元予備校講師の受験対策ブログ

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「范蠡(はんれい)ってどんな人?」「呉王に勝ったあと、范蠡はどうなった」「范蠡が残した商訓とは?」わかりやすく解説!

范蠡ってどんな人?

呉王に勝った後、范蠡はどうなったの?

范蠡が残した商訓とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

范蠡春秋時代に越王勾践に仕えた将軍でした。

謀略の才能があり、さまざまな策謀で敵国である呉の力を削ぎ、越王勾践の復讐を助けます。

 

しかし、復讐が成った後、范蠡は越を捨て他国で商人となりました。

そこでも范蠡は成功を収めます。

商人として大成功した范蠡は「陶朱公」としても名を残しました

 

会稽の恥臥薪嘗胆顰に倣うなどの故事成語に深くかかわった范蠡の2つの人生についてまとめます。

史記』に関連した故事成語について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

 

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越王の軍師として活躍した范蠡

范蠡は越王允常と、その子である勾践に仕えました。

范蠡はすぐれた作戦で呉軍に勝利。

越が敗れて、勾践が力を失ったとき、勾践を支え続けて越の逆転勝利をもたらします。

越の家臣として活躍した范蠡についてまとめます。

奇策で呉王闔閭に勝利

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春秋時代の諸侯の勢力図

引用:春秋時代 - Wikipedia

中国で、周王朝の力が弱まると各地を支配する諸侯の力が強まりました。

諸侯は、自分の領地を拡張しようと各地で戦いを始めます。

周王朝の力が弱まったこの時代を、孔子が書いた歴史書の名から、春秋時代といいます

 

春秋時代、中国南部には楚や呉、越といった国々がありました。

なかでも、呉王闔閭は、将軍である伍子胥と軍師である孫武の助けを得て一気に国力を強めます

闔閭は国力に勝る楚と戦い勝利し、呉は天下に覇を唱えることができました。

 

呉の南にあったのが越の国です。

王允常は、范蠡の補佐により国力を伸ばしました

闔閭は、越の国が力を増すことを警戒。

先手を打って、越を滅ぼすチャンスを狙います。

 

紀元前496年、越王允常が死去し太子の勾践が国王になると、闔閭は越の体制が整う前に攻撃するべきだと判断し、越に出兵しました。

 

将軍范蠡は、強力な呉軍に対抗する秘策を考えます。

范蠡は決死隊(一説には、罪人)を最前列に並べ、彼らに敵を見ながら自ら首をはねさせました

呉軍は目の前で突然起きた出来事に、茫然自失してしまいます。

 

そこで生まれた一瞬のスキを突き、越軍は呉軍に総攻撃。

呉王闔閭は越軍の矢にあたって傷を負い、それが原因で亡くなりました。

 

呉王夫差は臥薪して勾践に勝ち、生き延びた勾践は嘗胆して恥を忘れず

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呉王夫差の矛

引用:呉王夫差矛 - Wikipedia

傷を負い、余命いくばくもなくなった闔閭は息子の夫差を呼び寄せて、「必ず仇をとれ」と命じ、夫差は「三年のうちに仇を取ります」と誓いました。

呉王闔閭の死後、子の夫差が呉王となります。

 

夫差は、越と戦うべく軍備を増強。

闔閭との誓いを忘れないよう、薪の上に寝たといいます(臥薪)

 

呉の力が回復するにつれ、越王勾践は先手を打って呉を攻撃するべきだと考えるようになります。

范蠡は、時期尚早と反対しましたが、勾践は進言を退け、呉を攻撃。

大敗を喫してしまいました

 

会稽山に追い詰められた勾践は、呉王夫差に必死に詫びることで生き延びようとします。

夫差が勾践に出した条件は、勾践が夫差の馬小屋の万人になること。

勾践は、この条件を受け入れ屈辱に耐えました(会稽の恥)。

 

なんとか、越に帰国することを許された勾践は、毎日、苦い胆を嘗めることで会稽の恥を忘れないようにしたといいます(嘗胆)

