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「地政学における「緩衝地帯」の意味とは」わかりやすく解説します!

地政学に出てくる用語の一つに緩衝国、あるいは緩衝地帯という言葉があります。

緩衝国・緩衝地帯とは対立する勢力の間にある国や地域で、両勢力の直接衝突の可能性を減らす地域のことです。

今回は、緩衝地帯の意味や地政学用語のリムランド、現代のランドパワー・シーパワーの大国、緩衝地帯の具体例、ロシアから見たウクライナ地政学的位置などについてまとめます。

地政学や地理学について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

 

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緩衝地帯とは

マッキンダー

地政学 - Wikipedia

地政学で緩衝地帯とは、大国や大勢力に挟まれる場所に位置する諸国や地域のことを指し示します。

たとえば、冷戦時代にアメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の緩衝地帯となった場所は東欧や東南アジアでした。

19世紀後半から20世紀前半に活躍したイギリスのマッキンダーは、大英帝国の覇権を守るためには、ドイツやソ連の勢力拡大を阻止するため、緩衝地帯を作るべきだと主張します。

 

ランドバワーとシーパワーがぶつかるリムランド

地政学を理解するには、ランドパワーやシーパワーの理解が欠かせません。

ランドパワーとシーパワーについて知りたい方は、こちらの記事を先にお読みください。

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リムランドの定義

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リムランドの概念図

地政学 - Wikipedia

海軍力の及ばないハートランドの周辺地域をリムランドといいます。

リムランドの考え方を提唱したのはアメリカのスパイクマンです。

彼は、ヨーロッパから中東、インド、中国、ロシアの太平洋沿岸までの地域をリムランドとよびました。

リムランドは農耕に向いた気候で、人口が多く、中小国家が乱立しやすい地域と定義しました。

ランドパワーの大国であるロシアの力を抑え込むには、アメリカがリムランドの国々に影響力を及ぼす必要があると主張したのです。

ランドパワーの大国であるロシアの圧力を受けた具体例の一つがフィンランドでした。

フィンランドについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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これまで、ヨーロッパ諸国への干渉に消極的だったアメリカは、第二次世界大戦後、西側諸国の盟主としてリムランドの国々に働きかけ、ソ連の封じ込めを図ります。

その意味で、冷戦の構造はランドパワーソ連とシーパワーのアメリカがリムランドをめぐっての対立ととらえることもできます。

ランドバワーの国

ランドパワーの国はユーラシア大陸の内陸部にある国です。

ロシア 中国 フランス ドイツ

これらの国は大規模な陸軍を持ち、鉄道や道路を使って部隊を移動させます。

ランドパワーの国々は近隣諸国に領域を広げるため、しばしば戦争してきました。

7年戦争や普仏戦争第二次世界大戦独ソ戦清王朝による新疆征服などはランドパワー国家による周辺への浸透といえます。

上記の地図で中国はリムランドに属していますが、中国が強い経済力と軍事力を持っていることを考えるとリムランドというよりランドパワーの国と考える方が現代に即していると考えます。

シーパワーの国

シーパワーの国は国の周囲を海洋に取り囲まれている国です。

アメリカ イギリス 

周囲を海に囲まれていたり、長大な海岸線を有するシーパワーの国は海軍が重要です。港湾施設をもち、領土的支配よりも交易ルートや交易拠点の支配を重視します。

その意味では大航海時代ポルトガルもシーパワーの国といってもよいでしょう。

交易ルートを守るための戦いは辞しませんが、戦争による領土獲得を最優先とするわけではありません。

シーパワーの国にとって大切なのは海の交通路(シーレーン)のコントロールだからです。

 

緩衝地帯の具体例

18世紀のポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国の領域
出典:ポーランド・リトアニア共和国 - Wikipedia(某氏の作成画像)

ポーランド・リトアニア共和国は現在のポーランドリトアニアベラルーシウクライナなどで構成された国でした。

東にロシア帝国、南にオーストリアハンガリー二重帝国、東にプロイセン王国(後にドイツ帝国)と列強に挟まれていました。

国内有力貴族の権力が強く、国王の力はかなり制限されていたため中央集権が進まず、気がつけば周辺の峡谷に挟まれる不安定な緩衝地帯となっていました。

そして、18世紀後半にロシア、オーストリアプロイセンによって3分割され国として消滅してしまいます。

緩衝地帯は周辺諸国の都合によっていとも簡単に消滅させられてしまうという好例といえるでしょう。

19世紀のタイ

19世紀のタイ周辺の状況

タイの歴史 - Wikipedia

18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスやフランスは積極的に東南アジアに進出し、植民地化していきました。

フランスは現在のベトナムラオスカンボジアを支配し仏領インドシナを成立させます。

一方イギリスはミャンマーやマレーシアなどを制圧し植民地化しました。

両勢力のはざまで取り残されたのがチャクリ朝(ラタナコーシン朝)のタイ王国です。

タイはイギリス・フランスの圧力により領土を徐々に削られます。

しかし、両国はタイを奪い合うことで戦いになることを懸念し、タイを独立国のまま維持することとしました。

特に何かの条約が結ばれたわけではありませんが、暗黙の了解としてタイの独立が維持されます。

タイは両国の緩衝地帯として生き延びましたが、あくまでも結果的に生き残っただけです。

このことに危機感を持ったのがラーマ4世ラーマ5世でした。

ラーマ4世

ラーマ4世 - Wikipedia

19世紀中ごろの国王ラーマ4世はヨーロッパの文明を積極的に取り入れて国力を増強。

ラーマ5世

ラーマ5世 - Wikipedia

跡を継いだラーマ5世も近代化政策を実行しました。

そのおかげでタイは国力増強に成功し、東南アジアで唯一、独立を維持します。

ポーランドとの違いは、緩衝地帯になってから国力増強に成功したかどうかかもしれません。

アフガニスタン

アフガニスタン

アフガニスタン - Wikipedia

アフガニスタン中央アジアにある国で、シルクロードの要衝として栄えました。

そのため、文明の十字路と呼ばれることもあります。

中央アジアとインド、イラン方面を結ぶ重要地点だったため、しばしば大国に攻め込まれたという歴史があります。

19世紀後半、インドを植民地としていたイギリスと領土を南に拡大していたロシア帝国との間でアフガニスタンの取り合いがはじまりました(グレートゲーム)。

イギリスはロシアに取られる前に先手を打ってアフガニスタンを制圧し保護国化。

アフガニスタンをロシアとの衝突を避ける緩衝地帯としました。

しかし、1919年にアフガニスタンはイギリスから独立しました。

その後、アフガニスタンは米ソ冷戦の舞台の一つとなります。

ブレジネフ

レオニード・ブレジネフ - Wikipedia

1979年、ソ連ブレジネフアフガニスタン侵攻を開始しました。

その明確な理由は定かではありませんが、アメリカ勢力がアフガニスタンに伸びるのを嫌ったともいわれます。

ソ連が撤退した後、アフガニスタンの内戦が続きました。

紆余曲折を経て、2022年現在、アフガニスタンタリバン(ターリバーン)の支配下にあります。

まとめ

今回は緩衝地帯についてまとめました。

強大な力を持つ国が、相対的に力が弱い国を武力で制圧することは歴史上たびたび起きてきたことでした。

緩衝地帯とされた国や地域が独立を維持するためには政治・軍事・経済において他国に左右されない力を持つ必要があります。

その意味で、タイの前例は参考になりうるのではないでしょうか。

 

「フィンランドってどんな国?」「フィンランドの歴史について知りたい!」「フィンランドの地政学的な位置とは?」わかりやすく解説します!

フィンランドってどんな国?」

「ロシアに屈しなかったフィンランドの歴史が知りたい!」

フィンランド地政学的な位置とは?」

 

このページをご覧の皆様は、そのようなことをお考えかもしれません。

フィンランドはスカンディナビア半島の東部にあり、国土の3分の1は北極圏に属します。

また、国土面積の70%を森林が占め、フィンランドの各地には氷河の名残である湖が点在しています。そのため、「森と湖の国」の異名を持ちます。

一見、戦乱と無縁に思える北国フィンランドですが、独立を維持するために苦闘を繰り広げた歴史を持ちます。

今回は、フィンランド地政学的位置や歴史などについて紹介します。

◆この記事でわかること◆
フィンランドの基本的なデータ
フィンランド地政学的な位置
ソ連と戦った冬戦争と継続戦争の内容
フィンランド化とは何か

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ヘルシンキ・ヴァンター国際空港 (フィンランド) - No: 23232949|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

フィンランドの基本データ

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フィンランドの位置

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フィンランドについて、どんな国か知りたいならば、簡単な観光案内書を見るのも一つの方法です。

地球の歩き方シリーズは、誰でも簡単に読めるので非常におすすめです。

フィンランドについて知りたいと思ったら、ぜひ、手に取ってほしい一冊ですね。

 

フィンランド地政学的位置

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フィンランドは歴史的に2つの地域に挟まれてきました。

一つは、東のロシア、もう一つは西スウェーデンです。

2つの大国に挟まれた場所を、「緩衝国」といいます。

大国の間に存在し、大国同士が直接戦いとなるのを防ぐ役割を持つ国のことで、フィンランドウクライナは典型的な緩衝国といえます。

緩衝国は、対立する2つの勢力の綱引きの場となることが多く、政治・軍事・経済の面で絶えず緊張を強いられます。

また、ロシアは伝統的に周辺の中小国を緩衝国と考え、自国の影響力を強く及ぼそうとする傾向が強い国です。

2大勢力に挟まれたフィンランドは、最初はスウェーデンの、次いでロシアの支配を受けました。

地政学や地理学について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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フィンランドの歴史

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フィンランド国章

フィンランド - Wikipedia

独立以前

フィンランドは、アジア系のフィン人が建国した国です。

しかし、独立国家の形成前にはスウェーデンやロシアの支配を受けました。

スウェーデン時代(1155-1809)

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『カール12世の葬送』
大北方戦争で戦死したカール12世の葬列

