「フィンランドってどんな国?」
「ロシアに屈しなかったフィンランドの歴史が知りたい!」
このページをご覧の皆様は、そのようなことをお考えかもしれません。
フィンランドはスカンディナビア半島の東部にあり、国土の3分の1は北極圏に属します。
また、国土面積の70%を森林が占め、フィンランドの各地には氷河の名残である湖が点在しています。そのため、「森と湖の国」の異名を持ちます。
一見、戦乱と無縁に思える北国フィンランドですが、独立を維持するために苦闘を繰り広げた歴史を持ちます。
今回は、フィンランドの地政学的位置や歴史などについて紹介します。
フィンランドの基本データ
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フィンランドの地政学的位置
フィンランドは歴史的に2つの地域に挟まれてきました。
一つは、東のロシア、もう一つは西スウェーデンです。
2つの大国に挟まれた場所を、「緩衝国」といいます。
大国の間に存在し、大国同士が直接戦いとなるのを防ぐ役割を持つ国のことで、フィンランドやウクライナは典型的な緩衝国といえます。
緩衝国は、対立する2つの勢力の綱引きの場となることが多く、政治・軍事・経済の面で絶えず緊張を強いられます。
また、ロシアは伝統的に周辺の中小国を緩衝国と考え、自国の影響力を強く及ぼそうとする傾向が強い国です。
2大勢力に挟まれたフィンランドは、最初はスウェーデンの、次いでロシアの支配を受けました。
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フィンランドの歴史
独立以前
フィンランドは、アジア系のフィン人が建国した国です。
しかし、独立国家の形成前にはスウェーデンやロシアの支配を受けました。
スウェーデン時代(1155-1809)
12世紀中ごろから終わりごろにかけて、スウェーデンやデンマークなどがフィンランド周辺を征服しました。これを、北方十字軍といいます。
最初は、北欧諸国の中で最も強かったデンマークの影響を受けますが、やがて、力を増したスウェーデンがフィンランドの地も支配します。
1700年、スウェーデンとロシアが戦った大北方戦争でスェーデン軍が大敗したため、ロシアの影響力が徐々に増しました。
そして、ナポレオン戦争中におきたスウェーデンとロシアの戦争でスウェーデンが再び大敗し、フィンランドはロシア帝国の支配下に入ります。
ロシア時代
ナポレオン戦争後、ロシア皇帝アレクサンドル1世を大公とするフィンランド大公国が成立します。
19世紀後半のアレクサンドル2世の時代は、皇帝が開明的な政策を採用していたこともあり、比較的穏やかな統治でした。
1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると状況は一変しました。
ロシアの政治は反動的・保守的となり、フィンランドの支配も強権的なものとなりました。
そして、1899年にはフィンランドの自治権がはく奪されフィンランド語が禁止、ロシアか政策が推進されます。
しかし、この政策は逆効果でありフィンランド人の民族意識を高める結果となり、1904年にフィンランド総督が暗殺されるに至ります。
皇帝ニコライ2世はフィンランドの自治権廃止を撤回し、憲法制定や普通選挙の容認など妥協します。
その後、第一次世界大戦が近づくにつれて再び強権的な政策に回帰し、ロシアとフィンランド人の対立が深まりました。
独立後
第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命が勃発。ロマノフ朝ロシア帝国は滅亡しました。
この混乱をついてフィンランドは独立を達成します。
しかし、その後はソビエト連邦やナチス=ドイツ国との関係で苦しい状況に追い込まれます。
フィンランド共和国の成立
ロシア革命によりロシア本国が混乱する中、フィンランド政府はロシアで勢力を拡大していたボリシェヴィキとの交渉の末、ロシアからの独立を果たします。
しかし、独立に反対する国内の共産主義者の赤軍が首都ヘルシンキなどを掌握し、政府と対立します。
