元予備校講師の受験対策ブログ

元予備校講師の木彫りグマが、受験対策(主に古文・漢文・地歴公民・面接・小論文)について書くブログ

 本サイトはプロモーションが含まれています

「比企能員はどんな人?」「比企能員が殺された比企能員の乱とは?」わかりやすく解説します!

比企能員という人物をご存知ですか?

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する13人の一人です。

正直な話、一般的な知名度は高くありませんが、個性派俳優の佐藤二朗さんが演じることで話題となりました。

今回は比企能員の人物像やプロフィール、彼が滅ぼされた比企能員の乱、彼の墓がある妙本寺、比企氏と結びつきが深い埼玉県東松山市などについて紹介します。

鎌倉時代全体の歴史を知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

妙本寺方丈門

妙本寺 鎌倉 - No: 23337475|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

比企能員はどんな人

比企能員の基本データ

 

プロフィール

比企能員平安時代の末から鎌倉初期に活躍した有力御家人です。

比企能員のおばにあたる比企尼(ひきのあま)が源頼朝の乳母であった関係で権勢を強めました。

能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)が2代将軍源頼家の側室となり、一幡(いちまん)を生んだことから、比企氏の力がさらに強まります。

比企史の勢力拡大を恐れた北条時政比企能員を自邸におびき寄せて謀殺し、比企一族を滅ぼしました。(比企能員の変・比企の変)

比企能員の末子である比企能本(ひきよしもと)は日蓮の弟子となり、鎌倉に妙本寺を建立して比企氏の菩提を弔いました。

比企氏・将軍家・北条氏系図

比企氏・将軍家・北条氏の系図

将軍家と北条氏との関係について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

将軍家と親密な比企氏

比企氏は将軍家と親密な間柄の御家人です。

比企能員のおばで、義理の母にあたる比企尼源頼朝の乳母でした。

鎌倉殿の13人では草笛光子さんが演じています。

彼女は平治の乱で敗れ伊豆に流された源頼朝に、夫である比企掃部允とともに20年間も仕送りを続けて援助しました。

頼朝からすれば命の恩人ともいえる女性です。

この関係から考えれば、比企氏が頼朝や将軍家と親しい間柄であるのは当然のことといえるでしょう。

島津忠久

ちなみに、比企尼の長女である丹後内侍惟宗広言との間に設けた子が島津忠久です。

島津忠久は薩摩島津氏の祖とされるので、比企尼は源氏だけではなく島津氏にとっても特別な女性といえるでしょう。

比企家の棟梁となった比企能員は、自分の娘である若狭局源頼家に嫁がせます。

若狭局と頼家の間には一幡という男子が生まれたため、能員は御家人の中でも頭一つ抜けた存在となります。

こうして、比企能員源頼家の政治的後見人としての立場を強めていきました。

”鎌倉殿の13人”の一人

源頼家

1199年(建久10年)、源頼朝が急死しました。

頼朝の急死を受け、朝廷は嫡男の頼家を左近衛中将(左中将)任命し、諸国守護の宣旨を下しました。

これにより、頼家は2代目鎌倉殿となります。

ところが、頼家が鎌倉殿になってわずか3か月後、頼家の独裁が停止されてしまいました。

幕府の歴史書吾妻鏡』は、頼家が頼朝と異なり慣例を無視した裁断を下したことが独裁停止の原因としています。

かわって、北条時政をはじめとする13人による合議制で裁断が下されることになりました。

後世、「十三人の合議制」とよばれるものです。

13人に名を連ねたのは以下の御家人たちでした。

彼らのうち、大江広元中原親能二階堂行政三善康信は京都から下ってきた文官たちで、御家人北条時政以下の9人です。

 

一方、頼家は側近である小笠原長経比企宗員比企時員中野能成ら以外に自分への目通りを許さないとする措置を取ります。

 

こうして、頼家や側近たちと御家人たち、特に北条氏との対立が激しさを増していきました。

北条氏に滅ぼされる

13人の合議制はスタート直後から波乱含みでした。

梶原景時

梶原景時 - Wikipedia

1199年(正治元年)11月、源頼朝の側近として辣腕を振るった梶原景時が排斥されました。

景時とともに頼家の後見人という立場にあった比企能員は北条氏との対立に巻き込まれていきます。

頼家と北条時政らの対立が強まる中、1203年(建仁3年)に頼家が病にかかります。

頼家が危篤状態になったと判断され、家督は嫡男の一幡と弟の千幡(のちの源実朝)に分割されました。

これに強い不満を持ったのが比企能員です。

能員は千幡一派の排斥をはかりましたが、先手を打たれ、北条時政に謀殺されてしまいました。

比企能員の変とは

比企氏が滅ぼされた比企能員の乱とはどのようなものだったのでしょうか。

原因となった源頼家の重病と比企氏・北条氏の対立、乱の結果などについてまとめます。

源頼家が重病となる

事の発端は源頼家が若くして重い病にかかったことです。

頼家の病状は悪く、後継者を決める必要性ができました。

そこで、頼家の息子である一幡が関東28ヶ国地頭職と日本国総守護職を、頼家の弟である千幡が関西38ヶ国地頭職を相続すると決まりました。

比企氏と北条氏の対立

比企氏・将軍家・北条氏の系図

分割相続に不満を持ったのが頼家の後見人である比企能員です。

能員は病にかかっている頼家のもとを訪れ、分割相続は千幡(源実朝)の擁立を図る北条時政の陰謀であると訴えました。

かねてから、北条氏と対立していた頼家は比企能員に北条氏討伐を命じます。

比企能員の謀殺と一族滅亡

頼家が北条時政追討を比企能員に命じた話は、すぐに北条時政の耳に入りました。

そこで、北条側が先手を打ちます。

時政は仏事の相談があるとして比企能員を自分の屋敷に呼び出しました。

比企能員の一族は、北条氏の謀略であるとして能員を引き留めましたが、能員は構わず時政の屋敷に赴きます。

このとき、能員は時政に余計な疑念を抱かせないため平服で時政の屋敷に向かいました。

しかし、時政は有無を言わせず部下に能員を捕えさせ、殺害してしまいました。

能員の死を知った比企一族は一幡とともに小御書に立てこもって抵抗の姿勢を見せます。

北条政子

北条政子 - Wikipedia

そのため、北条政子は比企一族討伐に命令を下し、一幡もろとも比企一族を攻め滅ぼしました。

この戦いで一幡や母の若狭局が亡くなりました。

戦後、将軍家の外戚は北条氏のみとなり、北条氏の権勢が一気に強まります。

比企氏の墓がある妙本寺

妙本寺 祖師堂

妙本寺 - Wikipedia

比企能員の変で比企一族の大半が殺害され、御家人としての比企氏は滅亡しました。

しかし、能員の末子である比企能本は生き残りました。

能本は鎌倉時代を代表する名僧の一人日蓮の弟子となりました。

その後、姪である竹御前が4代将軍藤原頼経正室になった関係で能本は鎌倉に戻ります。

竹御前が亡くなると、比企一族が屋敷を構えていた比企ヶ谷に法華堂を建て彼女の菩提を弔いました。

法華堂は後に妙本寺となり、日蓮宗の重要拠点となります。

比企氏ゆかりの地である埼玉県東松山市

埼玉県のほぼ中央部にあたる比企郡平安時代後期から比企氏が支配していた土地でした。

比企郡のほぼ中央に位置していた東松山市は比企氏ゆかりの土地として6つの地点を紹介しています。

  • 比丘尼
  • 須加谷(すかやつ)
  • 串引沼
  • 城が谷
  • 梅が谷
  • 扇谷山宗悟寺

比企氏の城館があったとされる城が谷をのぞく5カ所は比企能員の娘で頼家の妻だった若狭局に関する伝承が残された地です。

まとめ

比企能員は「鎌倉殿の13人」に登場する有力御家人で、ドラマでは佐藤二朗さんが演じています。

将軍家の外戚として力を持った比企氏は、同じく外戚の北条氏と争いとなり比企能員の乱で滅ぼされます。

しかし、比企氏の生き残りが妙本寺を建てたことで比企氏の足跡が残されました。

比企氏が支配していた比企郡にある東松山市では比企氏ゆかりの女性を「比企三姫」としてキャラクター化しています。

その意味で、比企氏は現代によみがえったといってよいでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

お取り寄せで食べたい!小豆を使わない五勝手屋羊羹の3つの魅力とは!