大北方戦争 - Wikipedia

12世紀中ごろから終わりごろにかけて、スウェーデンデンマークなどがフィンランド周辺を征服しました。これを、北方十字軍といいます。

最初は、北欧諸国の中で最も強かったデンマークの影響を受けますが、やがて、力を増したスウェーデンフィンランドの地も支配します。

1700年、スウェーデンとロシアが戦った大北方戦争でスェーデン軍が大敗したため、ロシアの影響力が徐々に増しました。

そして、ナポレオン戦争中におきたスウェーデンとロシアの戦争でスウェーデンが再び大敗し、フィンランドロシア帝国支配下に入ります。

ロシア時代

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フィンランドの統治に苦労したロシア皇帝ニコライ2世

ニコライ2世 (ロシア皇帝) - Wikipedia

ナポレオン戦争後、ロシア皇帝アレクサンドル1世を大公とするフィンランド大公国が成立します。

19世紀後半のアレクサンドル2世の時代は、皇帝が開明的な政策を採用していたこともあり、比較的穏やかな統治でした。

1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると状況は一変しました。

ロシアの政治は反動的・保守的となり、フィンランドの支配も強権的なものとなりました。

そして、1899年にはフィンランド自治権がはく奪されフィンランド語が禁止、ロシアか政策が推進されます。

しかし、この政策は逆効果でありフィンランド人の民族意識を高める結果となり、1904年にフィンランド総督が暗殺されるに至ります。

皇帝ニコライ2世フィンランド自治権廃止を撤回し、憲法制定や普通選挙の容認など妥協します。

その後、第一次世界大戦が近づくにつれて再び強権的な政策に回帰し、ロシアとフィンランド人の対立が深まりました。

独立後

第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命が勃発。ロマノフ朝ロシア帝国は滅亡しました。

この混乱をついてフィンランドは独立を達成します。

しかし、その後はソビエト連邦ナチス=ドイツ国との関係で苦しい状況に追い込まれます。

フィンランド共和国の成立

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フィンランド独立の父ともいえるマンネルヘイム

カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム - Wikipedia

ロシア革命によりロシア本国が混乱する中、フィンランド政府はロシアで勢力を拡大していたボリシェヴィキとの交渉の末、ロシアからの独立を果たします。
しかし、独立に反対する国内の共産主義者赤軍が首都ヘルシンキなどを掌握し、政府と対立します。

このとき、政府軍(白衛軍)の指揮官として赤軍を撃破するのに活躍したのがマンネルヘイム将軍でした。

日露戦争に従軍した経験豊富な軍人であるマンネルヘイムは、劣勢だった白衛軍を立て直し、フィンランド内戦を勝利に導きました。

これにより、フィンランド共和国の基盤は確立されたといってよいでしょう。

冬戦争(1939.11.30-1940.3.13)

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冬戦争

冬戦争 - Wikipedia

1930年代後半、新しい秩序を作ろうと画策する二人の独裁者がいました。

1人は東のソビエト連邦の指導者スターリン、もう1人は南のナチス=ドイツを率いるヒトラーです。

ドイツとソ連は、西側諸国に対抗するため独ソ不可侵条約を締結します。

独ソ不可侵条約に付随する「秘密議定書」では、ドイツとソ連は、両国の間にある中小国について「領土と政治の再配置」と称して互いの勢力圏を設定しました。

 

ドイツ:ポーランド西部
ソ連ポーランド東部、バルト三国など

 

1939年9月、ドイツ軍はポーランドに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまります。

ソ連は秘密議定書にもとづいてポーランドに出兵しポーランドを東西で分割しました。

 

独ソ不可侵条約により、ドイツ軍の侵攻を考えなくてよくなったスターリンフィンランドに圧力をかけます。

1939年11月、ソ連フィンランド政府に第2の都市ヴィープリを含む領土割譲を要求しました。

もちろん、フィンランド政府はこれを拒否します。

すると、待ってましたとばかりにソ連軍がフィンランドに攻め込んできました。

通称”冬戦争”の始まりです。

両軍の戦力比は以下の通りです。

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見ての通り、ソ連軍の圧倒的優勢です。

兵力の優勢を活かしたいソ連軍は、フィンランド国境の全面に兵力を展開、フィンランド全土を一気に制圧しようとしました。

フィンランド軍はスオムッサルミの戦い、トルヴァヤルヴィの戦いでソ連軍を食い止め、各国の予想に反して善戦します。

 

また、戦いのさなかに勇敢に戦ったフィンランド人のエースも登場しました。

その代表が”白い死神”と恐れられたシモ・ヘイヘです。

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”白い死神”シモ・ヘイヘ

シモ・ヘイヘ - Wikipedia

シモ・ヘイヘは、狩猟と農業で生計を立てていた人物でしたが、1920年に白衛軍の兵士として独立戦争で参戦し戦闘経験を積みます。

 

冬戦争ではユーティライネン中尉の舞台に所属し、地元に近いコッラー河を守備していました。

ユーティライネン中尉は彼の性格や能力を考慮し、単独行動できる狙撃兵の任務を与えます。

遠視スコープを使わず、肉眼でソ連兵を狙撃し続け、確認できただけでもソ連兵542名を射殺する戦果を挙げました。

 

こうした粘り強い抵抗を受けたソ連軍は作戦を変更し、都市部の絨毯爆撃やカレリア地峡への戦力攻撃に重点を移します。

ソ連軍はカレリア地峡を突破し、首都ヘルシンキを攻撃する中央突破策をとりましたが、これも、カレリア地峡につくられた防御陣地マンネルヘイム線に阻まれてしまいます。

 

このように、フィンランド軍は局地戦ではソ連を圧倒していました。

しかし、戦争の長期化によりフィンランド軍は消耗していきます。

最終的にはモスクワ講和条約を結び、冬戦争は終わりを告げます。

 

モスクワ講和条約の結果、フィンランドはカレリア地方などをソ連に割譲します。

国力に勝るソ連軍がかろうじて勝利を得た形となりました。

継続戦争(1941.6.25-1944.9.19)

1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連領内に攻め込みました。

同年6月25日、ソ連フィンランド領に空爆を行ったことを理由としてフィンランドソ連に宣戦布告。ここに、継続戦争がはじまりました。

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冬戦争と比べると、両軍ともより大きな戦力が投入され、死者数も増大。戦いの激しさがわかります。

ドイツ軍のバルバロッサ作戦がうまくいっていた時、フィンランドは冬戦争後に奪われたヴィープリを奪還するなど、ソ連軍に対し優勢でした。

しかし、ドイツ軍が各地で敗退するとソ連は体勢を立て直し、フィンランド軍を北に追い返します。

逆に、本国に攻め込まれそうになったフィンランドはタリ・イハンタラの戦いでかろうじてソ連軍を食い止めました。

とはいえ、フィンランド軍の経戦能力は限界に達しつつありました。

そこで、大統領のリュティは辞任し、マンネルヘイムが大統領に就任しました。

マンネルヘイムは、フィンランドとドイツの協力関係はリュティの個人的なものとして、ドイツとの共闘関係を破棄し、ソ連と講和します。

1944年のモスクワ条約は、冬戦争当時よりも厳しい内容でした。

しかし、フィンランドは何とか独立国としての地位を守ります。

そのかわり、フィンランド国内に駐留していたドイツ軍との間でラップランド戦争を戦わざるを得なくなりました。

冷戦期のフィンランド

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リスト・リュティ

リスト・リュティ - Wikipedia

冷戦中、フィンランドは議会制民主主義と資本主義の体制を維持しましたが、フィンランドの主権はソ連の影響下に置かれ、反ソ連的な政治勢力やメディアは排除されました。

それでも、フィンランドの独立は維持され、ソ連寄りの中立といってもよい状態となります。このことは「フィンランド」と揶揄されました。

しかし、すべての面でソ連の言いなりだったわけではありません。

1956年10月25日、フィンランドの元大統領リュティが死去しました。

リュティは、ナチスに協力した戦争犯罪者として禁固10年の刑に処せられていましたが、体調を崩し、1年で釈放されていました。

フィンランド国民は、ソ連の猛烈な反対に屈せず、リュティの葬儀を国葬として執り行いました。

国民は、リュティが本当にナチスに協力していたのではなく、国を守るためにやむを得ず協力していたことを知っていたのです。

戦後、フィンランドアメリカ主導のマーシャルプランを受け入れず、自力で復興せざるを得ませんでした。

ソ連寄りの資本主義国として、ソ連の動向を常に伺いつつも、フィンランドは冷戦期を非同盟政策を貫くことで生き抜きます。

冷戦後のフィンランド

1991年12月、ソ連が崩壊するとソ連経済に依存していたフィンランドは経済的な混乱に見舞われます。

混乱から立ち直ったフィンランドは、経済を立て直すため、1995年に隣国スウェーデンとともにEUヨーロッパ連合)の前身であるEC(ヨーロッパ共同体)に加盟。

名実ともに、西側の国として歩みだします。

さらに、IT技術で経済力を伸ばすことにも成功しました。

しかし、ロシア連邦との関係を考慮してか、軍事同盟であるNATOには加盟していません。

一方、ロシアは2000年以降、プーチン政権下で国力を回復し、2008年にジョージアグルジア)、2022年にウクライナに侵攻するなど、軍事的脅威として存在し続けています。

マンネルヘイムの名言

冬戦争、継続戦争の英雄であるマンネルヘイムは次のような言葉を残しました。

「自らを守りえない小国を援助する国はない。あるとすれば何か野心があるはずだ。」
「大国に頼りきることは大国を敵にするのと同じくらい危険なことだ」

これは、紛争のたびに巻き込まれてきたヨーロッパの小国にとって、自明の理ともいえる考え方です。

ルネサンス期の思想家ニコロ・マキャベリの「武器を持たない預言者は必ず倒され、武器を持つ預言者は志をとげる」という言葉にも通じるように感じます。

まとめ

今回は、フィンランドの歴史についてまとめました。

軍事的超大国を隣に控え、緊張感が絶えない小国の苦悩の歴史が見て取れます。

ロシアの周辺諸国にとって、ロシアは常に軍事的な脅威であり、ウクライナ侵攻はフィンランドジョージアといった隣接国にとって、決して他人事ではありません。

戦争が繰り返されてきたヨーロッパにおいて、自分たちの政治体制や主権守るための戦いは尊重されるべきものでした。

その延長線上にあるのが「民族自決」の考え方です。

フィンランドは「民族自決」を守るため、難敵と戦ったといえるでしょう。

ただ、同時に戦争の引き際についてもウクライナ指導部は真剣に考えていると思われます。

マンネルヘイムは冬戦争を終わらせるとき、戦闘能力が残っているうちに和平交渉をしなければ、完全な屈服が残されるのみだとして不利な条件での講和でも賛成しています。

アメリカと中国という21世紀の大国に挟まれた日本にとって、ウクライナ危機やフィンランドの立場は他人ごとではないように感じます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「光源氏の誕生の登場人物とは?」「光源氏の誕生のあらすじが知りたい」わかりやすく解説!

