立した存在として世間に認められました

 

慶広は1591年に起きた九戸政実の乱のとき、アイヌを率いて討伐軍に参加します。

また、朝鮮出兵の時にも手勢を連れて参陣しました。

その功績で、秀吉から蝦夷地で徴税する権利を認める朱印状を与えられます

 

慶広は秀吉から与えられた朱印状をアイヌに示し、自分に背けば秀吉が10万の大軍を率いて蝦夷地に乗り込んでくるとアイヌを威圧しました。

 

松前藩による蝦夷地支配

f:id:kiboriguma:20200810101346p:plain

松前氏の家紋

引用:松前藩 - Wikipedia

家康の黒印状

1598年、豊臣秀吉がなくなると慶広は徳川家康蝦夷地の地図を献上し、支配権の継続を図りました。

また、自分の子供たちには「松前」と名乗らせます。

 

1604年、慶広は家康から蝦夷地交易独占を認める「黒印の制書」を与えられました。

黒印状では、松前氏の許可なく蝦夷地で交易をおこなってはならないことや、日本人が松前氏に無断で蝦夷地にわたることの禁止、アイヌに非道なことを行ってはならないことなどが記されています。

 

同時に、アイヌについては移動制限を設けず、自由に移動してよいと定められました。

松前藩の参勤交代はどうなっていたのか?

江戸時代、ほとんどの藩に参勤交代が義務付けられていました。

蝦夷地にある遠隔地の松前藩といえども例外ではありません。

しかし、一般的な1年おきの参勤交代ではありませんでした。

 

徳川綱吉の時代である元禄年間、松前藩主は3年に1度の割合で江戸に上っていました

それ以後は5~6年に一度と改められます

 

参勤交代で、松前藩主が使っていた街道を松前街道といいます。

松前藩主は松前街道を伝って津軽半島三厩から陸奥湾沿いに南下し、青森から奥州街道を経て江戸に向かいました。

和人地と蝦夷

f:id:kiboriguma:20200810101600j:plain

引用:第4章 松前藩の成立

松前氏が道南の支配を固めていったころ、北海道は日本人が住む和人地とアイヌが住む蝦夷地に分けられていきました。

和人地の西の端である熊石(現八雲町熊石)と東の端である亀田(現函館市)には関所がおかれ、往来を監視します。

 

アイヌが住む蝦夷地は熊石よりも西(地図上は熊石以北)の西蝦夷と、亀田より東の東蝦夷地に区分けされます。

西蝦夷地は積丹や石狩方面から宗谷に連なります。蝦夷噴火湾から日高、釧路方面に達しました。

松前藩は上級家臣に交易権を与えた(商場知行制)

米がとれない松前藩にとって、収入元はアイヌとの交易でした。

江戸時代の初めごろ、アイヌの酋長(乙名:おとな)は毛皮や海産物、アイヌの工芸品などを松前城下に持ち込み、松前藩主にこれらの品物を献上します。

松前藩側からは酒や生活必需品が与えられました。

 

江戸時代の中頃になると、松前藩主は上級家臣に蝦夷地各地の交易場(商場・場所)の経営権を与えるようになりました。

この仕組みを商場知行制といいます。

 

この仕組みがはじまると、アイヌ松前城下まで来ず、各地の商場で商場の所有者(知行主)と交易するようになりました。 

商場は蝦夷地全体で60カ所以上作られます。

アイヌ側は鮭やニシン、コンブ、オットセイ、クマ皮、ラッコ毛皮などを持ってきました。

ニシン漁について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

松前藩側は米や古着、酒、生活用具(ナベ、お椀、糸など)、タバコなどの嗜好品を持ち込みます。

場所請負制でアイヌを漁場労働者として支配

18世紀になると、松前藩主や上級家臣は、自ら場所での交易を運営するのではなく商人たちに場所の経営を任せるようになりました。

商人は運上金を藩主や知行主に納め、残りを自分の収入とします。

 

蝦夷地の場所請負に乗り出したのは、資本力がある近江商人たちでした。

近江商人について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

商人たちは交易をおこなうだけではなく、アイヌを労働力とした漁業を場所で行います

商人たちが熱心に漁業に取り組んだ背景には、江戸時代に需要が急増した肥料の存在がありました。

 

場所でとれた大量のニシンを煮て魚油を搾り取る一方、残った搾りかす(鰊粕)を肥料として販売しました。

魚油や鰊粕は昆布やアワビなどの海産物と共に北前船で本州各地に出荷され、近江商人をはじめとする場所請負商人は巨額の利益を上げます。

 