北海道の観光地である函館市からおよそ70キロメートルのところにある江差町は江戸時代にニシン漁で栄えた町です。

この町で江戸時代から和菓子を作っていたのが五勝手屋本舗です。

現在も、江差町の本店は健在で函館市内・空港の土産物店やスーパー、札幌の土産物店などで製品が売られています。

今回は五勝手屋本舗の看板商品である五勝手屋羊羹の3つの魅力や独特な食べ方、ドライいちじくと組み合わせた新商品などについて紹介します。

函館近郊で買えるついて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

五勝手屋本舗とは

五勝手屋本舗の創業者である多助は、江戸時代後期にお菓子を作り始めたとされます。

檜山地方の特産品だったヒノキアスナロの木の伐採をしていた南部藩岩手県)が江差町の五花手地区で豆の栽培に成功しました。

屋号の五勝手屋は五花手地区の名に由来します。

多助や彼の先祖たちは豆を材料としたお菓子を作ったそうです。

お菓子の材料には北前船で運ばれた貴重な砂糖や寒天も使われました。

江戸時代に北海道を治めていた松前藩について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

このころ、江差の町はニシン漁によって繁栄を極めていました。

ニシン漁について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

五勝手屋本舗の正確な創業年は不明ですが、看板商品の五勝手屋羊羹が販売された1870年(明治3年)を創業年としています。

その後、明治・大正・昭和・平成・令和と時代が引き継がれ、現在は6代目が五勝手屋本舗を引き継いでいます。

 

五勝手屋羊羹の3つの魅力

五勝手屋羊羹はレトロな見た目と独特の味わいで人気がある商品です。


レトロでかわいいパッケージ

1つ目の魅力はレトロでかわいいパッケージです。

中でも、一番知名度が高い「丸缶羊羹」は赤を基調としたデザインで、非常に目立ちます。

一度見たら忘れられないインパクトがあります。

金時豆のやさしい甘さ

2つ目の魅力は金時豆を使ったやさしい甘さです。

羊羹というと小豆を使ったものが一般的ですが、五勝手屋羊羹は金時豆を使った珍しい羊羹です。

金時豆

大正金時豆 - No: 23451028|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

金時豆いんげん豆の一種で北海道で栽培されるいんげん豆の7割を占めます。

金時豆について知りたい方はこちらのサイトをご覧ください。

金時豆 | 公益財団法人 日本豆類協会

北海道でよく見かける「豆パン」は金時豆の甘納豆が入ったもので、北海道でよく出される赤飯は金時豆などの甘納豆が入っています。

道民にとって金時豆は非常に身近なものであり、それを使った五勝手屋羊羹は地域に根付いた菓子といえます。

金時豆を使った五勝手屋羊羹は癖がなくさっぱりとした仕上がりです。こちらは北海道東部にある中標津町で作られている標津羊羹です。

五勝手屋羊羹と同じく金時豆の羊羹でやさしい味が特徴です。

女子カーリング北京五輪2022で、プレイヤーたちが食べていた「もぐもぐタイムのようかん」として取り上げられました。

羊羹の「あたま」を集めた”通好み”が絶品

五勝手屋羊羹の先端部分は砂糖がまぶされ、とても甘く、独特な食感があります。

この部分がとてもおいしいのですが、先端部分は一本につき一つだけです。

「ここだけ食べたい!」と子どものころ思ったものですが、なんと、五勝手屋本舗の公式サイトを見ると、この部分だけを扱った商品があるのです。

それが「通好み」

丸缶羊羹の”あたま”だけを集めた商品で、砂糖のシャリシャリ感が楽しめる逸品です。

五勝手屋本舗のオンラインストアでお求めください。

gokatteya.co.jp

新商品も次々と登場!

今回は五勝手屋の丸缶羊羹を中心に紹介してきました。

五勝手屋にはこれ以外にも様々な商品があります。

その中で注目しているのがドライいちじくと羊羹を組み合わせた商品です。

「回/Re-Fruit」と名付けられた商品は、ドライいちじくの中に五勝手屋羊羹を詰めたものです。

五勝手屋羊羹の上品な甘さといちじくの酸味、果実の持つ強い甘みが絶妙にマッチします。

フルーツ好きで羊羹好きなら、是非食べてほしいと思いました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「地政学における「緩衝地帯」の意味とは」わかりやすく解説します!

地政学に出てくる用語の一つに緩衝国、あるいは緩衝地帯という言葉があります。

緩衝国・緩衝地帯とは対立する勢力の間にある国や地域で、両勢力の直接衝突の可能性を減らす地域のことです。

今回は、緩衝地帯の意味や地政学用語のリムランド、現代のランドパワー・シーパワーの大国、緩衝地帯の具体例、ロシアから見たウクライナ地政学的位置などについてまとめます。

地政学や地理学について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

 

緩衝地帯とは

マッキンダー

地政学 - Wikipedia

地政学で緩衝地帯とは、大国や大勢力に挟まれる場所に位置する諸国や地域のことを指し示します。

たとえば、冷戦時代にアメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の緩衝地帯となった場所は東欧や東南アジアでした。

19世紀後半から20世紀前半に活躍したイギリスのマッキンダーは、大英帝国の覇権を守るためには、ドイツやソ連の勢力拡大を阻止するため、緩衝地帯を作るべきだと主張します。

 

ランドバワーとシーパワーがぶつかるリムランド

地政学を理解するには、ランドパワーやシーパワーの理解が欠かせません。

ランドパワーとシーパワーについて知りたい方は、こちらの記事を先にお読みください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

リムランドの定義

f:id:kiboriguma:20220405211436j:plain

リムランドの概念図

地政学 - Wikipedia

海軍力の及ばないハートランドの周辺地域をリムランドといいます。

リムランドの考え方を提唱したのはアメリカのスパイクマンです。

彼は、ヨーロッパから中東、インド、中国、ロシアの太平洋沿岸までの地域をリムランドとよびました。

リムランドは農耕に向いた気候で、人口が多く、中小国家が乱立しやすい地域と定義しました。

ランドパワーの大国であるロシアの力を抑え込むには、アメリカがリムランドの国々に影響力を及ぼす必要があると主張したのです。

ランドパワーの大国であるロシアの圧力を受けた具体例の一つがフィンランドでした。

フィンランドについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

これまで、ヨーロッパ諸国への干渉に消極的だったアメリカは、第二次世界大戦後、西側諸国の盟主としてリムランドの国々に働きかけ、ソ連の封じ込めを図ります。

その意味で、冷戦の構造はランドパワーソ連とシーパワーのアメリカがリムランドをめぐっての対立ととらえることもできます。

ランドバワーの国

ランドパワーの国はユーラシア大陸の内陸部にある国です。

ロシア 中国 フランス ドイツ

これらの国は大規模な陸軍を持ち、鉄道や道路を使って部隊を移動させます。

ランドパワーの国々は近隣諸国に領域を広げるため、しばしば戦争してきました。

7年戦争や普仏戦争第二次世界大戦独ソ戦清王朝による新疆征服などはランドパワー国家による周辺への浸透といえます。

上記の地図で中国はリムランドに属していますが、中国が強い経済力と軍事力を持っていることを考えるとリムランドというよりランドパワーの国と考える方が現代に即していると考えます。

シーパワーの国

シーパワーの国は国の周囲を海洋に取り囲まれている国です。

アメリカ イギリス 

周囲を海に囲まれていたり、長大な海岸線を有するシーパワーの国は海軍が重要です。港湾施設をもち、領土的支配よりも交易ルートや交易拠点の支配を重視します。

その意味では大航海時代ポルトガルもシーパワーの国といってもよいでしょう。

交易ルートを守るための戦いは辞しませんが、戦争による領土獲得を最優先とするわけではありません。

シーパワーの国にとって大切なのは海の交通路(シーレーン)のコントロールだからです。

 

緩衝地帯の具体例

18世紀のポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国の領域
出典:ポーランド・リトアニア共和国 - Wikipedia(某氏の作成画像)

ポーランド・リトアニア共和国は現在のポーランドリトアニアベラルーシウクライナなどで構成された国でした。

東にロシア帝国、南にオーストリアハンガリー二重帝国、東にプロイセン王国(後にドイツ帝国)と列強に挟まれていました。

国内有力貴族の権力が強く、国王の力はかなり制限されていたため中央集権が進まず、気がつけば周辺の峡谷に挟まれる不安定な緩衝地帯となっていました。

そして、18世紀後半にロシア、オーストリアプロイセンによって3分割され国として消滅してしまいます。

緩衝地帯は周辺諸国の都合によっていとも簡単に消滅させられてしまうという好例といえるでしょう。

19世紀のタイ

19世紀のタイ周辺の状況

タイの歴史 - Wikipedia

18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスやフランスは積極的に東南アジアに進出し、植民地化していきました。