光源氏の誕生の登場人物について知りたい!」

「敬意の方向について知りたい!」

光源氏の誕生の内容・あらすじを、わかりやすく教えてほしい!」

 

このページをご覧の方は、そのように思っているのかもしれません。「光源氏の誕生」は、紫式部作の『源氏物語』第一話「桐壺」に書かれている光源氏誕生の物語で、12歳くらいまでの時期を扱います。

今回は、『源氏物語』や作者の紫式部源氏物語に登場する人物、天王に仕える女性たちの称号や住まい、敬意の方向などについてまとめます。

◆この記事でわかること◆
・『源氏物語』のだいたいの構成
・「光源氏の誕生」の登場人物と人間関係
・宮中の后妃の称号や后妃が住んだ建物(七殿五舎)
・「光源氏の誕生」の敬意の方向
・「光源氏の誕生」の大まかな意味

 

源氏物語』とは?

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平安女性のイメージ

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源氏物語』は、11世紀はじめに紫式部が著した長編小説で、正しくは「源氏の物語」といいます。全部で54帖にわたる物語は3つに分けられます。

  • 第一部:光源氏の誕生から、光源氏が位人臣を極めるまで
  • 第二部:光源氏の後半生
  • 第三部:匂宮に関連する3帖と宇治十帖

物語りの分け方は諸説ありますが、第一部と第二部は光源氏、第三部は光源氏の子とされるが主人公です。

光源氏のモデルには、有力な皇族系貴族だった源融(みなもとのとおる)や源高明(みなもとのたかあきら)、そして紫式部をスカウトした藤原道長などがあげられます。

作者の紫式部について

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紫式部の像

宇治 紫式部像 - No: 37458|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

紫式部平安時代の中期に活躍した人物で、作家や歌人として宮廷につかえる女房(女官)でした。

藤原道長の娘である彰子が、一条天皇の后になる際に、彼女のお付きの女房として採用され宮中に入りました。源氏物語』の作者として有名ですが、和歌の名手でもあり、『小倉百人一首』に彼女の歌が収録されています。

和歌について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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紫式部日記』は、彼女と同時代に宮中に仕えた著名な女官についての人物評がみられますが、『枕草子』の著者である清少納言に対しては、以下のように評しています。

清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」

「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」

清少納言はわかったような顔をして寛文を書き散らかしているが、よく見れば間違いが多い」「こんな人の行く末に良いことがあろうか、いや、ない」とかなり厳しい評価をしています。

清少納言について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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他の女官、例えば和泉式部赤染衛門などについては、プラスに評価した記述がみられることを考えると、清少納言とは相性が悪かったのかもしれません。

 

光源氏の誕生」(桐壺)の登場人物

光源氏(世に清らなる玉の男皇子)

源氏物語』の主人公で、桐壺帝と桐壺更衣の間に生まれた子です。

桐壺帝には高位の后である弘徽殿女御との間に生まれた第一皇子(のちの朱雀帝)が生まれていたので、光源氏は第二皇子です。

幼いころから輝くばかりの美貌と才能に恵まれましたが、母の身分が低いため次の帝に離れず、臣籍降下しました。

その後、近衛中将から大将、大納言、内大臣などを経て太政大臣や准太上天皇になるなど位人臣を極めます。

光源氏が登場するのは第一話の「桐壺」から第四十話の「幻」までです。

光源氏が誕生した「桐壺」では、”世に清らなる玉の男皇子”、”珍らかなる、児(ちご)の御かたちなり”、”疑ひなき儲の君”などと絶賛されています。

このような素晴らしい子どもだったので、桐壺帝は”この君(光源氏)をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふ事限りなし”といった具合で溺愛します。

帝(桐壺帝)

光源氏の父で、桐壺更衣を寵愛した人物。

理想的な帝王として描かれ、延喜の治を行った醍醐天皇がモデルではないかと言われます。

桐壺帝には、弘徽殿女御をはじめとする位の高い后が仕えていましたが、桐壺更衣ばかりを寵愛したので、後宮の人間関係のバランスが崩れてしまいます。

桐壺更衣の死後、桐壺更衣によく似た藤壺(のちの藤壺中宮)を寵愛します。

更衣(桐壺更衣)

光源氏の母で、桐壺帝に仕えた后の一人。

女御よりも格下の后で、父である按察大納言がすでに死去していたため、後宮に後ろ盾がいない状態でした。

桐壺帝の寵愛を受けるようになると他の后たちの嫉妬を一身に受け、他の后の父などから楊貴妃に例えられ、国を乱す元だという批判も浴びてしまいます。

光源氏が3歳の時、ストレスのためか病となり亡くなってしまいました。

一の皇子の女御(弘徽殿女御)

右大臣の娘で、第一皇子と二人の皇女の母。

後宮で最も力を持っていた女性ですが、桐壺帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、彼女や彼女の子である光源氏を激しく憎みます。

第一皇子が朱雀帝として皇位につくと、弘徽殿大后と呼ばれるようになり、国政にも強い影響力を及ぼしました。

のちに光源氏を須磨に追放しますが、権勢が衰えると光源氏の復帰を防げなくなります。

天皇の后妃たちの称号

天皇の后妃(妻)たちは、大きく分けて4つの称号で呼ばれていました。皇后、中宮、女御、更衣です。それぞれの違いについて解説します。

皇后

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推古天皇

推古天皇 - Wikipedia

皇后とは、天皇の正式な妻で、正妻といってもよい立場で、場合によっては天皇として即位することもありました。

たとえば、敏達天皇の皇后である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、敏達天皇の死後に、皇后として崇峻天皇に即位を命じ、崇峻天皇暗殺後は自ら即位して推古天皇となりました。

また、舒明天皇の皇后だった寶女王(たからのひめみこ)は、皇極天皇斉明天皇に、天武天皇の皇后だった鸕野讚良(うののさらら)は、持統天皇にそれぞれ即位します。

奈良時代まで、皇后は皇族から選ばれていましたが、聖武天皇藤原不比等の娘である光明子を皇后に迎えたことで、皇族以外からも選ばれるようになります。

中宮

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宮中の様子を描いた『紫式部日記』の一場面

藤原彰子 - Wikipedia

中宮は、皇后とほぼ同格とされる称号です。

もともと、後宮には皇后しかいませんでしたが、一条天皇の時代に、すでに皇后として定子がいたにもかかわらず、藤原道長が娘の彰子を、定子と同格の皇后として送り込み、二人の皇后が並立しました(一帝二后)。

以後、先に入った定子が皇后、後に入った彰子を中宮と呼びますが、皇后と中宮の間に身分の差はありません。

定子について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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女御・更衣

天皇の后の称号の一つで、皇后や中宮に次ぐ地位です。

源氏物語の冒頭文で

いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらいける中に」とあるように、女御や更衣には定員がなく、同じ天皇に複数の女御や更衣が仕えていることも多々ありました。

そのため、区別の意味もあったかもしれませんが、女御や更衣は住む殿舎の名でよばれます。

たとえば、弘徽殿に住んでいる女御なら「弘徽殿女御」、桐壺殿に住んでいる更衣なら「桐壺更衣」とよばれました。

女御の下に位置付けられたのが更衣です。

更衣の子は、女御の子よりも格下として扱われ、臣籍降下の対象となりました。

光源氏は、桐壺更衣の子なので皇位継承の順位は低く、源姓を与えられ臣籍降下しました。

ちなみに、臣籍降下とは、皇族が皇籍を離れ一般臣下になることで、基本的に皇位継承権はありません。

皇位継承権を得るには、皇族に復帰する必要があります。

 

天皇に仕える女性たちが住んだ局(建物)

天皇につかる女性たちは後宮に局を与えられました。与えられた建物により、その女性のランクが暗示されます。

ここでは、天皇の住まいである後宮にある七殿五舎や、『源氏物語』によく出てくる弘徽殿と飛香舎(藤壺)、淑景舎(桐壺)について解説します。

七殿五舎

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七殿五舎

七殿五舎 - Wikipedia

天皇の住む場所は、内裏の紫宸殿の後方にあり、後宮とよばれます。後宮の建物をまとめて呼ぶときにつかうのが七殿五舎です。

弘徽殿をはじめとする七殿がつくたてものは、内裏が創建された当時からあったとされ、飛香舎などの五舎よりも格上とされます。

弘徽殿

天皇が寝起きする清涼殿の北に位置し、七殿の中でも最も格上とされた建物です。

光源氏の誕生」で登場する弘徽殿女御は、桐壺帝の后の中でも最も格上の女性で、朱雀天皇の母となってからは弘徽殿大后となり、強い権勢をふるいました。

飛香舎(藤壺

庭に藤が植えられていたことから、藤壺の異名を持つ建物です。

はじめは、七殿より格下の建物でしたが、清涼殿に近いことから中宮や女御といった高貴な女性の住まいとされました。

物語りの途中で登場する「藤壺中宮」は、藤壺に住んでいたためそのようによばれました。

藤壺中宮は、桐壺更衣とそっくりの容姿だったため桐壺帝の寵愛を受けます。

しかし、藤壺が病で里下がりした際に、理想の女性として慕う光源氏と関係を持ち、男子を出産。何も知らない桐壺帝は「瑕なき玉」として男子を溺愛します。

桐壺帝の死後、光源氏からの求愛をかわし切れなくなった藤壺は出家してしまいます。

淑景舎(桐壺)

桐壺は、天皇が住まう清涼殿から最も遠く離れた建物です。

普段は、后妃が住むためというより摂政が宿直する場所として用いられました。

天皇からお呼びがかかると、后たちは住んでいる建物から清涼殿に向かわねばなりません。

しかし、桐壺から清涼殿までの途中で桐壺更衣は嫌がらせを受けます。

具体的には、渡り廊下に汚物をまき散らされ、着物を汚し天皇のところに行けないようにすることや、渡り廊下を歩いているときに前後の戸を閉めて閉じ込められるなどsれます。

どちらも、非常に陰湿なものですが、裏を返せばそれだけ桐壺帝の寵愛が強く、他の女性の嫉妬を買っていたともいえます。

桐壺更衣は、こうした心理的な圧迫もあってか、光源氏が3歳の時に亡くなってしまいました。

敬意の方向

敬意の方向を考えるとき、誰から誰への敬意なのかが重要です。これを、敬意の方向といいます。

 