その陰で、アイヌたちは低賃金労働者として場所で働かされるようになりました

 

こうした豊かな海産物を使って作られたのが松前漬でした。

松前漬けはニシンの卵であるカズノコや昆布、スルメイカなどを醤油で漬け込んだものです。

もともとは塩味でしたが、函館山形屋昭和12年に売り出すときに醤油漬けに変更。

これがヒットの要因だったのかもしれません。

以来、松前漬けは北海道有数の郷土料理に成長しました。

近年、ニシンの不漁によりカズノコが高級品となってしまいましが、やはり、松前漬けはカズノコが多いのがいいというかたにはこちらをお勧め。

 

 

函館の水産加工会社布目が作っている「黄金松前は、カズノコがびっしり詰まったThe松前漬けという感じの商品です。

醤油が強めなので、味が濃いですが、酒のつまみやご飯のおともに最適です。

気になった方は是非食べてみてください!

「ウイマム」と「オムシャ」

f:id:kiboriguma:20200810102133j:plain

オムシャの図絵

引用:オムシャ - Wikipedia

松前藩アイヌ支配を固めるため行っていた儀礼が2つあります。

 

一つは「ウイマム」です。

もともと、ウイマムはアイヌと和人との交易そのものを指す言葉でした。

その後、ウイマムはアイヌ松前藩主やその代官である上級家臣、幕府が派遣する巡検使に拝謁するときの儀礼へと変化します。

 

もう一つは「オムシャ」です。

オムシャは交易相手へのあいさつを意味する言葉だったようです。次第に、交易や漁業を慰労する行事となります。

 

その際、場所で働くアイヌたちは松前藩からの掟を読み聞かせられます。

 

松前藩アイヌの戦い

f:id:kiboriguma:20200810102230p:plain

引用:アイヌ - Wikipedia

シャクシャインの戦い

f:id:kiboriguma:20200810102354j:plain

シャクシャインの本拠地の跡

引用:シャクシャイン - Wikipedia

江戸時代初めにあたる17世紀中ごろ、アイヌの中で部族対立が激しくなっていました。

 

対立していたのは日高から道東の太平洋沿岸にかけての集団であるメナシクルと現在の苫小牧や白老、千歳方面の集団であるシュムクルです。

 

メナシクルの指導者はシャクシャイン、シュムクルの指導者はオニビシです。

 

松前藩は両者の対立を仲裁するなどしていました。

1668年、オニビシがシャクシャインによって殺されると両集団の対立は一触即発の状態になります。

 

シュムクルの首長の一人ウタフが松前を訪れ、支援を要請しましたが松前藩は拒否します。

その帰路でウタフが疱瘡でなくなりました。

 

ウタフの死は松前藩による毒殺であるといううわさがたちまちアイヌの中で流布し、アイヌの中での反和人感情がたかまります。

 

もともと、アイヌは交易が自分たちに不利で、年々、対価として支払われる米などが少なくなっていることに強い不満を持っていました。

シャクシャインはメナシクルだけではなく、シュムクルの首長たちにも反松前藩の挙兵を訴えました。

シャクシャインの呼びかけに応じた2000の軍勢が蝦夷地各地で和人を襲撃します。東西蝦夷地で300人以上の和人が殺害されました。

 

シャクシャインの蜂起を知った松前藩国縫に出陣しシャクシャインの南下に備えます。

 

松前藩からの報せを聞いた幕府は弘前藩南部藩久保田藩(秋田)に出兵を命じ、旗本の松前泰広(藩主松前矩広の大叔父)を派遣します。

 

クンヌイでの戦いは一進一退でしたが、鉄砲を装備する松前藩軍が有利で、シャクシャインは一時後退します。

松前藩側はアイヌの中でもシャクシャインと距離がある部族などを切り崩し、シャクシャインの力を弱めます。

 

不利を悟ったシャクシャインは償いの宝物を差し出し和睦を申し出ます。

シャクシャインは和睦の宴に出向きましたが、その酒宴の場で殺害されます。

その他の有力な首長も謀殺されたり捕らえられたりして各個撃破されました。

 

シャクシャインの戦いの後、松前藩アイヌに「七カ条の起請文」を提出させ服従を誓わせます

その結果、松前藩蝦夷地支配は強化されました。

江戸時代にのアイヌについて書かれた本や漫画はあまりありませんが、こちらの本はとても興味深かったです。

 

シャクシャインがなぜ、松前藩と戦ったのか。

教科書ではたった1行だけで終わってしまう「シャクシャインの戦い」の背景をまとめたマンガです。

こちらを読むと、シャクシャインの戦いをもう少し詳しく知ることができるでしょう。

アイヌについてもっと知りたい方はこちらもオススメです!