フランスは現在のベトナムラオスカンボジアを支配し仏領インドシナを成立させます。

一方イギリスはミャンマーやマレーシアなどを制圧し植民地化しました。

両勢力のはざまで取り残されたのがチャクリ朝(ラタナコーシン朝)のタイ王国です。

タイはイギリス・フランスの圧力により領土を徐々に削られます。

しかし、両国はタイを奪い合うことで戦いになることを懸念し、タイを独立国のまま維持することとしました。

特に何かの条約が結ばれたわけではありませんが、暗黙の了解としてタイの独立が維持されます。

タイは両国の緩衝地帯として生き延びましたが、あくまでも結果的に生き残っただけです。

このことに危機感を持ったのがラーマ4世ラーマ5世でした。

ラーマ4世

ラーマ4世 - Wikipedia

19世紀中ごろの国王ラーマ4世はヨーロッパの文明を積極的に取り入れて国力を増強。

ラーマ5世

ラーマ5世 - Wikipedia

跡を継いだラーマ5世も近代化政策を実行しました。

そのおかげでタイは国力増強に成功し、東南アジアで唯一、独立を維持します。

ポーランドとの違いは、緩衝地帯になってから国力増強に成功したかどうかかもしれません。

アフガニスタン

アフガニスタン

アフガニスタン - Wikipedia

アフガニスタン中央アジアにある国で、シルクロードの要衝として栄えました。

そのため、文明の十字路と呼ばれることもあります。

中央アジアとインド、イラン方面を結ぶ重要地点だったため、しばしば大国に攻め込まれたという歴史があります。

19世紀後半、インドを植民地としていたイギリスと領土を南に拡大していたロシア帝国との間でアフガニスタンの取り合いがはじまりました(グレートゲーム)。

イギリスはロシアに取られる前に先手を打ってアフガニスタンを制圧し保護国化。

アフガニスタンをロシアとの衝突を避ける緩衝地帯としました。

しかし、1919年にアフガニスタンはイギリスから独立しました。

その後、アフガニスタンは米ソ冷戦の舞台の一つとなります。

ブレジネフ

レオニード・ブレジネフ - Wikipedia

1979年、ソ連ブレジネフアフガニスタン侵攻を開始しました。

その明確な理由は定かではありませんが、アメリカ勢力がアフガニスタンに伸びるのを嫌ったともいわれます。

ソ連が撤退した後、アフガニスタンの内戦が続きました。

紆余曲折を経て、2022年現在、アフガニスタンタリバン(ターリバーン)の支配下にあります。

まとめ

今回は緩衝地帯についてまとめました。

強大な力を持つ国が、相対的に力が弱い国を武力で制圧することは歴史上たびたび起きてきたことでした。

緩衝地帯とされた国や地域が独立を維持するためには政治・軍事・経済において他国に左右されない力を持つ必要があります。

その意味で、タイの前例は参考になりうるのではないでしょうか。

 

「フィンランドってどんな国?」「フィンランドの歴史について知りたい!」「フィンランドの地政学的な位置とは?」わかりやすく解説します!

フィンランドってどんな国?」

「ロシアに屈しなかったフィンランドの歴史が知りたい!」

フィンランド地政学的な位置とは?」

 

このページをご覧の皆様は、そのようなことをお考えかもしれません。

フィンランドはスカンディナビア半島の東部にあり、国土の3分の1は北極圏に属します。

また、国土面積の70%を森林が占め、フィンランドの各地には氷河の名残である湖が点在しています。そのため、「森と湖の国」の異名を持ちます。

一見、戦乱と無縁に思える北国フィンランドですが、独立を維持するために苦闘を繰り広げた歴史を持ちます。

今回は、フィンランド地政学的位置や歴史などについて紹介します。

◆この記事でわかること◆
フィンランドの基本的なデータ
フィンランド地政学的な位置
ソ連と戦った冬戦争と継続戦争の内容
フィンランド化とは何か

f:id:kiboriguma:20220325141336j:plain

ヘルシンキ・ヴァンター国際空港 (フィンランド) - No: 23232949|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

フィンランドの基本データ

f:id:kiboriguma:20220325163321p:plain

フィンランドの位置

f:id:kiboriguma:20220325164746p:plain

 

フィンランドについて、どんな国か知りたいならば、簡単な観光案内書を見るのも一つの方法です。

地球の歩き方シリーズは、誰でも簡単に読めるので非常におすすめです。

フィンランドについて知りたいと思ったら、ぜひ、手に取ってほしい一冊ですね。

 

フィンランド地政学的位置

f:id:kiboriguma:20220325170225p:plain

フィンランドは歴史的に2つの地域に挟まれてきました。

一つは、東のロシア、もう一つは西スウェーデンです。

2つの大国に挟まれた場所を、「緩衝国」といいます。

大国の間に存在し、大国同士が直接戦いとなるのを防ぐ役割を持つ国のことで、フィンランドウクライナは典型的な緩衝国といえます。

緩衝国は、対立する2つの勢力の綱引きの場となることが多く、政治・軍事・経済の面で絶えず緊張を強いられます。

また、ロシアは伝統的に周辺の中小国を緩衝国と考え、自国の影響力を強く及ぼそうとする傾向が強い国です。

2大勢力に挟まれたフィンランドは、最初はスウェーデンの、次いでロシアの支配を受けました。

地政学や地理学について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

フィンランドの歴史

f:id:kiboriguma:20220325170935j:plain

フィンランド国章

フィンランド - Wikipedia

独立以前

フィンランドは、アジア系のフィン人が建国した国です。

しかし、独立国家の形成前にはスウェーデンやロシアの支配を受けました。

スウェーデン時代(1155-1809)

f:id:kiboriguma:20220325171956j:plain

『カール12世の葬送』
大北方戦争で戦死したカール12世の葬列

大北方戦争 - Wikipedia

12世紀中ごろから終わりごろにかけて、スウェーデンデンマークなどがフィンランド周辺を征服しました。これを、北方十字軍といいます。

最初は、北欧諸国の中で最も強かったデンマークの影響を受けますが、やがて、力を増したスウェーデンフィンランドの地も支配します。

1700年、スウェーデンとロシアが戦った大北方戦争でスェーデン軍が大敗したため、ロシアの影響力が徐々に増しました。

そして、ナポレオン戦争中におきたスウェーデンとロシアの戦争でスウェーデンが再び大敗し、フィンランドロシア帝国支配下に入ります。

ロシア時代

f:id:kiboriguma:20220325172953j:plain

フィンランドの統治に苦労したロシア皇帝ニコライ2世

ニコライ2世 (ロシア皇帝) - Wikipedia

ナポレオン戦争後、ロシア皇帝アレクサンドル1世を大公とするフィンランド大公国が成立します。

19世紀後半のアレクサンドル2世の時代は、皇帝が開明的な政策を採用していたこともあり、比較的穏やかな統治でした。

1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると状況は一変しました。

ロシアの政治は反動的・保守的となり、フィンランドの支配も強権的なものとなりました。

そして、1899年にはフィンランド自治権がはく奪されフィンランド語が禁止、ロシアか政策が推進されます。

しかし、この政策は逆効果でありフィンランド人の民族意識を高める結果となり、1904年にフィンランド総督が暗殺されるに至ります。

皇帝ニコライ2世フィンランド自治権廃止を撤回し、憲法制定や普通選挙の容認など妥協します。

その後、第一次世界大戦が近づくにつれて再び強権的な政策に回帰し、ロシアとフィンランド人の対立が深まりました。

独立後

第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命が勃発。ロマノフ朝ロシア帝国は滅亡しました。

この混乱をついてフィンランドは独立を達成します。

しかし、その後はソビエト連邦ナチス=ドイツ国との関係で苦しい状況に追い込まれます。

フィンランド共和国の成立

f:id:kiboriguma:20220325173410j:plain

フィンランド独立の父ともいえるマンネルヘイム

カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム - Wikipedia

ロシア革命によりロシア本国が混乱する中、フィンランド政府はロシアで勢力を拡大していたボリシェヴィキとの交渉の末、ロシアからの独立を果たします。
しかし、独立に反対する国内の共産主義者赤軍が首都ヘルシンキなどを掌握し、政府と対立します。

このとき、政府軍(白衛軍)の指揮官として赤軍を撃破するのに活躍したのがマンネルヘイム将軍でした。

日露戦争に従軍した経験豊富な軍人であるマンネルヘイムは、劣勢だった白衛軍を立て直し、フィンランド内戦を勝利に導きました。

これにより、フィンランド共和国の基盤は確立されたといってよいでしょう。

冬戦争(1939.11.30-1940.3.13)

f:id:kiboriguma:20220325174227j:plain

冬戦争

冬戦争 - Wikipedia

1930年代後半、新しい秩序を作ろうと画策する二人の独裁者がいました。

1人は東のソビエト連邦の指導者スターリン、もう1人は南のナチス=ドイツを率いるヒトラーです。

ドイツとソ連は、西側諸国に対抗するため独ソ不可侵条約を締結します。

独ソ不可侵条約に付随する「秘密議定書」では、ドイツとソ連は、両国の間にある中小国について「領土と政治の再配置」と称して互いの勢力圏を設定しました。

 