「誰から」

・地の文なら作者から

・会話文なら、言葉を発している人(話し手)から

「誰へ」

・尊敬語なら動作主

・謙譲語なら動作の受け手

・丁寧語なら聞き手・読み手

 

これが基本となります。

源氏物語』において、筆者である紫式部は、自分より身分が上の人物に対し敬語を使います。

 

例)この御子生まれ給ひて後は

生まれ給ひ:生まれたのは御子、生まれたということに対し、筆者の紫式部は敬意をこめて、”生まれ給ひ”(お生まれになった)と書きました。

この場合、敬意の方向は筆者から御子へとなります。

 

紫式部の書く”地の文”は、ドラマのナレーションのようなもので、読み手である私たちに対し、状況を説明する文章です。その中でも、物語に登場する高貴な人々に対して、敬意を示し続けます。

 

基本、地の文では「筆者」から「登場人物」への敬意が示されると覚えてよいでしょう。さらに、登場人物たちは、自分よりも偉い人に敬意を示すことも併せて理解しておきましょう。

また、天皇は登場人物全てと筆者から敬意を向けられる対象ですので、併せて覚えておきましょう。 

光源氏の誕生」の意訳

光源氏の誕生は、基本的に作者である紫式部によるナレーションです。

これから始まる『源氏物語』がどのようなお話なのか、ドラマのオープニング部分で語っているものです。

いづれの御時にか」の意訳

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。

 

いつの天皇の時代であったか、(天皇に仕える)数多の女御や更衣の中に、それほど高貴な血筋ではないが、とても帝の寵愛を受けた女性がいました。

 

はじめより我はと思ひ上がり給へる御方方、めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。

 

宮中に仕えるようになってから”自分こそは(帝の寵愛を受ける!)とお思いになっている方々は、寵愛を受けた女性を”気に入らない!”と妬みなさり、女御よりも身分が低く(したがって、チャンスが少ない)更衣たちは猶更、心安らかではありませんでした。

 

朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに 里がちなるを、

 

朝夕、宮中での宮仕えをしていた中で、その女性の行動が人の心を動揺させ、恨みを募らせてしまったのでしょうか、(恨まれている女性=桐壺更衣)は、とても病気がちになり、なんとなく心細い様子で実家に帰っていました。

 

いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

 

その様子を見た桐壺帝が、ますます気の毒にお思いになって、(桐壺更衣を)周りの人がそしる(悪く言う)のも憚られず、世間の語り草になるに違いないほどの御もてなし(厚遇・寵愛ぶり)をしていらっしゃいました。

 

上達部、上人なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。

 

上達部(三位以上の上級貴族)などは、(桐壺帝の様子を)”感心しないことだ”と思い、目を背けていましたが、見ていられないほどの寵愛ぶりでした。

 

唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、

 

”中国でも、このようなこと(皇帝が特定の女性を寵愛すること)があって、世の中が乱れたのだ”などと、世間の人々の間でも苦々しいことだと、人々の悩みの種になり、楊貴妃の例を引き合いに出されかねないほどとなり

 

唐の玄宗皇帝は、楊貴妃を寵愛するあまり国政を顧みなくなりました。
そして、世の中が乱れ、安史の乱へとつながったとされてきました。 宮中の人々は、帝の寵愛を受けすぎる桐壺更衣を楊貴妃に見立てて批判したのです。
 
いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひ給ふ。
 
桐壺更衣は、”大変きまりが悪い”と思うことが多かったですが、桐壺帝の類を見ないほど強い愛情を頼りに、宮仕えをしていました。
 
父の大納言は亡くなりて、母北の方 なむ古の人の由あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ華やかなる御方々にもいたう劣らず、
 
桐壺更衣の乳である大納言はすでに亡くなっていました。母親の北の方は昔風の人で由緒ある家柄です。そのため、両親ともそろっていて、今のところ世間の評判となっている女御や更衣と比べても劣っておらず、
 
なにごとの儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後ろ見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
 
どのような儀式でも、他の女御や更衣と比べて引けを取らずに執り行うことはできましたが、後見人となる人がいないので、何かあった時のよりどころがなく、心細いご様子でした。
 
平安時代の宮中で重要なのは「後ろ見」、すなわち実家の後見人でした。
宮中で何かあった時に頼れるのは実家です。しかし、父を亡くした桐壺更衣は後ろ盾がない状態であり、非常に不安定な立場でした。
 

「前の世にも御契りや」の意訳

前の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男御子さへ生まれ給ひぬ。
いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる稚児の御容貌なり。
 
桐壺帝と桐壺更衣は、前世からの御縁が深かったのでしょうか。世にまたとないほど清らかな玉のような皇子がお生まれになりました。
桐壺帝は”早く見たい”と待ち遠しくお思いだったので、急いで皇子を参上させ、皇子の顔を見るとめったにないほどの(すばらしい)お顔立ちの皇子でした。
 
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲の君と、世にもてかしづき聞こゆれど、
この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、
この君をば、私物に思ほしかしづき給ふこと限りなし。
 
右大臣の女御(弘徽殿女御)との間に生まれた第一皇子は、後ろ盾がしっかりしていて疑いなく皇太子となると世の中の人もみなしていましたが、
この新たに生まれた第二皇子の美しさには較べようがなく、第一皇子への接し方は普通に大切になさる程度でしたが、
この君(第二皇子)は、桐壺帝が自分の大切な子としてお育てになりました。
 
はじめよりおしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき。
 
桐壺更衣は、当初は、ありきたりの帝のおそば勤めをなさらなければならない身分ではありませんでした。
 
おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参上らせ給ふ、
 
世間の評判は並大抵のものではなく、桐壺帝が分別なく常に桐壺更衣を管弦の遊びや趣のある催しの際にも(桐壺更衣より身分が高い女御を差し置いて)真っ先に参上させ、
 
ある時には大殿籠り過ぐして、やがて候はせ給ひなど、あながちに御前去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、
 
あるときには帝は桐壺更衣といっしょにお休みになられ、寝過ごされたときもそのままおそばに仕えさせるなど、強引にそばから離れないよう扱っているうちに、自ずと身分が低いようにも見えていましたが
 
天皇の后妃はそれぞれ、殿舎(局)を与えれ、独立した生活をしていました。しかし、桐壺帝が寵愛のあまり、桐壺更衣を常に自分のそばに置いてしまったことで、女御や更衣といった后妃よりも身分が低い一般の女房のように見えてしまっていました。最初は身分が低く見えなかったものが、あとから身分が低く見えてしまうと紫式部が書いたのは、そのためです。
 

この御子生まれ給ひて後は、いと心異に思ほしおきてたれば、坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめりと、一の皇子の女御は思し疑へり。

 

第二皇子が生まれてからは、帝は桐壺更衣を格別に心がけるようお決めになり、そのように扱ったので、第一皇子の母=弘徽殿女御は”帝は第二皇子を皇太子にするのではないか”とお疑いになりました。

 

人よりさきに参り給ひて、やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞなほわづらはしう、心苦しう思ひきこえさせ給ひける。

 

弘徽殿女御は、誰よりも先に桐壺帝に入内していて、帝が弘徽殿女御を大切に思う気持ちは並大抵ではなく、第一皇子だけではなく、皇女も生まれていたので、帝も弘徽殿女御の忠告だけははばかられ、つらくお思いになっていました。

 

かしこき御蔭をば頼み聞こえながら、おとしめ疵を求め給ふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。御局は桐壺なり。

 
桐壺更衣は、桐壺帝の寵愛だけを頼みとしてきましたが、桐壺更衣をおとしめ、落ち度を探す人が多い有様でした。桐壺更衣は体が弱く、寵愛を受けたためによくない思いをなさっていました。この更衣の住む局が桐壺です。

まとめ

◆この記事のまとめ◆
・『源氏物語』は三部構成
・「光源氏の誕生」の登場人物は桐壺帝、桐壺更衣、第一皇子の母(弘徽殿女御)
・「光源氏の誕生」の敬意の方向は、誰から誰への敬意かに注目
・桐壺帝は桐壺更衣と光源氏を寵愛したが、後ろ盾がない桐壺更衣の立場は不安定

今回は紫式部が書いた『源氏物語』の冒頭文である「桐壺」を紹介しました。桐壺の前半部分は光源氏誕生について、後半は宮中での桐壺更衣の立場について書かれています。

女性社会である宮中ならではの人間関係の複雑さや、皇位継承をめぐる周囲の人々の思惑などが絡み、桐壺更衣はストレスで病がちになっていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「千秋庵総本家と千秋庵製菓は違うの?」「六花亭と千秋庵は関係ある?」「山親父やノースマンはどこのお菓子?」わかりやすく解説します!

「北海道にある千秋庵ってどんなお菓子屋さん?」

「千秋庵と千秋庵総本家の違いとは?」

「千秋庵と六花亭って関係があるの?」

 

このページをご覧の方は、そのような疑問を持っているかもしれません。

北海道で千秋庵といえば、札幌に本店を置く菓子メーカー「千秋庵製菓」のことをさします。

ノースマンや山親父といった菓子で有名なメーカーで、北海道ではローカルCMが流れていたため、知っている人が多いかもしれません。

千秋庵総本家は、函館で創業した千秋庵の大元になる菓子屋をルーツとしています。

また、六花亭は札幌千秋庵から暖簾分けされた帯広千秋庵がもとになっていますが、1977年に千秋庵の暖簾を返上して、六花亭製菓となりました。

今回は、札幌の千秋庵製菓や函館にある千秋庵総本家、帯広に本社を構える六花亭製菓について紹介します。

北海道の食べ物・飲み物について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

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千秋庵製菓(札幌千秋庵)とは

千秋庵製菓(札幌千秋庵)は、札幌市に本社を置く老舗菓子メーカーです。

創業は1921年(大正10年)で、駅前通りと狸小路が交差する現在の場所に店舗を構えました。

1930年(昭和5年)に店舗を新築した際、それを記念して「山親父」と「原始林」を発売しました。

「山親父」は、初期の千秋庵製菓を代表する菓子で、戦後には道内向けテレビCMで知名度を高めます。

スキー板を履いたクマが鮭を背負う姿をレリーフにしたせんべいで、道民になじみのものです。

牛乳とバターで作ったシンプルな煎餅です。

山親父と聞くと、つい、CMソングを思い出す方も多いようです。ちなみに、山親父のCMは1960年(昭和35年)から放映されたものだそうです。

1950年(昭和25年)、札幌千秋庵は株式会社になりました。このころ発売されたのが小熊のプーチャンバターです。

砂糖、水あめ、バターというシンプルな原料でつくられたバター飴で、放送がとても可愛らしい一品です。

やさしい味わいの飴で、あまりベタベタしないのが特徴です。

やはり、缶や包装の可愛らしさが人気のようです。

1974年(昭和49年)に発売されたのが千秋庵製菓の看板ともいえるノースマンです。

北海道産小豆をパイで包み、甘さを抑えた味で飽きが来ない銘品です。パイというとサクサクというイメージを持つかもしれませんが、ノースマンはしっとりとした口当たりが特徴。