このとき、政府軍(白衛軍)の指揮官として赤軍を撃破するのに活躍したのがマンネルヘイム将軍でした。
日露戦争に従軍した経験豊富な軍人であるマンネルヘイムは、劣勢だった白衛軍を立て直し、フィンランド内戦を勝利に導きました。
これにより、フィンランド共和国の基盤は確立されたといってよいでしょう。
冬戦争(1939.11.30-1940.3.13)
1930年代後半、新しい秩序を作ろうと画策する二人の独裁者がいました。
1人は東のソビエト連邦の指導者スターリン、もう1人は南のナチス=ドイツを率いるヒトラーです。
ドイツとソ連は、西側諸国に対抗するため独ソ不可侵条約を締結します。
独ソ不可侵条約に付随する「秘密議定書」では、ドイツとソ連は、両国の間にある中小国について「領土と政治の再配置」と称して互いの勢力圏を設定しました。
1939年9月、ドイツ軍はポーランドに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまります。
ソ連は秘密議定書にもとづいてポーランドに出兵しポーランドを東西で分割しました。
独ソ不可侵条約により、ドイツ軍の侵攻を考えなくてよくなったスターリンはフィンランドに圧力をかけます。
1939年11月、ソ連はフィンランド政府に第2の都市ヴィープリを含む領土割譲を要求しました。
もちろん、フィンランド政府はこれを拒否します。
すると、待ってましたとばかりにソ連軍がフィンランドに攻め込んできました。
通称”冬戦争”の始まりです。
両軍の戦力比は以下の通りです。
見ての通り、ソ連軍の圧倒的優勢です。
兵力の優勢を活かしたいソ連軍は、フィンランド国境の全面に兵力を展開、フィンランド全土を一気に制圧しようとしました。
フィンランド軍はスオムッサルミの戦い、トルヴァヤルヴィの戦いでソ連軍を食い止め、各国の予想に反して善戦します。
また、戦いのさなかに勇敢に戦ったフィンランド人のエースも登場しました。
その代表が”白い死神”と恐れられたシモ・ヘイヘです。
シモ・ヘイヘは、狩猟と農業で生計を立てていた人物でしたが、1920年に白衛軍の兵士として独立戦争で参戦し戦闘経験を積みます。
冬戦争ではユーティライネン中尉の舞台に所属し、地元に近いコッラー河を守備していました。
ユーティライネン中尉は彼の性格や能力を考慮し、単独行動できる狙撃兵の任務を与えます。
遠視スコープを使わず、肉眼でソ連兵を狙撃し続け、確認できただけでもソ連兵542名を射殺する戦果を挙げました。
こうした粘り強い抵抗を受けたソ連軍は作戦を変更し、都市部の絨毯爆撃やカレリア地峡への戦力攻撃に重点を移します。
ソ連軍はカレリア地峡を突破し、首都ヘルシンキを攻撃する中央突破策をとりましたが、これも、カレリア地峡につくられた防御陣地マンネルヘイム線に阻まれてしまいます。
このように、フィンランド軍は局地戦ではソ連を圧倒していました。
しかし、戦争の長期化によりフィンランド軍は消耗していきます。
最終的にはモスクワ講和条約を結び、冬戦争は終わりを告げます。
モスクワ講和条約の結果、フィンランドはカレリア地方などをソ連に割譲します。
国力に勝るソ連軍がかろうじて勝利を得た形となりました。
継続戦争(1941.6.25-1944.9.19)
1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連領内に攻め込みました。
同年6月25日、ソ連がフィンランド領に空爆を行ったことを理由としてフィンランドがソ連に宣戦布告。ここに、継続戦争がはじまりました。
冬戦争と比べると、両軍ともより大きな戦力が投入され、死者数も増大。戦いの激しさがわかります。
ドイツ軍のバルバロッサ作戦がうまくいっていた時、フィンランドは冬戦争後に奪われたヴィープリを奪還するなど、ソ連軍に対し優勢でした。
しかし、ドイツ軍が各地で敗退するとソ連は体勢を立て直し、フィンランド軍を北に追い返します。
逆に、本国に攻め込まれそうになったフィンランドはタリ・イハンタラの戦いでかろうじてソ連軍を食い止めました。