ドイツ:ポーランド西部
ソ連ポーランド東部、バルト三国など

 

1939年9月、ドイツ軍はポーランドに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまります。

ソ連は秘密議定書にもとづいてポーランドに出兵しポーランドを東西で分割しました。

 

独ソ不可侵条約により、ドイツ軍の侵攻を考えなくてよくなったスターリンフィンランドに圧力をかけます。

1939年11月、ソ連フィンランド政府に第2の都市ヴィープリを含む領土割譲を要求しました。

もちろん、フィンランド政府はこれを拒否します。

すると、待ってましたとばかりにソ連軍がフィンランドに攻め込んできました。

通称”冬戦争”の始まりです。

両軍の戦力比は以下の通りです。

f:id:kiboriguma:20220325181309p:plain

見ての通り、ソ連軍の圧倒的優勢です。

兵力の優勢を活かしたいソ連軍は、フィンランド国境の全面に兵力を展開、フィンランド全土を一気に制圧しようとしました。

フィンランド軍はスオムッサルミの戦い、トルヴァヤルヴィの戦いでソ連軍を食い止め、各国の予想に反して善戦します。

 

また、戦いのさなかに勇敢に戦ったフィンランド人のエースも登場しました。

その代表が”白い死神”と恐れられたシモ・ヘイヘです。

f:id:kiboriguma:20220331082910j:plain

”白い死神”シモ・ヘイヘ

シモ・ヘイヘ - Wikipedia

シモ・ヘイヘは、狩猟と農業で生計を立てていた人物でしたが、1920年に白衛軍の兵士として独立戦争で参戦し戦闘経験を積みます。

 

冬戦争ではユーティライネン中尉の舞台に所属し、地元に近いコッラー河を守備していました。

ユーティライネン中尉は彼の性格や能力を考慮し、単独行動できる狙撃兵の任務を与えます。

遠視スコープを使わず、肉眼でソ連兵を狙撃し続け、確認できただけでもソ連兵542名を射殺する戦果を挙げました。

 

こうした粘り強い抵抗を受けたソ連軍は作戦を変更し、都市部の絨毯爆撃やカレリア地峡への戦力攻撃に重点を移します。

ソ連軍はカレリア地峡を突破し、首都ヘルシンキを攻撃する中央突破策をとりましたが、これも、カレリア地峡につくられた防御陣地マンネルヘイム線に阻まれてしまいます。

 

このように、フィンランド軍は局地戦ではソ連を圧倒していました。

しかし、戦争の長期化によりフィンランド軍は消耗していきます。

最終的にはモスクワ講和条約を結び、冬戦争は終わりを告げます。

 

モスクワ講和条約の結果、フィンランドはカレリア地方などをソ連に割譲します。

国力に勝るソ連軍がかろうじて勝利を得た形となりました。

継続戦争(1941.6.25-1944.9.19)

1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連領内に攻め込みました。

同年6月25日、ソ連フィンランド領に空爆を行ったことを理由としてフィンランドソ連に宣戦布告。ここに、継続戦争がはじまりました。

f:id:kiboriguma:20220325185047p:plain

冬戦争と比べると、両軍ともより大きな戦力が投入され、死者数も増大。戦いの激しさがわかります。

ドイツ軍のバルバロッサ作戦がうまくいっていた時、フィンランドは冬戦争後に奪われたヴィープリを奪還するなど、ソ連軍に対し優勢でした。

しかし、ドイツ軍が各地で敗退するとソ連は体勢を立て直し、フィンランド軍を北に追い返します。

逆に、本国に攻め込まれそうになったフィンランドはタリ・イハンタラの戦いでかろうじてソ連軍を食い止めました。

とはいえ、フィンランド軍の経戦能力は限界に達しつつありました。

そこで、大統領のリュティは辞任し、マンネルヘイムが大統領に就任しました。

マンネルヘイムは、フィンランドとドイツの協力関係はリュティの個人的なものとして、ドイツとの共闘関係を破棄し、ソ連と講和します。

1944年のモスクワ条約は、冬戦争当時よりも厳しい内容でした。

しかし、フィンランドは何とか独立国としての地位を守ります。

そのかわり、フィンランド国内に駐留していたドイツ軍との間でラップランド戦争を戦わざるを得なくなりました。

冷戦期のフィンランド

f:id:kiboriguma:20220325203210j:plain

リスト・リュティ

リスト・リュティ - Wikipedia

冷戦中、フィンランドは議会制民主主義と資本主義の体制を維持しましたが、フィンランドの主権はソ連の影響下に置かれ、反ソ連的な政治勢力やメディアは排除されました。

それでも、フィンランドの独立は維持され、ソ連寄りの中立といってもよい状態となります。このことは「フィンランド」と揶揄されました。

しかし、すべての面でソ連の言いなりだったわけではありません。

1956年10月25日、フィンランドの元大統領リュティが死去しました。

リュティは、ナチスに協力した戦争犯罪者として禁固10年の刑に処せられていましたが、体調を崩し、1年で釈放されていました。

フィンランド国民は、ソ連の猛烈な反対に屈せず、リュティの葬儀を国葬として執り行いました。

国民は、リュティが本当にナチスに協力していたのではなく、国を守るためにやむを得ず協力していたことを知っていたのです。

戦後、フィンランドアメリカ主導のマーシャルプランを受け入れず、自力で復興せざるを得ませんでした。

ソ連寄りの資本主義国として、ソ連の動向を常に伺いつつも、フィンランドは冷戦期を非同盟政策を貫くことで生き抜きます。

冷戦後のフィンランド

1991年12月、ソ連が崩壊するとソ連経済に依存していたフィンランドは経済的な混乱に見舞われます。

混乱から立ち直ったフィンランドは、経済を立て直すため、1995年に隣国スウェーデンとともにEUヨーロッパ連合)の前身であるEC(ヨーロッパ共同体)に加盟。

名実ともに、西側の国として歩みだします。

さらに、IT技術で経済力を伸ばすことにも成功しました。

しかし、ロシア連邦との関係を考慮してか、軍事同盟であるNATOには加盟していません。

一方、ロシアは2000年以降、プーチン政権下で国力を回復し、2008年にジョージアグルジア)、2022年にウクライナに侵攻するなど、軍事的脅威として存在し続けています。

マンネルヘイムの名言

冬戦争、継続戦争の英雄であるマンネルヘイムは次のような言葉を残しました。

「自らを守りえない小国を援助する国はない。あるとすれば何か野心があるはずだ。」
「大国に頼りきることは大国を敵にするのと同じくらい危険なことだ」

これは、紛争のたびに巻き込まれてきたヨーロッパの小国にとって、自明の理ともいえる考え方です。

ルネサンス期の思想家ニコロ・マキャベリの「武器を持たない預言者は必ず倒され、武器を持つ預言者は志をとげる」という言葉にも通じるように感じます。

まとめ

今回は、フィンランドの歴史についてまとめました。

軍事的超大国を隣に控え、緊張感が絶えない小国の苦悩の歴史が見て取れます。

ロシアの周辺諸国にとって、ロシアは常に軍事的な脅威であり、ウクライナ侵攻はフィンランドジョージアといった隣接国にとって、決して他人事ではありません。

戦争が繰り返されてきたヨーロッパにおいて、自分たちの政治体制や主権守るための戦いは尊重されるべきものでした。

その延長線上にあるのが「民族自決」の考え方です。

フィンランドは「民族自決」を守るため、難敵と戦ったといえるでしょう。

ただ、同時に戦争の引き際についてもウクライナ指導部は真剣に考えていると思われます。

マンネルヘイムは冬戦争を終わらせるとき、戦闘能力が残っているうちに和平交渉をしなければ、完全な屈服が残されるのみだとして不利な条件での講和でも賛成しています。

アメリカと中国という21世紀の大国に挟まれた日本にとって、ウクライナ危機やフィンランドの立場は他人ごとではないように感じます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「光源氏の誕生の登場人物とは?」「光源氏の誕生のあらすじが知りたい」わかりやすく解説!