横浜中華街で売られていた「パイまんじゅう」にヒントを得て作られたそうです。パイ生地の温度管理は非常に重要で、今でも腐心しているといいます。

おはようございます☀️

ノースマンはかぼちゃ餡や季節限定の餡などもありますので、北海道旅行の際は、千秋庵の店舗を見てみてはいかがでしょうか。

そして、最近知ったのが「焼きたてのノースマン」。これは、まだ食べたことがないので、札幌に行った際は食べてみたいなと考えています。

そして、2021年9月5日に千秋庵製菓は創業100年を迎えました。

千秋庵の歴史

1860年秋田藩佐々木吉兵衛箱館で菓子店を創業しました。佐々木は故郷の秋田をしのんで千秋庵という屋号をつけたとされます。その後、千秋庵は暖簾分けにより全道に拡大しました。

札幌にある千秋庵製菓は小樽千秋庵から暖簾分けしてできました。また、全国的にも有名な六花亭も千秋庵の流れをくむ菓子メーカーです。  

千秋庵総本家

三代目佐々木吉兵衛は、東京から松田咲太郎を招き四代目を継がせました。

四代目となった松田は、元祖山親父の製法を編み出し、各地の千秋庵に伝えたといいます。

函館では大正時代の末期からどら焼きをつくり始めました。函館を含む道南産の大納言小豆を三日間かけて練り上げ、丁寧な粒あんに仕上げます。そして、その餡を生地で包んで蒸し焼きにしました。

このどら焼きは、今でも千秋庵総本家の看板商品として函館市民に親しまれています。

伝統的な和菓子だけではなく、新商品も開発しています。

2016年(平成28年)に、北海道新幹線の函館開通を記念してつくられた函館散歩は、口当たりの良いカステラ饅頭です。

最近は、小豆餡だけではなく、ミルク餡の函館散歩も発売されています。

どら焼きや函館散歩以外のお菓子に興味がある方は、千秋庵総本家の楽天用サイトもご覧ください。 

六花亭

1933年(昭和8年)、札幌千秋庵から暖簾分けされた帯広千秋庵が開店しました。

戦時中は工場疎開により休業を余儀なくされましたが、1946年(昭和21年)に営業を再開します。

1952年(昭和27年)、帯広市から市制施行20周年の記念菓子製造依頼があり、「ひとつ鍋」を開発します。

1967年(昭和42年)に社長の小田豊太郎が渡欧した際に、チョコレートが流行しているのを見て日本でもはやると確信。帰国後に試行錯誤を重ね、ホワイトチョコレートの発売にこぎつけました。

ホワイトチョコレートは1930年代にスイスのネスレ社が製品化し、1950年代半ばには欧米各国に広まっていました。日本では帯広千秋庵(後の六花亭)が初めて開発に成功します。

ツイートにもあるように、上品で飽きがこない甘さが人気の秘訣です。

ホワイトチョコレートを他社でも販売するようになると、帯広千秋庵は販路の拡大を模索します。しかし、札幌千秋庵との競合などを考慮した結果、1977年(昭和52年)に千秋庵の暖簾を返上。六花亭製菓となりました。

六花亭となってから大ブレイクしたのが看板商品となるマルセイバターサンドです。

マルセイバターサンドのおいしさのひみつは、ホワイトチョコレートの濃厚な味わいにあります。名前の通り、バターを溶かしこんだような味わいは他では味わえないものでしょう。

贈答品におすすめなのがお菓子の詰め合わせの十勝日誌。

見た目が本になっていて、非常に美しく、食べ終わった後はいろいろなものを詰める箱として使われているのをよく見かけます。

はじめてもらった人は、「どれだけお菓子が入ってるの?」とびっくりする十勝日誌。お世話になった方へのお歳暮やふるさと納税の返礼品として利用してはいかがでしょうか。 

まとめ

今回は、箱館にはじまる千秋庵の歴史をまとめました。

札幌でしっかり根付き、北海道銘菓の代名詞となったノースマンや、函館で磨かれたどら焼き、六花亭ホワイトチョコレートなど、千秋庵は北海道のお菓子の歴史を語るうえで欠かせない存在です。

北海道物産展や北海道観光、インターネットで販売されているのを見かけたら、ご購入されることをお勧めします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

「松方財政って何?」「どんな内容?」「松方デフレって何?」わかりやすく解説します!

「松方財政とは?」

松方正義ってどんな人?」

「松方デフレって何?」

 

このページをご覧の方は、そのような疑問を持っているかもしれません。

松方財政とは、1880年代前半に実施された松方正義大蔵卿(大蔵大臣)がおこなった財政政策のことです。

主な内容は紙幣整理や日本銀行の設立、銀兌換制の確立、官営事業払下げ政策などです。

松方財政後、松方デフレとよばれる現象が発生しました。

その結果、自作農が没落したとされます。

 

今回は、松方正義がどんな人物か、松方財政が行われた理由、松方財政の内容、松方財政の結果おきた松方デフレなどについてまとめます。

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財政政策

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松方正義のプロフィール

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松方正義

松方正義 - Wikipedia

松方正義は1835年(天保6年)に薩摩藩(今の鹿児島県)に生まれました。1850年嘉永3年)から藩の勘定所に出仕し、7年間務めます。その間、働きぶりが認められ130両の報奨金をもらったこともありました。

幕末の金1両は現代の4千円から1万円ほどと換算されるので、おおざっぱに見積もって彼がもらった報奨金は約100万円。若いころから、勘定(経理)に関する才能を持っていたことがわかります。

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松方を重用した島津久光

島津久光 - Wikipedia

明治維新の直前、松方は藩の指導者である島津久光に重用され、藩の政策立案に関わりました。

明治維新後、松方は日田県の知事に就任し、別府温泉の基盤を作りました。

東京に転勤後、大蔵官僚として昇進し、内務卿大久保利通のもとで地租改正などに携わります。

ところが、1877年(明治10年)に大蔵卿大隈重信と対立。

伊藤博文の機転で大蔵省から内務省に転任し、1877年から翌年にかけてヨーロッパに留学しました。

1881年明治14年)、大隈重信が明治十四年の政変で失脚すると、後任として大蔵卿に就任し、松方財政をスタートさせました。1885年(明治18年)の第一次伊藤内閣では初代大蔵大臣をつとめ、1892年(明治25年)まで大蔵大臣として財政を担当しました。

1891年(明治24年)と1896年(明治29年)に内閣総理大臣を務め、退任後は元老として国政に関与します。

松方のように、総理大臣と大蔵大臣を歴任した政治家には高橋是清がいます。

高橋是清がおこなった高橋財政について興味がある方は、こちらの記事もどうぞ。

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そして、1924年大正13年)に亡くなりました。享年90歳。

東京三田にあった自宅で国葬が営まれ、青山霊園に葬られました。

なぜ、松方財政をしなければいけなかったか

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インフレのイメージ

インフレ インフレーション イメージ - No: 22720754|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

なぜ松方財政が必要だったのでしょうか。その理由はインフレーション(以下、インフレ)が発生して政府が財政難に陥っていたからです。

では、なぜインフレが発生してしまったのでしょうか。インフレの原因は大蔵卿大隈重信が行っていた積極財政で市中に大量の紙幣が出回っていたからです。

大隈は産業を育成する殖産興業政策を進めるため、積極的に紙幣を発行しました。

さらに1877年(明治10年)に西南戦争が勃発。

戦費が必要となった政府は、大隈が紙幣を大量に発行させるのを止めませんでした。

すると、大量に印刷されたお札の価値が下がり、モノの値段が上がってしまうインフレが発生しました。

地租改正で、税を「現金」で納めさせていた政府は、インフレのせいで収入が激減し、財政難となってしまいます。

そのかわり、大いに儲けたのが「現物」を持っていた農民たちでした。

インフレが行き過ぎると、紙幣が紙くず同然となるハイパーインフレが発生する可能性すらあります。

ハイパーインフレについては、こちらの記事をどうぞ

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松方は、行き過ぎたインフレを止め、政府の財政難を改善しなければなりませんでした。

松方財政の内容を紹介

松方は、インフレを抑えるために市中の紙幣を回収します。

そして、紙幣がちょうどよいところまで減ったところで、紙幣の価値を保障する銀本位制を導入しました。

そのために、松方がおこなった具体的な政策を見てみましょう。

増税と歳出削減による紙幣整理

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増税のイメージ

増税に苦しむ - No: 22924452|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

松方は、世の中に出回っているお金を減らすため、様々な名目で税金を増やしました

その一方、政府の支出(歳出)は大幅に削減します。

そうすると、

増税で回収した紙幣」>「歳出で出ていく紙幣」

となります。

余った紙幣を、松方は処分させ流通しないようにしました

このようにして、世の中の紙幣を減らすことを紙幣整理といいます。

松方の紙幣整理により、徐々に世の中から紙幣が減っていきました。

明治時代に限らず、日本の税制について知りたい方はこちらの記事もどうぞ。

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官営工場の払い下げ

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富岡製糸場

富岡製糸場と絹産業遺産群 - Wikipedia

次に、松方は出費のもととなっていた官営工場をどんどん民間に払い下げます

たとえば、政府が各地に持っていた鉱山は、古河市兵衛岩崎弥太郎の三菱に、富岡製糸場は三井にといった具合で、払下げを実行します。

これにより、政府の支出削減に成功しました。

その一方で、払い下げを受けた民間企業は急成長のチャンスを得ます。

ちなみに、富岡製糸場は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の名で2014年に世界遺産に登録されました。