クナシリ・メナシの戦い 

18世紀になり場所請負制度が本格的に運用されるようになると、アイヌは場所の低賃金労働者として働かされるようになりました。

そればかりか、場所の番人たちはアイヌに暴力や脅迫、婦女暴行などの蛮行を行っていたといいます。

 

現在の道東にあたるクナシリ・メナシの地域でも、場所請負制度に対するアイヌの不満が高まり、いつ何が起きてもおかしくない状態となります。

1789年、クナシリ島の首長のサンキチが病にかかりました。サンキチが場所の支配人勘兵衛が持ってきた酒を飲んだところ、ほどなく亡くなってしまいます。

 

同じころ、クナシリの別の首長の妻が和人からもらった飯を食べて亡くなりました。

和人が毒でアイヌを根絶やしにしようとしていると考えたアイヌの人々は場所の支配人や通訳、番人を襲撃します。

 

また、たまたま忠類に来ていた飛騨屋の船(大通丸)も襲われました。

蜂起したアイヌは130人程度で道東地域にいた和人71人が殺害されます。

松前藩はただちに鎮圧部隊を送り込みました。

松前藩は取り調べの結果、37人のアイヌを死罪とします。

以後、アイヌの大規模な抵抗はなくなりました。

 

松前藩アイヌを通じて行った山丹交易

f:id:kiboriguma:20200810141116j:plain

アイヌによってもたらされた「蝦夷錦」

引用:第4展示室 特集展示 「夷酋列像」|プレスリリース|歴博とは|国立歴史民俗博物館

江戸時代、松前藩アイヌを通じてユーラシア大陸の人々(山丹人)と交易をしていました。

これを山丹交易といいます。

 

山丹人とは、黒竜江流域に住むウリチ族やニヴフ族などのことです。

彼らは中国本土を支配する清朝の産品を樺太蝦夷地のアイヌと交易しました。

 

山丹人は清朝に貂皮を上納し、かわりに役人が着る絹の服(官服)や布地、鷲の羽、青玉などを与えられました。

 

山丹人はこれらの品物を蝦夷地に持ち込みます。

アイヌは和人から得た鉄製品や米、酒などと山丹人が持ち込んだ品物を交換しました。

 

松前藩や場所請負商人は、山丹交易で得られた品物を江戸・大坂に運び利益を得ます。

特に清朝の官服は「山丹服」・「蝦夷錦」として珍重されました。

まとめ

松前藩は現在の北海道に成立した藩です。

米を算出しない松前藩アイヌとの交易を収入源とする特殊な藩でした。

松前慶広は豊臣秀吉徳川家康といった中央の権力者と巧みに結びつくことで安東氏の支配から独立します。

 

江戸幕府からアイヌ交易独占権を認められた松前藩は、上級家臣たちに各地で交易する権利を分け与える商場知行制を行いました。

やがて、商場知行制は場所の経営そのものを商人に委ねる場所請負制度へと変化します。

 

和人が蝦夷地に深くかかわるにつれ、和人とアイヌの対立も激しくなりました。

17世紀中ごろのシャクシャインの戦いや18世紀後半のクナシリ・メナシの戦いで、松前藩は武力や謀略を用いてアイヌを屈服させます。

 

松前藩の歴史や松前藩蝦夷地支配、松前藩アイヌの戦い、山丹交易などにつて、「そうだったのか」と思っていただけたら幸いです。

 

長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

 

 

「保元の乱とは誰と誰の戦い?」「平治の乱との違いとは?」登場人物、原因、結果、勝者などについてわかりやすく解説!

保元の乱って何?

保元の乱で戦ったのは誰と誰?

保元の乱平治の乱の違いは?