とはいえ、フィンランド軍の経戦能力は限界に達しつつありました。
そこで、大統領のリュティは辞任し、マンネルヘイムが大統領に就任しました。
マンネルヘイムは、フィンランドとドイツの協力関係はリュティの個人的なものとして、ドイツとの共闘関係を破棄し、ソ連と講和します。
1944年のモスクワ条約は、冬戦争当時よりも厳しい内容でした。
しかし、フィンランドは何とか独立国としての地位を守ります。
そのかわり、フィンランド国内に駐留していたドイツ軍との間でラップランド戦争を戦わざるを得なくなりました。
冷戦期のフィンランド
冷戦中、フィンランドは議会制民主主義と資本主義の体制を維持しましたが、フィンランドの主権はソ連の影響下に置かれ、反ソ連的な政治勢力やメディアは排除されました。
それでも、フィンランドの独立は維持され、ソ連寄りの中立といってもよい状態となります。このことは「フィンランド化」と揶揄されました。
しかし、すべての面でソ連の言いなりだったわけではありません。
1956年10月25日、フィンランドの元大統領リュティが死去しました。
リュティは、ナチスに協力した戦争犯罪者として禁固10年の刑に処せられていましたが、体調を崩し、1年で釈放されていました。
フィンランド国民は、ソ連の猛烈な反対に屈せず、リュティの葬儀を国葬として執り行いました。
国民は、リュティが本当にナチスに協力していたのではなく、国を守るためにやむを得ず協力していたことを知っていたのです。
戦後、フィンランドはアメリカ主導のマーシャルプランを受け入れず、自力で復興せざるを得ませんでした。
ソ連寄りの資本主義国として、ソ連の動向を常に伺いつつも、フィンランドは冷戦期を非同盟政策を貫くことで生き抜きます。
冷戦後のフィンランド
1991年12月、ソ連が崩壊するとソ連経済に依存していたフィンランドは経済的な混乱に見舞われます。
混乱から立ち直ったフィンランドは、経済を立て直すため、1995年に隣国スウェーデンとともにEU(ヨーロッパ連合)の前身であるEC(ヨーロッパ共同体)に加盟。
名実ともに、西側の国として歩みだします。
さらに、IT技術で経済力を伸ばすことにも成功しました。
しかし、ロシア連邦との関係を考慮してか、軍事同盟であるNATOには加盟していません。
一方、ロシアは2000年以降、プーチン政権下で国力を回復し、2008年にジョージア(グルジア)、2022年にウクライナに侵攻するなど、軍事的脅威として存在し続けています。
マンネルヘイムの名言
冬戦争、継続戦争の英雄であるマンネルヘイムは次のような言葉を残しました。
「大国に頼りきることは大国を敵にするのと同じくらい危険なことだ」
これは、紛争のたびに巻き込まれてきたヨーロッパの小国にとって、自明の理ともいえる考え方です。
ルネサンス期の思想家ニコロ・マキャベリの「武器を持たない預言者は必ず倒され、武器を持つ預言者は志をとげる」という言葉にも通じるように感じます。
まとめ
今回は、フィンランドの歴史についてまとめました。
軍事的超大国を隣に控え、緊張感が絶えない小国の苦悩の歴史が見て取れます。
ロシアの周辺諸国にとって、ロシアは常に軍事的な脅威であり、ウクライナ侵攻はフィンランドやジョージアといった隣接国にとって、決して他人事ではありません。
戦争が繰り返されてきたヨーロッパにおいて、自分たちの政治体制や主権守るための戦いは尊重されるべきものでした。
その延長線上にあるのが「民族自決」の考え方です。
フィンランドは「民族自決」を守るため、難敵と戦ったといえるでしょう。
ただ、同時に戦争の引き際についてもウクライナ指導部は真剣に考えていると思われます。
マンネルヘイムは冬戦争を終わらせるとき、戦闘能力が残っているうちに和平交渉をしなければ、完全な屈服が残されるのみだとして不利な条件での講和でも賛成しています。
アメリカと中国という21世紀の大国に挟まれた日本にとって、ウクライナ危機やフィンランドの立場は他人ごとではないように感じます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。