日本銀行の設立

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日本銀行本店

日本銀行 - Wikipedia

紙幣の量を減らした松方は、いよいよ、中央銀行設立に動き出します。

1882年(明治15年)、松方の建議により中央銀行である日本銀行が設立されました。

当初は、混乱する貨幣制度の改革をすすめる役割を担っていましたが、国庫金の取り扱いなど業務が拡大していきました。

現在、日本銀行には政府の銀行銀行の銀行発券銀行の役割があるとされ、日本の金融の中心にあり続けています。

兌換紙幣の発行

日本銀行設立を果たした松方にとって、最後の課題となったのは兌換紙幣の発行でした。

紙幣には、金や銀(正貨)で価値が保証された兌換紙幣と、政府や中央銀行が価値を保障する不換紙幣があります。

正貨をあまり持っていなかった日本政府は兌換紙幣ではなく、不換紙幣を大量に発行していました。

しかし、不換紙幣は発行しすぎると紙幣の価値を下落させ、インフレの原因になってしまいます。

そこで、松方は金や銀の保有量しか発行できない兌換紙幣に切り替えることで、紙幣の価値を安定化しようとしました。

そのために、松方は増税や歳出削減などと同時並行で正貨の保有量を増やしていました

1885年(明治18年)、一定量の銀を確保した松方は銀と交換可能な日本銀行券(兌換紙幣)の発行に踏み切ります。

ここに、銀を中心とする銀本位制が確立し、紙幣価値は安定。

西南戦争以来のインフレが終息しました。 

松方財政の結果(松方デフレ)

松方財政はインフレを終息させましたが、その一方で副作用ともいえるデフレーション(デフレ)が発生しました。

デフレーションとは

デフレーションとは、貨幣の価値が高くなり、物の価値が下がる現象のことです。

1個100円のリンゴが、200円となれば、物の価値が上がったことになります。これがインフレです。

一方、1個100円のリンゴが、50円となれば、物の価値が下がったことになります。これが、デフレです。

インフレのとき、1,000円手に入れたければ、リンゴを5個売ればよかったのですが、デフレの時なら、リンゴを20個売らないと1,000を手に入れることができません。

このように、デフレになると物をたくさん売らないとお金を手に入りにくくなるのです。

一方、政府は紙幣の価値が上がることで事実上税収がアップし、財政難が和らぎました。

松方デフレによる自作農の没落

デフレで困ったのは農民たちでした。

インフレの時は、作物を少し売っただけで十分に地租を支払うことができました。

しかし、デフレになるとたくさん売らなければ地租を払えません

その上、松方は増税をしていたため、農民たちはますます税の支払いに苦しみます

すると、税を支払えなくなった自作農は土地を地主などに売り、自分は売った土地で農業労働者として働きました

地主の土地ではたらく農業労働者を小作農といいます。

また、自作農の土地を買い集め、自らは農業をせず経営者として利益を得るようになった地主を寄生地主といいます。

こうして、戦前日本の農村でよく見られた寄生地主制の基盤が出来上がりました

以後、敗戦後の農地改革まで、寄生地主は農村経済を支配する存在となります。

また、多額の借金を抱えた農民たちは各地の民権運動に参加し、自由民権運動を過激化させました。

まとめ

今回は、松方財政についてまとめました。

1880年代前半に行われた松方財政は、日本の紙幣の価値を安定化させ、日本の近代化に大いに貢献したとされます。

しかし、松方の政策は急激なデフレを招き、農民たちの中には税を払えずに土地を売るものが続出し、小作農が急増しました。

寄生地主小作人という貧富の差が大きい戦前の農村社会の基盤が作られたといってよいでしょう。

 

「黄巾の乱ってどんな反乱?」「黄巾の乱と紅巾の乱の違いとは?」「曹操や劉備は黄巾の乱の時どうしていた?」わかりやすく解説!

黄巾の乱ってどんな反乱?」

黄巾の乱の”蒼天已死 黄天當立”の意味とは?」

黄巾の乱と紅巾の乱の違いとは?」

 

このページをご覧の皆さんは、そのような疑問を持っているかもしれません。

黄巾の乱とは、西暦184年に太平道の教祖である張角が起こした反乱です。

張角の反乱を知った後漢王朝は何進を大将軍に任命し、盧植皇甫嵩朱儁といった将軍たちに反乱を鎮圧させました。

黄巾の乱後漢王朝の衰退を招き、三国時代に至る戦乱の幕開けともなります。

今回は、黄巾の乱の内容や原因、スローガン、張角の人物像、太平道の内容、黄巾の乱の経過、よくある質問、黄巾の乱を扱ったドラマや本、グッズなどを紹介します。

黄巾の乱を含む物語としての三国志を描いたのが横山光輝の『三国志』です。

しかし、この漫画は全60巻あるので大人買いをしてもなかなか読み切れません。

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黄巾の乱とは?

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黄巾の乱関係地図
出典:wikipedia黄巾の乱」Map showing the Yellow Turban Rebellion in Eastern Han Dynasty of China.
©SY(クリエイティブ・コモンズ【表示4.0国際】)

後漢王朝の末期にあたる西暦184年、太平道の教祖である張角後漢王朝に対し反乱を起こしました。

目印として頭に黄色い頭巾をかぶったことから黄巾の乱の名がつきました。

都の洛陽で同志が捕らえられたことを知った張角は、河北省南部の広宗で挙兵。

張角に呼応する勢力が黄河の中下流域を中心に挙兵したため、黄巾の乱後漢の各地に拡大しました。

しかし、準備不足の挙兵だったため官軍の反撃を許し、黄巾軍は各地で敗退。

黄巾の乱は1年ほどで鎮圧されました。

なぜ、黄巾の乱は起きた?

黄巾の乱がおきた理由は大きく分けて2つあります。自然災害による困窮と中央政界の乱れです。

自然災害で民衆が困窮していたから

後漢の末期は天候不順が相次いでいた時代です。

後漢の歴史をまとめた『後漢書』によると、1世紀末から洪水や干ばつ、飛蝗(蝗による食害)などが慢性的に発生していました。

自然災害は一部の地域に限らず、後漢領土の半分以上に達しています。

 

後漢王朝はこうした自然災害に対し、食料の供出などを行いましたが、災害の続発により備蓄が底を尽きてしまいます。

また、西暦181年におきたニュージーランド北島のタウポ火山の噴火が、東アジア地域の冷夏や凶作の一因となり、日本の「倭国大乱」や中国の黄巾の乱を引き起こした可能性が指摘されています。

中央政界が乱れていたから

黄巾の乱のもう一つの理由は中央政界の乱れです。

桓帝(位146-167)・霊帝(位168-189)の時代には官僚と宦官による勢力争いが繰り広げられました。

そして、166年と169年に党錮の禁とよばれる事件がおき、宦官が官僚に勝利しました。

中央政府の高官は、自然災害の発生などで農民が苦しんでいる状況を知りながら、権力闘争に明け暮れていたのです。  

黄巾の乱を起こした張角

張角黄巾の乱の首謀者です。

三国志』の最初に語られる黄巾の乱は、彼や彼が広めた太平道の信徒たちが起こした反乱でした。

張角のプロフィール

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張角

張角 - Wikipedia

張角冀州鉅鹿郡(現在の河北省刑台市周辺)の人です。

正史『三国志』によれば、信者たちに罪を懺悔させたり、符水を飲ませて病をいやしたため、人々の信仰を集めたといいます。

小説『三国志演義』では、張角が薬草を取りに山に入ったところ南華老仙という人物から『太平要術』の書を与えられ、風雨を呼ぶ能力を身につけたとされます。

いずれにしても、何らかの力で人々を魅了し、ひとかどの宗教結社を作り上げたことは間違いないようです。

黄巾の乱を起こしたとき、張角は自ら”天公将軍”を名乗りました。

反乱を起こしてしばらくすると、張角は本拠地とした広宗で病死。

官軍は張角の棺を暴き、斬首した首を洛陽で木につるし見せしめとしました。

張角が創始した太平道

太平道とは、張角が広めた新興宗教のことで、後漢末期に華北の農民の間で急速に広まりました。

教祖である張角は自ら”大賢良師”と名乗ります。

 

張角は、病人に対し、自分の罪を悔い改めさせたうえで符水を飲ませ、呪術を行って患者を治癒しました。

太平道には善行の積み重ねが長寿につながるという思想があり、それに従った治癒行為をしたといえます。

こうした活動により太平道の信者は10数年間で数十万人に膨れ上がります。

 

太平道が広がった背景には、自然災害による天候不順が原因の食糧不足や有効な策を討てない後漢王朝に対する失望感があったのでしょう。

 

張角は主だった弟子8人を各地に派遣し、信徒団体である「方」を組織させました。

つくられた方の数は36で、大方が1万人、小方でも6~7,000人で構成されていたので、少なく見積もっても30万人前後の信者がいたと考えられます。

 

黄巾の乱そのものは1年ほどで終結し、教団としての太平道は消滅しますが、青州を中心に生き残った残党が抵抗を続けます。

彼ら黄巾党の生き残りは曹操に降伏し、曹操軍の精鋭部隊として活躍しました。

黄巾の乱の経過と結果

反乱の拡大

184年、張角の腹心である馬元義が部下の密告によりとらえられ、洛陽で処刑されました。

馬元義の任務は洛陽襲撃の下準備です。

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霊帝

霊帝 (漢) - Wikipedia

事態を重く見た皇帝の霊帝は、宮中や洛陽の都にいた張角のシンパを誅殺し、張角の逮捕を命じます。

計画がバレたと考えた張角は急いで挙兵し、黄巾の乱がはじまりました。

張角は自らを”天公将軍”、弟の張宝を”地公将軍”、もう一人の弟である張梁を”人公将軍”と名乗らせました。

張角の教えに心服する太平道の信者は黄色の頭巾をかぶって挙兵し、各地の役所を襲撃しました。

官軍の反撃と反乱の終息

先手を打たれた官軍でしたが、大将軍何進を中心に体制を整えます。

豫州・潁川方面では、皇甫嵩朱儁曹操の援軍と共に黄巾軍の波才を撃破しました。

豫州を平定した朱儁荊州方面に転進し、南陽に立てこもる黄巾軍に勝利します。

一方、官軍の主力を率いた盧植は黄巾軍相手に連勝を重ねていましたが、讒言により司令官の職を解かれます。

かわって赴任した董卓は黄巾軍に敗れてしまいました。

そのため、豫州で勝利した皇甫嵩が河北に転進し、奇襲で広宗を陥落させ、張角の棺を暴き、首を洛陽に持ち帰ります。

連戦の中、張宝張梁ともに討ち取られ、指揮系統が寸断された黄巾軍は瓦解。

反乱は1年余で収束しました。

黄巾の乱にまつわるよくある質問

黄巾の乱と紅巾の乱の違いとは?