保元の乱の原因や結果についてわかりやすく解説してほしい!」

 

このページに来てくださった皆さんは、そんな風にお思いかもしれません。

 

保元の乱とは平安時代末期の1156年に崇徳上皇後白河天皇が日本の支配権をめぐって争った戦いです。

 

藤原氏や源氏、平氏崇徳上皇側と後白河天皇側に分かれて争います。

 

戦いは後白河天皇側の勝利に終わります。

 

その3年後、勝った後白河上皇保元の乱後、後白河天皇は退位して上皇となりました)の側近たちの内輪もめが原因でおきたのが平治の乱です。

 

今回は保元の乱の内容や乱の登場人物、平治の乱との違い、乱の原因や結果などについてわかりやすく解説します。

 

平安時代末期から鎌倉時代初期について関心がある方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp 

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

f:id:kiboriguma:20201207075608p:plain

 

保元の乱とは

f:id:kiboriguma:20201207081138p:plain

保元の乱を描いた保元合戦図屏風

引用:保元の乱 - Wikipedia

保元の乱とは1156年(保元元年)に京都でおきた政変のことです。

 

それまで、「治天の君」(朝廷の最高指導者)として日本の頂点に君臨してきた鳥羽上皇が亡くなると、次の治天の君の座をめぐって崇徳上皇後白河天皇が争います。

 

治天の君について知りたい方はこちら

引用:治天の君 - Wikipedia

 

同じころ、摂関家では藤原忠通藤原頼長の兄弟が争っていました。

 

皇室の争いと藤原氏の争いに源氏や平氏といった武士たちが絡むことで、二つの勢力が武力衝突します。

 

戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に流されます。

 

保元の乱平治の乱の違いとは?

保元の乱は皇室と藤原家の内紛でした。一方、平治の乱保元の乱で勝利した後白河上皇の側近(院近臣)たちの争いです。

 

平治の乱後白河上皇の側近ナンバー1を決める争いだったといってよいでしょう。

 

平治の乱に勝利した平清盛はライバルの源氏を排除し、後白河上皇院政を補佐します。

 

そして、武士でありながら貴族の最高官職である太政大臣にのぼりつめました。

 

平治の乱平清盛が権力を握るスタートといってもよい戦いだったのです。

 

保元の乱の登場人物

天皇家

崇徳上皇

f:id:kiboriguma:20201207081346p:plain

後白河天皇を打倒するため挙兵した崇徳上皇

引用:崇徳天皇 - Wikipedia

崇徳上皇は1123年から1141年まで天皇として在位しました。

 

この間、父の鳥羽上皇が「治天の君」として政治のトップに君臨していたため、彼は天皇でありながら実権はありませんでした。


1141年、崇徳天皇近衛天皇に譲位し、崇徳上皇となります。といっても、鳥羽上皇が健在のため、上皇になってからも実権はありません。

 

1155年に近衛天皇が死去した際、鳥羽上皇崇徳上皇の子ではなく、自分の子を後白河天皇としてたてました。

 

政権から排除され、鳥羽法皇との関係が良くない状態で1156年に鳥羽上皇が死去します。

 

鳥羽上皇の死後、崇徳上皇藤原頼長とともに挙兵するといううわさが流れます

 

後白河天皇側が武士を呼び寄せ、追い詰められた崇徳上皇は挙兵せざるを得なくなります。

 

保元の乱で敗北したのち、崇徳上皇は讃岐に流されました。その後、彼は都に帰りたいと切実に願いますが果たされず讃岐で亡くなります。

 

後白河上皇のあまりの仕打ちに、崇徳上皇は怨霊となったという伝説が生まれました。 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

後白河天皇

f:id:kiboriguma:20201207082605p:plain

のちに源頼朝から「日本一乃大天狗」と評された後白河天皇上皇

引用:後白河天皇 - Wikipedia

後白河天皇崇徳上皇近衛天皇と同じく鳥羽法皇の子です。

 

崇徳上皇近衛天皇に比べ皇位継承の可能性は低いとみられ、「今様」に明け暮れる生活を送っていました。

 

それが高じて梁塵秘抄という今様の歌曲集まで編集してしまいます。

 

そんな趣味人だった彼の転機は異母弟である近衛天皇の死でした。

 

父である鳥羽上皇崇徳上皇の子ではなく、彼を次の天皇に指名します。

こうして後白河天皇は即位しましたが、当然、兄である崇徳上皇との溝は深まります

 

崇徳上皇と藤原家トップの藤原頼長が挙兵するとのうわさを聞いた後白河天皇とその側近たちは、素早く平清盛源義朝らの武士を動員し崇徳上皇側の先手を打ちます

 

保元の乱に勝利した後白河天皇二条天皇に譲位し、院政を始めました。

その後、34年にわたって治天の君として君臨します。

摂関家

藤原頼長

f:id:kiboriguma:20201207100141p:plain

悪左府」とあだ名された藤原頼長

引用:藤原頼長 - Wikipedia

藤原頼長は1130年に11歳で宮中に出仕すると、1131年には従三位、1134年に権大納言、1136年に内大臣になりました。

 