夫差と勾践の行いから生まれたのが「臥薪嘗胆」の四字熟語ですね。 

呉を弱体化させた范蠡の謀略

越に戻った勾践は、二人の重臣の助けを借りました。

一人は先代から越を支える重臣である范蠡

もう一人は、政治の才能に恵まれた文種です。

文種の活躍により、越は国力を飛躍的に増大させます。

反間の計で伍子胥を排除

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范蠡の謀略で殺された伍子胥

引用:伍子胥 - Wikipedia

范蠡は、謀略で呉をかく乱しようとしました。

呉王夫差を支え、呉の力を強大化させたのは重臣伍子胥の力です。

范蠡は、呉の重臣の一人である伯嚭に賄賂を贈り、伍子胥の悪口を呉王に吹き込みます。

 

夫差は、先代からの重臣である伍子胥を疎ましく思っていたこともあり、范蠡の策略に乗って伍子胥を殺害してしまいました。

西施を呉王夫差に献上し、呉を弱体化

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呉王夫差を惑わせた絶世の美女、西施

引用:西施 - Wikipedia

范蠡呉王夫差を油断させるため、美女たちを呉王に献上しました。

中でももっとも名高いのが西施です。

西施は漢の王昭君三国時代貂蝉、唐の楊貴妃などと並び称される絶世の美女です。

 

あるとき、西施が胸の痛みのせいで胸を眉間(顰:ひそみ)にしわを寄せると、その症状やしぐさがはかなげで美しいと評判になってしまいました。

 

これを見たある醜い女性が西施をまねてしかめ面をした結果、人々に恐れられてしまいました。

このエピソードから生まれたのが「顰に倣う」という言葉です。

表情一つで周囲の人をざわつかせるほどの美女だった西施は呉王夫差を虜にしてしまいます。

その結果、夫差は国の政治をおろそかにしてしまいました。

 

復讐の完成

呉王夫差は、天下に呉の力を示そうと、軍を引きい北へ向かいました。

呉の国は主力部隊が留守になりもぬけの殻。

勾践が、昔の復讐戦を仕掛けたのはまさにこのタイミングでした。

 

呉を守るわずかな兵は勾践の精鋭の前にもろくも敗れ去り、呉の都は陥落します。

あわてて夫差が戻ってきたとき、呉の都は越軍に荒らされた後でした。

敗北の理由は越が国力を整えている間、呉は范蠡の策略で着実に弱体化していたからでした。

 

四年後、再度来襲した越軍は呉軍に勝利。

呉王夫差は姑蘇山に逃げ込みました。

勾践は、命乞いする夫差を助けようとしましたが、范蠡は、夫差を生かしていてはのちの災いになるとして夫差の殺害を進言します。

 

勾践は、夫差を殺すことにためらい、はるか沖の舟山列島に流そうとしますが、遠島を聞いた夫差が自殺してしまいました。

こうして、夫差は会稽の恥を雪ぐことができたのです。

 

越王のもとを去り、第二の人生でも成功した范蠡

越王勾践は呉王に勝利すると、有頂天になりました。

その様子を見て、「大名(たいめい)のもとには久しくおりがたい」と述べて越を去ります。

范蠡は名をかえ、越から斉に移住しました。

そこから、さらに陶という場所に移り、朱公と称し、商人として大成功します。

越を脱出し、斉に向かった范蠡

范蠡は、越王のもとをさって、斉の国に向かいます。

のちに、范蠡は文種に書いた手紙で「越王は苦楽を共にできても、歓楽はともにできない」と評しています。

越に残っていたら、勾践によって粛清されると感じたから脱出したのかもしれません。

 

斉に到着した范蠡は、鴟夷子皮(しいしひ)と名を改め商人となります。

范蠡の商売はシンプルでした。

高値の時に売り、安値の時に買うだけ。

しかし、これは今でも商売の王道です。

この法則を実行するため、日ごろから情報収集と分析を欠かさなかったことでしょう。

 