黄巾の乱太平道の教祖である張角が、後漢王朝に対して起こした反乱でした。

では、紅巾の乱はどうなのでしょうか。

紅巾の乱は、1351年に白蓮教の教祖である韓山童が、元王朝に対して起こした反乱です。

どちらも農民反乱であることや宗教結社が絡んでいること、反乱が失敗したことは共通していますし、後漢にせよ、元にせよ、反乱後に衰退している点も共通しています。

反乱軍が紅の頭巾をかぶっていたことから紅巾の乱と呼ばれるようになりました。

紅巾の乱後にできた明の時代について知りたい方はこちらの記事もどうぞ

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黄巾の乱曹操劉備はどうしていた?

官軍の部将として戦った曹操

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曹操

曹操 - Wikipedia

曹操後漢末期の武将で、のちに華北を制圧し魏王朝の基礎を築きました。

黄巾の乱のときは騎都尉に任じられ、潁川方面の黄巾軍と戦い勝利します。

黄巾の乱後、済南国の相に任じられ汚職管理を罷免するなど、官僚として辣腕を振るいました。

188年には西園八校尉に任じられ都に常駐するようになります。

 

曹操について、個人的におすすめしたいマンガが『蒼天航路』です。

もともと、『モーニング』で連載されていたマンガですが、曹操や彼を盛り立てた重臣たちの様子が生き生きと描かれており、曹操版の三国志演義といった感じです。

斬新な切り口でとても楽しめました。

アニメにもなっているので、ぜひ、読んだり、見たりしてください!

義勇軍を結成した劉備

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劉備

劉備 - Wikipedia

劉備後漢末期に登場した武将で、関羽張飛と義兄弟の契りを交わした「桃園の誓い」で有名です。

桃園の誓いは『三国志演技』のフィクションだといわれますが、関羽張飛とのきずなは偽りなかったようです。

黄巾の乱のとき、劉備義勇軍を結成。

都尉の鄒靖にしたがって功績をたて、安熹県の尉に任命されました。

しかし、都から派遣されてきた監察官から面会を拒否されたことに腹をたて、監察官の宿舎に乗り込み、彼を縛り上げて杖で200叩いた後で印綬を返還し官を辞しました。

三国志演義』では、温厚な君子として描かれますが、正史『三国志』では、気性が荒い一面も記録されています。

蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」の意味とは?

黄巾の乱といえば、「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」。

このスローガンがよく出てきます。

蒼天を漢王朝、黄天を黄巾の人々と読み、漢が滅んで私たち黄巾が挙兵した。今年は甲子で、天下大吉であるという解釈をよく見かけます。

もちろん、この解釈自体は非常によく理解できるのですが、最近、別の解釈を見ました。

三国志を研究している早稲田大学教授の渡邉義浩氏は、蒼天は儒教における天の具現化である昊天上帝とし、黄天を儒教以前の神である黄帝ではないかと主張しています。

陰陽五行説とはかかわりなく、儒教を重視する漢王朝とそれを倒そうとする黄巾勢力という見立ては、あながち間違えていないかもしれません。

黄巾の乱を扱ったドラマ、本など

横山光輝三国志

三国志』といえば、横山光輝の『三国志』を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

1971年から1987年まで連載された横山光輝の代表作です。

吉川英治の『三国志』をベースに、横山の解説が織り込まれ、非常にファンが多い作品です。

全60巻という大著のため、なかなか手が出ない人も多いでしょう。

三国志 黄巾の乱

黄巾の乱を描いたドラマはないのだろうか」と思い探していた時に出会ったDVDです。

太平道を悪用する張角と、彼を討伐する曹操という内容でかなりフィクションが入っていますが、とても楽しめました。

史実を知るというより、黄巾の乱を題材にしたファンタジー映画という感じでしたね。

エキストラの多さなどは、さすが中国映画といったところです。

黄巾の乱と桃園の誓い (学研まんが 三国志 1)

桃園の誓いから黄巾の乱、乱世の奸雄、洛陽炎上と『三国志』の序盤の名場面が詰め込まれたマンガです。

著者の渡邉義浩氏は、中国史に関する数々の研究論文を執筆している方で、三国志研究でよく知られた人物です。

小説だと挫折してしまう人でも、マンガなら読み切れるのではないでしょうか。

三国志の入門本としてもオススメです。

まとめ

今回は、黄巾の乱についてまとめました。

黄巾の乱張角が起こした農民反乱で、農民たちは太平道の信徒でした。

自然災害による食糧難に苦しめられた人々は、張角の言葉に耳を傾け、自分たちを救おうとしない朝廷に対する怒りを表明したのではないでしょうか。

黄巾の乱から三国志が本格的に始まります。  

 

「鴻門之会ってどんな話?」「鴻門之会に出てくる人物とは?」「鴻門之会のあらすじが知りたい!」わかりやすく解説します!

「鴻門之会ってどんな話?」

「鴻門之会に出てくる人物とは?」

「鴻門之会のあらすじが知りたい」

 

このページをご覧になっている方は、そのようなことをお考えかもしれません。

 

鴻門之会とは、紀元前206年に鴻門という場所で行われた項羽劉邦の会見のことです。

 

会見前、項羽劉邦の振る舞いにとても腹を立て、項羽の軍師である范増による劉邦謀殺に賛成していました。

しかし、実際に劉邦に会うと項羽は謀殺する気が失せてしまいました。

項羽に殺す気がなくなっても、将来の禍の種を除きたい范増は、項荘を使い劉邦暗殺を謀ります。

それを察した項羽のおじの項伯は、項荘の動きを阻みますが、劉邦のピンチは変わりません。

このとき、劉邦の命を救ったのは軍師張良の機転と豪傑樊噲の乱入でした。

 

今回は、鴻門之会の登場人物やあらすじ、鴻門之会後の動きなどについてまとめます。

 

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「鴻門之会」とは?

「鴻門之会」は、司馬遷が書いた『史記』に登場する名場面の一つです。

 

紀元前206年、ともに楚の将軍だった項羽と劉邦は目的だった秦の討伐を成し遂げ、鴻門で会見することになりました。

 

劉邦が函谷関を閉じて項羽を締め出したと思った項羽が怒っていたため、劉邦は急いで項羽のもとに駆け付け、謝罪します。

 

項羽はそれを受け入れようとしますが、軍師范増が劉邦の謀殺をはかりました。

 

しかし、劉邦は項伯や張良、樊噲の助けによって虎口を脱し、命からがら逃げかえります。

「鴻門之会」の主な登場人物

鴻門之会に登場する主な人物は7人です。

項羽側から4人、劉邦側から3人紹介します。

項羽

項羽(こうう)

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項羽

項羽 - Wikipedia

楚の項燕将軍の孫で、叔父の項梁とともに秦打倒の兵を挙げました。

身長8尺2寸(188.6cm)の大男で、腕力に優れ、戦いでは無類の強さを発揮します。

 

また、プライドが高く気概に満ちた人物で、英雄豪傑を好むところがありました。

項梁戦死後、楚の主力軍団を率いて秦の章邯将軍と戦い、これに勝利します。

秦の主力軍団に勝利した項羽は、秦の都である咸陽に兵を進めていました。

 

劉邦が函谷関を閉じたことを知ると激怒し、40万の大軍で函谷関を攻め落とすと、鴻門に陣営を構え劉邦を威圧しました。

 

項羽について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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范増(はんぞう)

はじめ項梁に、項梁の死後は項羽に仕え、彼の軍師となりました。

項梁に仕えた時、范増はすでに70歳を越えていました。

まだ20代で若い項羽は、范増を”父に次ぐもの”という意味の「亜父(あふ)」と呼び尊重し、彼の言葉に耳を傾けました。

 

鴻門之会のとき、范増は劉邦の危険性を見抜き、この機会に謀殺してしまうことを提案しましたが、項羽は范増のいうとおりにしませんでした

項伯(こうはく)

項羽の叔父。

項羽劉邦の振る舞いに怒っていることを旧知の友である張良に伝え、彼だけでも難を逃れるよう説得します。

 

しかし、張良劉邦の元を離れず、それどころか項伯と劉邦を引き合わせ、義兄弟にしてしまいました。

止むなく、鴻門之会では劉邦を助けるため尽力します。

項荘(こうそう)

項羽の部下の一人。

軍師范増の指示で、宴会で剣舞を舞い、劉邦の命を狙いました

しかし、項伯に阻まれ、目的を達成できませんでした。

劉邦

劉邦(りゅうほう)

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劉邦

劉邦 - Wikipedia

楚の一地方である沛県の出身で、秦を倒す反乱に参加しました。

そのため、この当時の劉邦は沛出身の将軍といった意味で、沛公とよばれます。

 

項羽が主力を率いていたのに対し、劉邦は別動隊を率いて秦の都咸陽を目指しました。

その後、咸陽の南にあった武関を攻略し、項羽よりも早く咸陽を占領します。

 

しかし、函谷関を閉じて項羽軍の進軍を妨げたため、項羽の怒りを買いました。

項羽軍が函谷関を攻め落とすと、項羽の怒りを鎮めるため急いで項羽の陣営に駆け付けます

 

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張良(ちょうりょう)

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張良 - Wikipedia

劉邦の軍師の一人。

劉邦は、「夫れ籌策(ちゅうさく:はかりごと)を帷帳の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決するは、吾(劉邦)子房(張良)に如かず」と評した天才軍師です。

 

咸陽に入り、有頂天になっている劉邦に、咸陽の都で好き放題することなく、郊外に陣を構えるべきだと進言しました。

加えて「忠言は耳に逆らえども行いに利あり、良薬は口に苦けれども病に利あり」と述べて、耳が痛いことでも聞き入れるよう劉邦を諭しました。

 

その後、項羽軍が函谷関を突破し鴻門に布陣すると、劉邦と共に釈明の使者の一員として項羽の陣営を訪れます。

 

張良の晩年について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

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樊噲(はんかい)

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樊噲

樊噲 - Wikipedia

劉邦配下の将軍の一人。

もともと、劉邦と同じ沛県の出身で、犬の屠殺業者だったといわれます。

 

劉邦の妻の姉と結婚していました。

劉邦が咸陽に入り、豪華な財宝や後宮の美女に目がくらんだときに張良と共に劉邦を諫めます。

 