光源氏の誕生の登場人物について知りたい!」

「敬意の方向について知りたい!」

光源氏の誕生の内容・あらすじを、わかりやすく教えてほしい!」

 

このページをご覧の方は、そのように思っているのかもしれません。「光源氏の誕生」は、紫式部作の『源氏物語』第一話「桐壺」に書かれている光源氏誕生の物語で、12歳くらいまでの時期を扱います。

今回は、『源氏物語』や作者の紫式部源氏物語に登場する人物、天王に仕える女性たちの称号や住まい、敬意の方向などについてまとめます。

◆この記事でわかること◆
・『源氏物語』のだいたいの構成
・「光源氏の誕生」の登場人物と人間関係
・宮中の后妃の称号や后妃が住んだ建物(七殿五舎)
・「光源氏の誕生」の敬意の方向
・「光源氏の誕生」の大まかな意味

 

源氏物語』とは?

f:id:kiboriguma:20220406100549j:plain

平安女性のイメージ

十二単の女(ひと)5 - No: 1583701|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

源氏物語』は、11世紀はじめに紫式部が著した長編小説で、正しくは「源氏の物語」といいます。全部で54帖にわたる物語は3つに分けられます。

  • 第一部:光源氏の誕生から、光源氏が位人臣を極めるまで
  • 第二部:光源氏の後半生
  • 第三部:匂宮に関連する3帖と宇治十帖

物語りの分け方は諸説ありますが、第一部と第二部は光源氏、第三部は光源氏の子とされるが主人公です。

光源氏のモデルには、有力な皇族系貴族だった源融(みなもとのとおる)や源高明(みなもとのたかあきら)、そして紫式部をスカウトした藤原道長などがあげられます。

作者の紫式部について

f:id:kiboriguma:20220406100720j:plain

紫式部の像

宇治 紫式部像 - No: 37458|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

紫式部平安時代の中期に活躍した人物で、作家や歌人として宮廷につかえる女房(女官)でした。

藤原道長の娘である彰子が、一条天皇の后になる際に、彼女のお付きの女房として採用され宮中に入りました。源氏物語』の作者として有名ですが、和歌の名手でもあり、『小倉百人一首』に彼女の歌が収録されています。

和歌について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

紫式部日記』は、彼女と同時代に宮中に仕えた著名な女官についての人物評がみられますが、『枕草子』の著者である清少納言に対しては、以下のように評しています。

清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」

「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」

清少納言はわかったような顔をして寛文を書き散らかしているが、よく見れば間違いが多い」「こんな人の行く末に良いことがあろうか、いや、ない」とかなり厳しい評価をしています。

清少納言について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

他の女官、例えば和泉式部赤染衛門などについては、プラスに評価した記述がみられることを考えると、清少納言とは相性が悪かったのかもしれません。

 

光源氏の誕生」(桐壺)の登場人物

光源氏(世に清らなる玉の男皇子)

源氏物語』の主人公で、桐壺帝と桐壺更衣の間に生まれた子です。

桐壺帝には高位の后である弘徽殿女御との間に生まれた第一皇子(のちの朱雀帝)が生まれていたので、光源氏は第二皇子です。

幼いころから輝くばかりの美貌と才能に恵まれましたが、母の身分が低いため次の帝に離れず、臣籍降下しました。

その後、近衛中将から大将、大納言、内大臣などを経て太政大臣や准太上天皇になるなど位人臣を極めます。

光源氏が登場するのは第一話の「桐壺」から第四十話の「幻」までです。

光源氏が誕生した「桐壺」では、”世に清らなる玉の男皇子”、”珍らかなる、児(ちご)の御かたちなり”、”疑ひなき儲の君”などと絶賛されています。

このような素晴らしい子どもだったので、桐壺帝は”この君(光源氏)をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふ事限りなし”といった具合で溺愛します。

帝(桐壺帝)

光源氏の父で、桐壺更衣を寵愛した人物。

理想的な帝王として描かれ、延喜の治を行った醍醐天皇がモデルではないかと言われます。

桐壺帝には、弘徽殿女御をはじめとする位の高い后が仕えていましたが、桐壺更衣ばかりを寵愛したので、後宮の人間関係のバランスが崩れてしまいます。

桐壺更衣の死後、桐壺更衣によく似た藤壺(のちの藤壺中宮)を寵愛します。

更衣(桐壺更衣)

光源氏の母で、桐壺帝に仕えた后の一人。

女御よりも格下の后で、父である按察大納言がすでに死去していたため、後宮に後ろ盾がいない状態でした。

桐壺帝の寵愛を受けるようになると他の后たちの嫉妬を一身に受け、他の后の父などから楊貴妃に例えられ、国を乱す元だという批判も浴びてしまいます。

光源氏が3歳の時、ストレスのためか病となり亡くなってしまいました。

一の皇子の女御(弘徽殿女御)

右大臣の娘で、第一皇子と二人の皇女の母。

後宮で最も力を持っていた女性ですが、桐壺帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、彼女や彼女の子である光源氏を激しく憎みます。

第一皇子が朱雀帝として皇位につくと、弘徽殿大后と呼ばれるようになり、国政にも強い影響力を及ぼしました。

のちに光源氏を須磨に追放しますが、権勢が衰えると光源氏の復帰を防げなくなります。

天皇の后妃たちの称号

天皇の后妃(妻)たちは、大きく分けて4つの称号で呼ばれていました。皇后、中宮、女御、更衣です。それぞれの違いについて解説します。

皇后

f:id:kiboriguma:20220312203030j:plain

推古天皇

推古天皇 - Wikipedia

皇后とは、天皇の正式な妻で、正妻といってもよい立場で、場合によっては天皇として即位することもありました。

たとえば、敏達天皇の皇后である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、敏達天皇の死後に、皇后として崇峻天皇に即位を命じ、崇峻天皇暗殺後は自ら即位して推古天皇となりました。

また、舒明天皇の皇后だった寶女王(たからのひめみこ)は、皇極天皇斉明天皇に、天武天皇の皇后だった鸕野讚良(うののさらら)は、持統天皇にそれぞれ即位します。

奈良時代まで、皇后は皇族から選ばれていましたが、聖武天皇藤原不比等の娘である光明子を皇后に迎えたことで、皇族以外からも選ばれるようになります。

中宮

f:id:kiboriguma:20220312210631j:plain

宮中の様子を描いた『紫式部日記』の一場面

藤原彰子 - Wikipedia

中宮は、皇后とほぼ同格とされる称号です。

もともと、後宮には皇后しかいませんでしたが、一条天皇の時代に、すでに皇后として定子がいたにもかかわらず、藤原道長が娘の彰子を、定子と同格の皇后として送り込み、二人の皇后が並立しました(一帝二后)。

以後、先に入った定子が皇后、後に入った彰子を中宮と呼びますが、皇后と中宮の間に身分の差はありません。

定子について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

女御・更衣

天皇の后の称号の一つで、皇后や中宮に次ぐ地位です。

源氏物語の冒頭文で

いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらいける中に」とあるように、女御や更衣には定員がなく、同じ天皇に複数の女御や更衣が仕えていることも多々ありました。

そのため、区別の意味もあったかもしれませんが、女御や更衣は住む殿舎の名でよばれます。

たとえば、弘徽殿に住んでいる女御なら「弘徽殿女御」、桐壺殿に住んでいる更衣なら「桐壺更衣」とよばれました。

女御の下に位置付けられたのが更衣です。

更衣の子は、女御の子よりも格下として扱われ、臣籍降下の対象となりました。

光源氏は、桐壺更衣の子なので皇位継承の順位は低く、源姓を与えられ臣籍降下しました。

ちなみに、臣籍降下とは、皇族が皇籍を離れ一般臣下になることで、基本的に皇位継承権はありません。

皇位継承権を得るには、皇族に復帰する必要があります。

 

天皇に仕える女性たちが住んだ局(建物)

天皇につかる女性たちは後宮に局を与えられました。与えられた建物により、その女性のランクが暗示されます。

ここでは、天皇の住まいである後宮にある七殿五舎や、『源氏物語』によく出てくる弘徽殿と飛香舎(藤壺)、淑景舎(桐壺)について解説します。

七殿五舎

f:id:kiboriguma:20220313205237p:plain

七殿五舎

七殿五舎 - Wikipedia

天皇の住む場所は、内裏の紫宸殿の後方にあり、後宮とよばれます。後宮の建物をまとめて呼ぶときにつかうのが七殿五舎です。

弘徽殿をはじめとする七殿がつくたてものは、内裏が創建された当時からあったとされ、飛香舎などの五舎よりも格上とされます。

弘徽殿

天皇が寝起きする清涼殿の北に位置し、七殿の中でも最も格上とされた建物です。

光源氏の誕生」で登場する弘徽殿女御は、桐壺帝の后の中でも最も格上の女性で、朱雀天皇の母となってからは弘徽殿大后となり、強い権勢をふるいました。

飛香舎(藤壺

庭に藤が植えられていたことから、藤壺の異名を持つ建物です。

はじめは、七殿より格下の建物でしたが、清涼殿に近いことから中宮や女御といった高貴な女性の住まいとされました。

物語りの途中で登場する「藤壺中宮」は、藤壺に住んでいたためそのようによばれました。

藤壺中宮は、桐壺更衣とそっくりの容姿だったため桐壺帝の寵愛を受けます。

しかし、藤壺が病で里下がりした際に、理想の女性として慕う光源氏と関係を持ち、男子を出産。何も知らない桐壺帝は「瑕なき玉」として男子を溺愛します。

桐壺帝の死後、光源氏からの求愛をかわし切れなくなった藤壺は出家してしまいます。

淑景舎(桐壺)