そして、1149年には左大臣に登ります。

いかに摂関家の人間とはいえ、頼長は異例の昇進を遂げました。

その背景には父のひきたてや本人の才能があります。

 

幼いころから博学多才で知られた頼長左大臣となり朝廷のトップとなると、学術の再興や弛み切った朝廷の政治の引き締めをおこないます。

 

また、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人の捕縛騒動や仁和寺興福寺の僧侶を捕らえようとしたことなどで寺社勢力と対立します。

 

現状よりも理想を重視し妥協を知らない厳しい姿勢は人々の反発を呼びます。

 

そのため、悪左府」とあだ名され、次第に鳥羽法皇の信任を失いました

 

鳥羽上皇から遠ざけられた頼長は近衛天皇死後の次の天皇決定にかかわることができません。

 

政権から追われつつあった頼長は一発逆転を狙わざるを得ない立場となっていたのです。

 

藤原忠通

f:id:kiboriguma:20201207100359p:plain

父や弟と対立した藤原忠通

引用:藤原忠通 - Wikipedia

藤原忠通藤原忠実の長男です。父が白河上皇と対立して失脚したのち関白に任ぜられました。

 

白河上皇がなくなり鳥羽上皇治天の君となると、父の忠実が復権します。

 

忠実は忠通よりも弟の頼長を偏愛したため、父子関係は悪化し、藤原氏のトップの座である「一の長者」の地位を忠通からとりあげ弟の頼長に与えてしまいました

 

また、忠通は長い間男子に恵まれなかったため、弟の頼長を養子に迎えます。

 

しかし、実子が生まれると頼長との養子縁組を破棄してしまいました。

 

こうして、忠通と忠実・頼長の関係は修復不可能な対立関係となったのです。 

 

源氏 

源為義

f:id:kiboriguma:20201207103028p:plain

検非違使以上に出世できなかった源為義

引用:源為義 - Wikipedia

源為義白河上皇の引き立てにより京中の警備を担当する検非違使に任じられました。

 

同じころ検非違使だった平忠盛は昇進し国司になったのに対し、源為義検非違使のまま据え置かれます。

 

かねてから本人や郎党たちが粗暴な振る舞いをしていたのが出世できない理由でした。

 

鳥羽上皇の信任がない為義は摂関家に近づきます。1154年に子の一人である為朝の乱暴の責任をとって為義は官職を解かれ、家督源義朝に譲ります。

 

さらに、朝廷でおきていた藤原忠実・頼長への圧迫に巻き込まれ鳥羽上皇の怒りを被ってしまいました。

 

追い詰めらえた為義は事態打開のため忠実・頼長に味方します

 

源義朝

f:id:kiboriguma:20201207103144p:plain

平治の乱に敗れ、敗走する源義朝

引用:源義朝 - Wikipedia

為義の子の源義朝は関東で少年時代を過ごします。

彼は鎌倉周辺を本拠地とし、20代前半には現在の神奈川県にあたる相模国に強い基盤を築きました

 

東国の勢力基盤を子の義平に任せた義朝は京都に戻ります。

 

帰京した義朝は鳥羽上皇藤原忠通と結びつき、出世の糸口を探ります。

 

そして、1153年に従五位下となり下野守と右馬頭を兼任しました。

これは、父為義の地位を大きくしのぐものです。

 

保元の乱とき、父や他の一族と袂を分かち後白河天皇側につき勝利します。

 

しかし、3年後の平治の乱では平清盛に敗れてしまいました。この義朝の子が、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝です。

 

平氏

平忠正

平忠正平正盛の子で、清盛から見れば叔父にあたります。

はじめ、父の正盛とともに朝廷の武士として仕えていました。

 

しかし、鳥羽上皇の怒りをかって官職を辞任します。

その後は摂関家の家人として活動していました。

 

鳥羽上皇の信任が厚かった兄弟の平忠盛やその子の平清盛とは不和だったともいわれます。

 

保元の乱の時は頼長にしたがって崇徳上皇方として参戦します。

乱後、平清盛の手によって斬首されました。

 

平清盛

平清盛院政と深く結びついて勢力を拡大した伊勢平氏の棟梁です。

 

伊勢平氏は父の忠盛の代から院政と近い関係を持ち、鳥羽上皇から絶大な信任を受けた一族でした。

父忠盛から引き継いだ瀬戸内海交易は清盛に莫大な富をもたらします

保元の乱では源義朝とともに後白河天皇側の主力として活動しました。

 