劉邦張良の護衛を務める親衛隊長として鴻門を訪れました。

「鴻門之会」までのあらすじ

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項羽が攻め落とした函谷関

函谷関 - Wikipedia

この写真はFlaumfederさんがWikipediaに投稿しました

秦を倒すために反乱を起こした項梁は、秦に滅ぼされた祖国の楚を復活させようとします。

そのために、楚王の子孫で羊飼いをしていたという人物を探し出し「楚の懐王」と名乗らせました。

ところが、項梁は秦の章邯軍との戦いに敗れ、戦死してしまいました。

 

戦いの後、懐王の前で開かれた会議で、楚軍を二手に分け、主力部隊と別動隊を組織し、秦の都咸陽を目指すことが決まりました

そして、懐王は先に関中(咸陽がある秦の中心地域)に入ったものを関中の王とすると宣言します。

 

会議では項羽は主力部隊の副将、劉邦は別動隊の大将と決まりました。

しかし、項羽は行軍中に主力部隊の大将を殺し、自ら大将となって秦軍と激突。

項羽率いる主力軍は秦の主力軍に何度も勝利し、降伏した敵兵を穴埋めにするなどしたため非常に恐れられます

 

一方、劉邦率いる別動隊は、戦うことよりも敵を降伏させることを重視したため、項羽軍よりも早く進軍。

結果、劉邦軍は項羽軍より早く咸陽を攻め落とすことに成功します。

 

項羽が関中の入り口にあたる函谷関まで到達すると、函谷関の門は閉ざされ、そこには劉邦軍の旗が翻っていました。

「鴻門之会」のストーリー

項羽の怒り

函谷関に到着した楚軍は、劉邦の兵が関所を守っていたため、それ以上進軍できませんでした。

項羽劉邦が咸陽を攻略したと聞くと怒り、函谷関を攻略し、秦の中心部である関中に乗り込みます。

 

すると、劉邦の部下である曹無傷という男が項羽に使いを送ってこう伝えました。

劉邦は関中で王になろうとし、(元の秦の王だった)子嬰を丞相にして秦の宝を自分のもとにしてしまいました」と。

 

これを聞いた項羽は激怒し、

「兵士たちの食事をさせよ!明日には劉邦の軍を打ち破るぞ!」と告げました。

 

項羽軍は40万、劉邦軍は10万。

しかも、軍の強さは項羽軍のほうが上でしたので、戦えば、ほぼ100%、項羽軍が勝利します。

軍師范増の謀略

項羽の軍師である范増は、劉邦を危険人物だと考えていました。

そのため、項羽に次のように告げます。

 

「昔、劉邦は欲張りで女好きでした。今、咸陽に入っても財宝や美女に手を付けていません。これは、劉邦に野心があるからだ。今のうちに討ち取るべきです。決して逃してはなりません。」

 

こうして、范増は劉邦謀殺の計画を進めます

劉邦の謝罪

項羽の激怒を(項伯から)伝え聞いた劉邦は、100騎ほどのわずかな兵を引き連れて項羽の陣営に向かいました

劉邦は、項羽に会うなり謝罪と弁明を始めました。

 

「私は、あなた様と力を合わせて秦と戦ってきました。しかしながら、私のほうが思いがけず早く関中に入って秦を打ち破り、こうして将軍(項羽)にお目にかかることができました。誰か、つまらないものが私と将軍の中を引き裂こうとしているのです。」

 

弁明を聞いた項羽

「(私が怒っていたのは)曹無傷が(劉邦が背こうとしている)といったからだ。そうでなければ、どうして私があなたを殺そうとするだろうか。いや、しないはずだ。

と述べ、両者の和解が成立します。

宴会の始まりと、危険な演武

謝罪を受け入れた項羽は、その日のうちに宴会を開きました。

宴会の出席者は項羽、項伯、范増、劉邦張良です。

項羽と項伯は東側を向いて座り、范増は南向きで座りました。

一方、劉邦は北を向いて座り、張良は西向きで座ります。

 

宴会がはじまると。范増は、項羽に何度も目配せして、劉邦を殺す合図を送りました。

しかし、謝罪を受け入れた項羽劉邦を殺す気が失せてしまったので、范増の合図を無視します。

すると、范増は席を立ち、項荘を呼び出して告げました。

項羽様は残酷なことができない方だ。お前が宴会の場に入り、健康を祈るとして剣の舞を踊れ。そして、踊りに合わせて劉邦を殺してしまうのだ。」と命じます。

范増に命じられた項荘は、打ち合わせ通り剣舞を始めました。

 

様子を見ていた項伯は、范増の企みに気づき、剣舞の相手役として立候補し、そのまま、一緒に舞い始めます。

そのせいで、項荘は劉邦を殺すチャンスを見つけられません。

樊噲乱入

項伯の機転により、危険は少し遠のきました。

それでも、劉邦の命が危ないことに変わりありません。

そこで、張良は外にいた樊噲に会い、劉邦がピンチであると伝えました

すると、樊噲は警護の兵士たちを押しのけて、宴席に乱入しました。

 

無礼な乱入者に対し、項羽は目を怒らせながら尋問します。

お前は何者だ!

すると、樊噲は

劉邦と(護衛として馬車に)一緒に乗っている樊噲というものです。

と名乗ります。

 

項羽

壮士(勇敢な男)だ。このものに酒をふるまえ」と命じます。

樊噲は、立ったまま項羽に与えられた酒を飲み干しました。

 

その様子を見た項羽

この男に、豚の肩の肉を与えよ」と命じました。

樊噲は、与えられた肉を自分の盾の上にのせ、持ってきた剣で豚肉を切って貪り食いました。

 

項羽

壮士だ。まだ飲めるのか?」と聞いたので、

 

樊噲は

私は死すら恐れません。大杯の酒をどうして断るでしょうか。いや、断りなどしません。

秦は虎狼の国(残酷な国)だったので、中国全土の民が背きました。

懐王は、先に秦を破り咸陽に入ったものを王とするとおっしゃいました。

劉邦様は、咸陽を攻め落としましたが秦の財宝に手を付けていません。その理由は、あなた様(項羽)を待っていたからです。

兵を派遣して函谷関を閉じたのは、盗賊を警戒してのことでした。

ところが、あなた様はつまらないものの悪口を聞いて功績ある人物(劉邦)を殺そうとしている。これでは、秦と同じではないですか。そのようなことは、あなた様のためにも賛成できません。

項羽に訴えかけました。

 

項羽は樊噲に「座れ」といいました。

劉邦の脱出

樊噲が関を与えられ着席し、しばらく時間が過ぎた時、劉邦は厠に行くため席を立ちました。

劉邦は樊噲を呼び、いっしょに(宴会場の)外に出ます。

劉邦は樊噲に

「外に出てしまったが、まだ、別れの挨拶をしていない。どうしたらいいだろうか」

すると樊噲は

大事の前の小事だから、小さな礼儀にかまっている暇はありません。

そもそも、私たちはまな板の上の魚と同じ(くらい危ない)だから、別れのあいさつなどにこだわっていられるでしょうか。(いや、こだわらず去るべきだ)

といいました。

 

劉邦は、途中で帰ったことの謝罪を張良に任せます。

張良劉邦が持参したお詫びの品を受け取り、謝罪役を引き受けます。

劉邦は「自分が、陣営に帰ったあたりを見計らって項羽に謝罪せよ」と張良に命じ、一目散に逃げだしました。

 

劉邦が逃げ延びたころ合いを見計らい、張良項羽に謝罪を始めます。

張良は「劉邦様は酔ってしまい、退去のあいさつができなくなりました。かわりに、項羽様に白壁一対、范増様に玉斗一対を献上いたします。」といい、宝物を献上しました。

 

項羽が「劉邦はどこにいる」と尋ねると、

張良は「項羽様に過失をとがめられると聞いて、抜け出して自分の陣地に帰ってしまいました。」と述べます。

 

項羽は素直に白壁を受け取りましたが、范増は怒りのあまり玉斗を地面に置き、剣で壊してしまいます。

范増は「この若造(劉邦を殺さなかった項羽のこと)め!。ともに天下のことを語るに足りないやつだ。項羽の天下は劉邦に奪われてしまい、わが一族は劉邦にとらわれてしまうだろう!」と嘆きました。

「鴻門之会」は『史記』の名場面の一つで、しばしば、高校古典の教材としても取り扱われてきました。

「鴻門之会」のその後

項羽による秦都咸陽の略奪

劉邦を許した項羽は、秦の都である咸陽に入りました。

そこで、項羽軍は咸陽の都を略奪・破壊し、秦の最期の王である子嬰とその一族を処刑します。

咸陽は焼き払われ、『史記』によれば、3か月もの間、炎が消えなかったといいます。

「楚人沐猴而冠」

咸陽を炎上させ、目的を達した項羽は軍を東へと返そうとしました。

ある人が、「秦の地は土地が豊かで天下を治めるのにふさわしいから、この地にとどまったらどうか」と提案しましたが、項羽は聞き入れませんでした。

項羽は「富貴を得て、故郷に帰らないのは錦を着て、夜出歩くことと同じである。誰も知ってくれはしない(だから、故郷に帰るのだ)」と述べています。

それを知った提案者は「楚の人間は猴(サル)が冠をかぶっているのと同じだ(楚人沐猴而冠)というが、全くその通りだな」と不満を漏らしました。

これを伝え聞いた項羽は激怒し、その人物をとらえて釜茹でにしてしまいました。

劉邦の左遷

項羽は軍を引き上げましたが、劉邦の処遇について悩みます。

秦の豊かな地を劉邦に与えると、将来、項羽にとって困った敵になるかもしれないと考えたからです。

そしてひねり出したのが、同じ関中でも辺境といってもよい「漢中」を与えることでした。

漢中が、地図上では中国の中央から外れた左の位置にあることから、劉邦を左に遷す、すなわち「左遷」という言葉が生まれます。

まとめ

劉邦は、項羽に先駆けて咸陽を攻め落としましたが、函谷関を閉ざしたことで項羽の怒りを買い、殺されそうになってしまいます。

鴻門之会は劉邦にとって、一か八かの謝罪劇でした。

そこから逃れるため、劉邦は義兄弟になった項伯や軍師の張良、護衛役の樊噲の手を借りました。

彼らの力があってこそ、劉邦は生き延びたといえるでしょう。

まさに、劉邦にとって九死に一生を得る経験だったのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

   

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