桐壺は、天皇が住まう清涼殿から最も遠く離れた建物です。

普段は、后妃が住むためというより摂政が宿直する場所として用いられました。

天皇からお呼びがかかると、后たちは住んでいる建物から清涼殿に向かわねばなりません。

しかし、桐壺から清涼殿までの途中で桐壺更衣は嫌がらせを受けます。

具体的には、渡り廊下に汚物をまき散らされ、着物を汚し天皇のところに行けないようにすることや、渡り廊下を歩いているときに前後の戸を閉めて閉じ込められるなどsれます。

どちらも、非常に陰湿なものですが、裏を返せばそれだけ桐壺帝の寵愛が強く、他の女性の嫉妬を買っていたともいえます。

桐壺更衣は、こうした心理的な圧迫もあってか、光源氏が3歳の時に亡くなってしまいました。

敬意の方向

敬意の方向を考えるとき、誰から誰への敬意なのかが重要です。これを、敬意の方向といいます。

 

「誰から」

・地の文なら作者から

・会話文なら、言葉を発している人(話し手)から

「誰へ」

・尊敬語なら動作主

・謙譲語なら動作の受け手

・丁寧語なら聞き手・読み手

 

これが基本となります。

源氏物語』において、筆者である紫式部は、自分より身分が上の人物に対し敬語を使います。

 

例)この御子生まれ給ひて後は

生まれ給ひ:生まれたのは御子、生まれたということに対し、筆者の紫式部は敬意をこめて、”生まれ給ひ”(お生まれになった)と書きました。

この場合、敬意の方向は筆者から御子へとなります。

 

紫式部の書く”地の文”は、ドラマのナレーションのようなもので、読み手である私たちに対し、状況を説明する文章です。その中でも、物語に登場する高貴な人々に対して、敬意を示し続けます。

 

基本、地の文では「筆者」から「登場人物」への敬意が示されると覚えてよいでしょう。さらに、登場人物たちは、自分よりも偉い人に敬意を示すことも併せて理解しておきましょう。

また、天皇は登場人物全てと筆者から敬意を向けられる対象ですので、併せて覚えておきましょう。 

光源氏の誕生」の意訳

光源氏の誕生は、基本的に作者である紫式部によるナレーションです。

これから始まる『源氏物語』がどのようなお話なのか、ドラマのオープニング部分で語っているものです。

いづれの御時にか」の意訳

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。

 

いつの天皇の時代であったか、(天皇に仕える)数多の女御や更衣の中に、それほど高貴な血筋ではないが、とても帝の寵愛を受けた女性がいました。

 

はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方、めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。

 

宮中に仕えるようになってから”自分こそは(帝の寵愛を受ける!)とお思いになっている方々は、寵愛を受けた女性を”気に入らない!”と妬みなさり、女御よりも身分が低く(したがって、チャンスが少ない)更衣たちは猶更、心安らかではありませんでした。

 

朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに 里がちなるを、

 

朝夕、宮中での宮仕えをしていた中で、その女性の行動が人の心を動揺させ、恨みを募らせてしまったのでしょうか、(恨まれている女性=桐壺更衣)は、とても病気がちになり、なんとなく心細い様子で実家に帰っていました。

 

いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

 

その様子を見た桐壺帝が、ますます気の毒にお思いになって、(桐壺更衣を)周りの人がそしる(悪く言う)のも憚られず、世間の語り草になるに違いないほどの御もてなし(厚遇・寵愛ぶり)をしていらっしゃいました。

 

上達部、上人なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。

 

上達部(三位以上の上級貴族)などは、(桐壺帝の様子を)”感心しないことだ”と思い、目を背けていましたが、見ていられないほどの寵愛ぶりでした。

 

唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、

 

”中国でも、このようなこと(皇帝が特定の女性を寵愛すること)があって、世の中が乱れたのだ”などと、世間の人々の間でも苦々しいことだと、人々の悩みの種になり、楊貴妃の例を引き合いに出されかねないほどとなり

 

唐の玄宗皇帝は、楊貴妃を寵愛するあまり国政を顧みなくなりました。
そして、世の中が乱れ、安史の乱へとつながったとされてきました。 宮中の人々は、帝の寵愛を受けすぎる桐壺更衣を楊貴妃に見立てて批判したのです。
 
いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。
 
桐壺更衣は、”大変きまりが悪い”と思うことが多かったですが、桐壺帝の類を見ないほど強い愛情を頼りに、宮仕えをしていました。
 
父の大納言は亡くなりて、母北の方 なむ古の人の由あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ華やかなる御方々にもいたう劣らず、
 
桐壺更衣の乳である大納言はすでに亡くなっていました。母親の北の方は昔風の人で由緒ある家柄です。そのため、両親ともそろっていて、今のところ世間の評判となっている女御や更衣と比べても劣っておらず、
 
なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後ろ見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
 
どのような儀式でも、他の女御や更衣と比べて引けを取らずに執り行うことはできましたが、後見人となる人がいないので、何かあった時のよりどころがなく、心細いご様子でした。
 
平安時代の宮中で重要なのは「後ろ見」、すなわち実家の後見人でした。
宮中で何かあった時に頼れるのは実家です。しかし、父を亡くした桐壺更衣は後ろ盾がない状態であり、非常に不安定な立場でした。
 

「前の世にも御契りや」の意訳

前の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれ給ひぬ。
いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。
 
桐壺帝と桐壺更衣は、前世からの御縁が深かったのでしょうか。世にまたとないほど清らかな玉のような皇子がお生まれになりました。
桐壺帝は”早く見たい”と待ち遠しくお思いだったので、急いで皇子を参上させ、皇子の顔を見るとめったにないほどの(すばらしい)お顔立ちの皇子でした。
 
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづき聞こゆれど、
この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、
この君をば、私物に思ほしかしづき給ふこと限りなし。
 
右大臣の女御(弘徽殿女御)との間に生まれた第一皇子は、後ろ盾がしっかりしていて疑いなく皇太子となると世の中の人もみなしていましたが、
この新たに生まれた第二皇子の美しさには較べようがなく、第一皇子への接し方は普通に大切になさる程度でしたが、
この君(第二皇子)は、桐壺帝が自分の大切な子としてお育てになりました。
 
はじめよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。
 
桐壺更衣は、当初は、ありきたりの帝のおそば勤めをなさらなければならない身分ではありませんでした。
 
おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参上らせ給ふ、
 
世間の評判は並大抵のものではなく、桐壺帝が分別なく常に桐壺更衣を管弦の遊びや趣のある催しの際にも(桐壺更衣より身分が高い女御を差し置いて)真っ先に参上させ、
 
ある時には大殿籠り過ぐして、やがて候はせ給ひなど、あながちに御前去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、
 
あるときには帝は桐壺更衣といっしょにお休みになられ、寝過ごされたときもそのままおそばに仕えさせるなど、強引にそばから離れないよう扱っているうちに、自ずと身分が低いようにも見えていましたが
 
天皇の后妃はそれぞれ、殿舎(局)を与えれ、独立した生活をしていました。しかし、桐壺帝が寵愛のあまり、桐壺更衣を常に自分のそばに置いてしまったことで、女御や更衣といった后妃よりも身分が低い一般の女房のように見えてしまっていました。最初は身分が低く見えなかったものが、あとから身分が低く見えてしまうと紫式部が書いたのは、そのためです。
 

この御子生まれ給ひて後は、いと心異に思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめりと、一の皇子の女御は思し疑へり。

 

第二皇子が生まれてからは、帝は桐壺更衣を格別に心がけるようお決めになり、そのように扱ったので、第一皇子の母=弘徽殿女御は”帝は第二皇子を皇太子にするのではないか”とお疑いになりました。

 

人よりさきに参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞなほわづらはしう、心苦しう思ひきこえさせ給ひける。

 

弘徽殿女御は、誰よりも先に桐壺帝に入内していて、帝が弘徽殿女御を大切に思う気持ちは並大抵ではなく、第一皇子だけではなく、皇女も生まれていたので、帝も弘徽殿女御の忠告だけははばかられ、つらくお思いになっていました。

 

かしこき御蔭をば頼み聞こえながら、おとしめ疵を求め給ふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。御局は桐壺なり。

 
桐壺更衣は、桐壺帝の寵愛だけを頼みとしてきましたが、桐壺更衣をおとしめ、落ち度を探す人が多い有様でした。桐壺更衣は体が弱く、寵愛を受けたためによくない思いをなさっていました。この更衣の住む局が桐壺です。

まとめ

◆この記事のまとめ◆
・『源氏物語』は三部構成
・「光源氏の誕生」の登場人物は桐壺帝、桐壺更衣、第一皇子の母(弘徽殿女御)
・「光源氏の誕生」の敬意の方向は、誰から誰への敬意かに注目
・桐壺帝は桐壺更衣と光源氏を寵愛したが、後ろ盾がない桐壺更衣の立場は不安定

今回は紫式部が書いた『源氏物語』の冒頭文である「桐壺」を紹介しました。桐壺の前半部分は光源氏誕生について、後半は宮中での桐壺更衣の立場について書かれています。

女性社会である宮中ならではの人間関係の複雑さや、皇位継承をめぐる周囲の人々の思惑などが絡み、桐壺更衣はストレスで病がちになっていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「千秋庵総本家と千秋庵製菓は違うの?」「六花亭と千秋庵は関係ある?」「山親父やノースマンはどこのお菓子?」わかりやすく解説します!