3年後におきた平治の乱では対立していた院の近臣や源義朝の排除に成功し、後白河上皇の側近筆頭となりました。

 

その後、武士出身としては異例の昇進を遂げ最高官位である太政大臣に上り詰めます。

 

登場人物についてより深く知りたい方は、大河ドラマ平清盛』がオススメ!保元の乱平治の乱についてもわかりやすく描かれています。 

保元の乱の原因は天皇家摂関家のあとつぎ争い

f:id:kiboriguma:20201207161635p:plain

保元の乱の原因は天皇家摂関家の跡継ぎ争いです。

 

白河上皇院政を始めてから、政治の最終決定権を持つ人物を「治天の君」とよびます。

治天の君の地位は白河上皇から鳥羽上皇へと受け継がれました。

 

鳥羽上皇の死後、上皇と関係が悪化していた崇徳上皇治天の君の座をめぐって後白河天皇と対決します。 

その崇徳上皇と結びついたのが鳥羽上皇やその側近と対立し、事実上失脚していた藤原頼長でした。

 

源氏や平氏は朝廷・貴族に仕える立場で、それぞれの主のために戦います。その意味では、保元の乱は貴族たちの戦いと言えるでしょう。

 

保元の乱後白河天皇の勝利で決着

f:id:kiboriguma:20201207202934p:plain

保元の乱について書かれた『保元物語

引用:保元物語 - Wikipedia

鳥羽上皇の死後、都で「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞が流れます。

 

上皇とは崇徳上皇のこと、左府とは左大臣藤原頼長のことです。

彼らが共謀して国を傾ける、つまりクーデタを起こすといううわさが流れたのです。

これにもとづき、後白河天皇側が兵を集めたため、拘束されると恐れた崇徳上皇は京都郊外の白河に逃れます。

 

まもなく、藤原頼長も白河で崇徳上皇と合流しました。

そして、彼らは兵を集めます。このとき、源為義平忠正らも崇徳側に加わりました。

 

後手に回った崇徳上皇側では、源為義が後白河側への夜襲を提案します。

しかし、頼長は興福寺の援軍を待つとしてこの提案を退けました。 

そうこうしているうちに、今度は源義朝平清盛が崇徳側への先制攻撃を主張し、これが採用されます。

 

1156年7月11日未明、後白河方の源義朝平清盛が白河の崇徳上皇方を攻撃し戦いの幕が上がりました。

戦いは一進一退でした。

崇徳上皇方で最も奮戦したのは源為義です。

彼は得意の強弓で次々と後白河側の武士を討ち取ります。

 

しかし、最終的に崇徳上皇方の防衛ラインは突破され保元の乱後白河天皇勝利に終わりました。

 

保元の乱の結果

f:id:kiboriguma:20201207203031p:plain

讃岐に流され、怨霊と化した崇徳上皇

戦いは後白河天皇の勝利に終わりました。

崇徳上皇後白河天皇側に投降したのち、讃岐に島流しにされます。

天皇経験者の配流は奈良時代淳仁天皇以来、400年ぶりの出来事でした。

 

藤原頼長は戦いで首に矢を受ける重傷を負います。奈良に逃れていた父の忠実に面会しようとしましたが、乱に無関係な立場を取りたかった父は頼長との面会を拒否します。

それから間もなく、頼長は死去しました。これにより摂関家家督は忠通で確定します。

 

後白河天皇側の主力として活動した源義朝平清盛は恩賞として官位の昇進を果たします。 

しかし、二人の待遇は徐々に差がつき、やがて両者の確執は平治の乱の原因の一つとなりました。

 また、源為義平忠正らは朝廷の命により反逆者として処刑されます。

 

この時処刑された数が多かったのは源氏でした。

平氏に比べると相対的に源氏の勢力が弱体化したといえるでしょう。

まとめ 

今回は保元の乱についてまとめました。

保元の乱崇徳上皇後白河天皇による日本の支配権をめぐる争いでした。

 これに、藤原摂関家家督争いが加わることで争いの規模が大きくなります。

 

双方とも源氏や平氏といった武士たちを動員し、京都周辺で激しく戦いました。

 戦いは後白河天皇の勝利でおわります。

敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は敗死しました。

 

3年後、この時の勝者である後白河上皇の近臣同士が争う平治の乱がおきました。

これに勝利した平清盛は出世街道を駆け上がり、太政大臣に上りつめます。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

プライバシーポリシー お問い合わせ