「北海道にある千秋庵ってどんなお菓子屋さん?」

「千秋庵と千秋庵総本家の違いとは?」

「千秋庵と六花亭って関係があるの?」

 

このページをご覧の方は、そのような疑問を持っているかもしれません。

北海道で千秋庵といえば、札幌に本店を置く菓子メーカー「千秋庵製菓」のことをさします。

ノースマンや山親父といった菓子で有名なメーカーで、北海道ではローカルCMが流れていたため、知っている人が多いかもしれません。

千秋庵総本家は、函館で創業した千秋庵の大元になる菓子屋をルーツとしています。

また、六花亭は札幌千秋庵から暖簾分けされた帯広千秋庵がもとになっていますが、1977年に千秋庵の暖簾を返上して、六花亭製菓となりました。

今回は、札幌の千秋庵製菓や函館にある千秋庵総本家、帯広に本社を構える六花亭製菓について紹介します。

北海道の食べ物・飲み物について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

 

f:id:kiboriguma:20220307205940j:plain

スイーツのイメージ おいしいスイーツのイラストイラスト
- No: 1641920/無料イラストなら「イラストAC」

千秋庵製菓(札幌千秋庵)とは

千秋庵製菓(札幌千秋庵)は、札幌市に本社を置く老舗菓子メーカーです。

創業は1921年(大正10年)で、駅前通りと狸小路が交差する現在の場所に店舗を構えました。

1930年(昭和5年)に店舗を新築した際、それを記念して「山親父」と「原始林」を発売しました。

「山親父」は、初期の千秋庵製菓を代表する菓子で、戦後には道内向けテレビCMで知名度を高めます。

スキー板を履いたクマが鮭を背負う姿をレリーフにしたせんべいで、道民になじみのものです。

牛乳とバターで作ったシンプルな煎餅です。

山親父と聞くと、つい、CMソングを思い出す方も多いようです。ちなみに、山親父のCMは1960年(昭和35年)から放映されたものだそうです。

1950年(昭和25年)、札幌千秋庵は株式会社になりました。このころ発売されたのが小熊のプーチャンバターです。

砂糖、水あめ、バターというシンプルな原料でつくられたバター飴で、放送がとても可愛らしい一品です。

やさしい味わいの飴で、あまりベタベタしないのが特徴です。

やはり、缶や包装の可愛らしさが人気のようです。

1974年(昭和49年)に発売されたのが千秋庵製菓の看板ともいえるノースマンです。

北海道産小豆をパイで包み、甘さを抑えた味で飽きが来ない銘品です。パイというとサクサクというイメージを持つかもしれませんが、ノースマンはしっとりとした口当たりが特徴。

横浜中華街で売られていた「パイまんじゅう」にヒントを得て作られたそうです。パイ生地の温度管理は非常に重要で、今でも腐心しているといいます。

おはようございます☀️

ノースマンはかぼちゃ餡や季節限定の餡などもありますので、北海道旅行の際は、千秋庵の店舗を見てみてはいかがでしょうか。

そして、最近知ったのが「焼きたてのノースマン」。これは、まだ食べたことがないので、札幌に行った際は食べてみたいなと考えています。

そして、2021年9月5日に千秋庵製菓は創業100年を迎えました。

千秋庵の歴史

1860年秋田藩佐々木吉兵衛箱館で菓子店を創業しました。佐々木は故郷の秋田をしのんで千秋庵という屋号をつけたとされます。その後、千秋庵は暖簾分けにより全道に拡大しました。

札幌にある千秋庵製菓は小樽千秋庵から暖簾分けしてできました。また、全国的にも有名な六花亭も千秋庵の流れをくむ菓子メーカーです。  

千秋庵総本家

三代目佐々木吉兵衛は、東京から松田咲太郎を招き四代目を継がせました。

四代目となった松田は、元祖山親父の製法を編み出し、各地の千秋庵に伝えたといいます。

函館では大正時代の末期からどら焼きをつくり始めました。函館を含む道南産の大納言小豆を三日間かけて練り上げ、丁寧な粒あんに仕上げます。そして、その餡を生地で包んで蒸し焼きにしました。

このどら焼きは、今でも千秋庵総本家の看板商品として函館市民に親しまれています。

伝統的な和菓子だけではなく、新商品も開発しています。

2016年(平成28年)に、北海道新幹線の函館開通を記念してつくられた函館散歩は、口当たりの良いカステラ饅頭です。

最近は、小豆餡だけではなく、ミルク餡の函館散歩も発売されています。

どら焼きや函館散歩以外のお菓子に興味がある方は、千秋庵総本家の楽天用サイトもご覧ください。 

六花亭

1933年(昭和8年)、札幌千秋庵から暖簾分けされた帯広千秋庵が開店しました。

戦時中は工場疎開により休業を余儀なくされましたが、1946年(昭和21年)に営業を再開します。

1952年(昭和27年)、帯広市から市制施行20周年の記念菓子製造依頼があり、「ひとつ鍋」を開発します。

1967年(昭和42年)に社長の小田豊太郎が渡欧した際に、チョコレートが流行しているのを見て日本でもはやると確信。帰国後に試行錯誤を重ね、ホワイトチョコレートの発売にこぎつけました。

ホワイトチョコレートは1930年代にスイスのネスレ社が製品化し、1950年代半ばには欧米各国に広まっていました。日本では帯広千秋庵(後の六花亭)が初めて開発に成功します。

ツイートにもあるように、上品で飽きがこない甘さが人気の秘訣です。

ホワイトチョコレートを他社でも販売するようになると、帯広千秋庵は販路の拡大を模索します。しかし、札幌千秋庵との競合などを考慮した結果、1977年(昭和52年)に千秋庵の暖簾を返上。六花亭製菓となりました。

六花亭となってから大ブレイクしたのが看板商品となるマルセイバターサンドです。

マルセイバターサンドのおいしさのひみつは、ホワイトチョコレートの濃厚な味わいにあります。名前の通り、バターを溶かしこんだような味わいは他では味わえないものでしょう。

贈答品におすすめなのがお菓子の詰め合わせの十勝日誌。

見た目が本になっていて、非常に美しく、食べ終わった後はいろいろなものを詰める箱として使われているのをよく見かけます。

はじめてもらった人は、「どれだけお菓子が入ってるの?」とびっくりする十勝日誌。お世話になった方へのお歳暮やふるさと納税の返礼品として利用してはいかがでしょうか。 

まとめ

今回は、箱館にはじまる千秋庵の歴史をまとめました。

札幌でしっかり根付き、北海道銘菓の代名詞となったノースマンや、函館で磨かれたどら焼き、六花亭ホワイトチョコレートなど、千秋庵は北海道のお菓子の歴史を語るうえで欠かせない存在です。

北海道物産展や北海道観光、インターネットで販売されているのを見かけたら、ご購入されることをお勧めします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

「松方財政って何?」「どんな内容?」「松方デフレって何?」わかりやすく解説します!

「松方財政とは?」

松方正義ってどんな人?」

「松方デフレって何?」

 

このページをご覧の方は、そのような疑問を持っているかもしれません。

松方財政とは、1880年代前半に実施された松方正義大蔵卿(大蔵大臣)がおこなった財政政策のことです。

主な内容は紙幣整理や日本銀行の設立、銀兌換制の確立、官営事業払下げ政策などです。

松方財政後、松方デフレとよばれる現象が発生しました。

その結果、自作農が没落したとされます。

 

今回は、松方正義がどんな人物か、松方財政が行われた理由、松方財政の内容、松方財政の結果おきた松方デフレなどについてまとめます。

f:id:kiboriguma:20220406100952j:plain

財政政策

財政政策 - No: 2166174|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

   

松方正義のプロフィール

f:id:kiboriguma:20220406102334j:plain

松方正義

松方正義 - Wikipedia

松方正義は1835年(天保6年)に薩摩藩(今の鹿児島県)に生まれました。1850年嘉永3年)から藩の勘定所に出仕し、7年間務めます。その間、働きぶりが認められ130両の報奨金をもらったこともありました。

幕末の金1両は現代の4千円から1万円ほどと換算されるので、おおざっぱに見積もって彼がもらった報奨金は約100万円。若いころから、勘定(経理)に関する才能を持っていたことがわかります。

f:id:kiboriguma:20220406102450j:plain

松方を重用した島津久光

島津久光 - Wikipedia

明治維新の直前、松方は藩の指導者である島津久光に重用され、藩の政策立案に関わりました。

明治維新後、松方は日田県の知事に就任し、別府温泉の基盤を作りました。

東京に転勤後、大蔵官僚として昇進し、内務卿大久保利通のもとで地租改正などに携わります。

ところが、1877年(明治10年)に大蔵卿大隈重信と対立。

伊藤博文の機転で大蔵省から内務省に転任し、1877年から翌年にかけてヨーロッパに留学しました。

1881年明治14年)、大隈重信が明治十四年の政変で失脚すると、後任として大蔵卿に就任し、松方財政をスタートさせました。1885年(明治18年)の第一次伊藤内閣では初代大蔵大臣をつとめ、1892年(明治25年)まで大蔵大臣として財政を担当しました。

1891年(明治24年)と1896年(明治29年)に内閣総理大臣を務め、退任後は元老として国政に関与します。

松方のように、総理大臣と大蔵大臣を歴任した政治家には高橋是清がいます。

高橋是清がおこなった高橋財政について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

そして、1924年大正13年)に亡くなりました。享年90歳。

東京三田にあった自宅で国葬が営まれ、青山霊園に葬られました。

なぜ、松方財政をしなければいけなかったか

f:id:kiboriguma:20220406102643j:plain

インフレのイメージ

インフレ インフレーション イメージ - No: 22720754|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

なぜ松方財政が必要だったのでしょうか。その理由はインフレーション(以下、インフレ)が発生して政府が財政難に陥っていたからです。

では、なぜインフレが発生してしまったのでしょうか。インフレの原因は大蔵卿大隈重信が行っていた積極財政で市中に大量の紙幣が出回っていたからです。

大隈は産業を育成する殖産興業政策を進めるため、積極的に紙幣を発行しました。

さらに1877年(明治10年)に西南戦争が勃発。

戦費が必要となった政府は、大隈が紙幣を大量に発行させるのを止めませんでした。

すると、大量に印刷されたお札の価値が下がり、モノの値段が上がってしまうインフレが発生しました。

地租改正で、税を「現金」で納めさせていた政府は、インフレのせいで収入が激減し、財政難となってしまいます。

そのかわり、大いに儲けたのが「現物」を持っていた農民たちでした。

インフレが行き過ぎると、紙幣が紙くず同然となるハイパーインフレが発生する可能性すらあります。

ハイパーインフレについては、こちらの記事をどうぞ

kiboriguma.hatenadiary.jp

松方は、行き過ぎたインフレを止め、政府の財政難を改善しなければなりませんでした。

松方財政の内容を紹介

松方は、インフレを抑えるために市中の紙幣を回収します。

そして、紙幣がちょうどよいところまで減ったところで、紙幣の価値を保障する銀本位制を導入しました。

そのために、松方がおこなった具体的な政策を見てみましょう。

増税と歳出削減による紙幣整理

f:id:kiboriguma:20220406102807j:plain

増税のイメージ

増税に苦しむ - No: 22924452|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

松方は、世の中に出回っているお金を減らすため、様々な名目で税金を増やしました

その一方、政府の支出(歳出)は大幅に削減します。

そうすると、

増税で回収した紙幣」>「歳出で出ていく紙幣」

となります。

余った紙幣を、松方は処分させ流通しないようにしました

このようにして、世の中の紙幣を減らすことを紙幣整理といいます。

松方の紙幣整理により、徐々に世の中から紙幣が減っていきました。

明治時代に限らず、日本の税制について知りたい方はこちらの記事もどうぞ。

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

kiboriguma.hatenadiary.jp

官営工場の払い下げ

f:id:kiboriguma:20220406102912j:plain

富岡製糸場

富岡製糸場と絹産業遺産群 - Wikipedia

次に、松方は出費のもととなっていた官営工場をどんどん民間に払い下げます

たとえば、政府が各地に持っていた鉱山は、古河市兵衛岩崎弥太郎の三菱に、富岡製糸場は三井にといった具合で、払下げを実行します。

これにより、政府の支出削減に成功しました。

その一方で、払い下げを受けた民間企業は急成長のチャンスを得ます。

ちなみに、富岡製糸場は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の名で2014年に世界遺産に登録されました。

日本銀行の設立

f:id:kiboriguma:20220406103010j:plain

日本銀行本店

日本銀行 - Wikipedia

紙幣の量を減らした松方は、いよいよ、中央銀行設立に動き出します。

1882年(明治15年)、松方の建議により中央銀行である日本銀行が設立されました。

当初は、混乱する貨幣制度の改革をすすめる役割を担っていましたが、国庫金の取り扱いなど業務が拡大していきました。

現在、日本銀行には政府の銀行銀行の銀行発券銀行の役割があるとされ、日本の金融の中心にあり続けています。

兌換紙幣の発行

日本銀行設立を果たした松方にとって、最後の課題となったのは兌換紙幣の発行でした。

紙幣には、金や銀(正貨)で価値が保証された兌換紙幣と、政府や中央銀行が価値を保障する不換紙幣があります。

正貨をあまり持っていなかった日本政府は兌換紙幣ではなく、不換紙幣を大量に発行していました。

しかし、不換紙幣は発行しすぎると紙幣の価値を下落させ、インフレの原因になってしまいます。

そこで、松方は金や銀の保有量しか発行できない兌換紙幣に切り替えることで、紙幣の価値を安定化しようとしました。

そのために、松方は増税や歳出削減などと同時並行で正貨の保有量を増やしていました

1885年(明治18年)、一定量の銀を確保した松方は銀と交換可能な日本銀行券(兌換紙幣)の発行に踏み切ります。

ここに、銀を中心とする銀本位制が確立し、紙幣価値は安定。

西南戦争以来のインフレが終息しました。 

松方財政の結果(松方デフレ)

松方財政はインフレを終息させましたが、その一方で副作用ともいえるデフレーション(デフレ)が発生しました。

デフレーションとは

デフレーションとは、貨幣の価値が高くなり、物の価値が下がる現象のことです。

1個100円のリンゴが、200円となれば、物の価値が上がったことになります。これがインフレです。

一方、1個100円のリンゴが、50円となれば、物の価値が下がったことになります。これが、デフレです。

インフレのとき、1,000円手に入れたければ、リンゴを5個売ればよかったのですが、デフレの時なら、リンゴを20個売らないと1,000を手に入れることができません。

このように、デフレになると物をたくさん売らないとお金を手に入りにくくなるのです。

一方、政府は紙幣の価値が上がることで事実上税収がアップし、財政難が和らぎました。

松方デフレによる自作農の没落

デフレで困ったのは農民たちでした。

インフレの時は、作物を少し売っただけで十分に地租を支払うことができました。

しかし、デフレになるとたくさん売らなければ地租を払えません

その上、松方は増税をしていたため、農民たちはますます税の支払いに苦しみます

すると、税を支払えなくなった自作農は土地を地主などに売り、自分は売った土地で農業労働者として働きました

地主の土地ではたらく農業労働者を小作農といいます。

また、自作農の土地を買い集め、自らは農業をせず経営者として利益を得るようになった地主を寄生地主といいます。

こうして、戦前日本の農村でよく見られた寄生地主制の基盤が出来上がりました

以後、敗戦後の農地改革まで、寄生地主は農村経済を支配する存在となります。

また、多額の借金を抱えた農民たちは各地の民権運動に参加し、自由民権運動を過激化させました。

まとめ

今回は、松方財政についてまとめました。

1880年代前半に行われた松方財政は、日本の紙幣の価値を安定化させ、日本の近代化に大いに貢献したとされます。

しかし、松方の政策は急激なデフレを招き、農民たちの中には税を払えずに土地を売るものが続出し、小作農が急増しました。

寄生地主小作人という貧富の差が大きい戦前の農村社会の基盤が作られたといってよいでしょう。

 

プライバシーポリシー お問い合わせ