陶に移り、朱公と名乗って商売で大成功 

斉の国で大金持ちになったことで、斉の王が范蠡に注目。

斉の宰相になるよう、スカウトしてきました。

政治の世界に戻る気のない范蠡はスカウトを断って斉をでます。

 

范蠡が目指したのは陶でした。陶は、定陶のこと。

交通の要衝で、四方から物資が集まる重要地点でした。

物資が集まるところ、人と情報もおのずから集まります。

 

陶に移った范蠡は朱公となのりました

この地でも范蠡は情報収集に長け、幾度も商売を大成功させたといいます。

このことから、中国では商売で成功した大商人を陶朱公と呼ぶようになりました

范蠡の商訓

范蠡は第二の人生で商人となり成功しました。

彼の言葉とされる商訓は現代の中国人にとっても必須の知恵として受け継がれています。

 

これが、本当に范蠡が残した言葉かどうかはともかく、商売をするうえでとても重要な心構えなのは確かです。

大成功した范蠡の名を借りて重要なことを後世に残そうとしたのではないでしょうか。

今までのキャリアを存分に生かし、巨万の富を築いた范蠡

 

范蠡は越の国で将軍として活躍しました。

優秀な軍人は、相手の虚を突き一瞬の勝利を手にします。

そのためには、情報の収集・分析は欠かせないスキルだったはずです。

 

范蠡が前職で得たスキルは、商人となってからも大いに彼を助けたことでしょう。

若いころの苦労は、買ってでもしろという言葉がありますが、積み重ねたスキルは、キャリアが変わっても応用可能だということがよくわかります。

 

狡兎死して走狗煮らる」というのは、功績を立てすぎた臣下の末路ですが、越王勾践に疎まれることなどを冷静に分析し、潔く国を去った判断は見事だと思います。

 

史記』には、現在の私たちにとっても参考になる話がたくさんあるなと、改めて思いました。

家から出られないとき、『史記』で教養を積むのは悪い話ではないと思いますが、いかがでしょうか。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

ロシア美術の傑作が納められるトレチャコフ美術館 「忘れえぬ女」など個人的に好きな作品の紹介

今回紹介するトレチャコフ美術館。

日本での知名度は、いまいちかもしれませんが、とても素晴らしい作品を数多く収蔵する名美術館です。

ロシアの名画が数多く収蔵されていますが、中でも個人的に好きな4枚の絵について、紹介したいと思います。

なお、世界史に興味がある方はこちらの記事もどうぞ!

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トレチャコフ美術館とは

Tretyakovskaya gallery.JPG
出典:トレチャコフ美術館 - Wikipedia

 

トレチャコフ美術館は19世紀の中頃に、モスクワの商人だったトレチャコフ兄弟が集めた美術ギャラリーからはじまりました。

開業以来、多くの美術品を集めることでロシアでも随一に美術館に成長します。

 

この美術館の一番の特徴は、ロシアのアーティストの作品を中心に展示が構成されていることです。

トレチャコフ兄弟は、「ロシアの芸術家によるロシア美術のための美術館」を目指して作品を集め、兄弟の死後もその方針に従って収蔵品を増やしました。

 

 

ロシア正教のイコン 「ウラジーミルの生神女

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出典:イコン - Wikipedia

ロシア正教会において、キリストや聖母マリアの像(聖像)をつくることは禁じられています。

それでも、キリストや聖母マリアの姿を見たいと中世の人々が望んだからでしょうか、イコンとよばれる聖画が描かれるようになりました。

トレチャコフ美術館所蔵の「ウラジーミルの生神女」は12世紀前半に描かれたものです。

 

13世紀になると、ロシアはモンゴルの騎馬軍団の侵攻を受けます。

キエフなど多くの町がモンゴル軍によって焼き払われる中、モスクワは炎上を免れることができました。

人々は「ウラジーミルの生神女」のイコンがモスクワを救ったと信じ、このイコンを心から大切にしたといいます。

雷帝イワンと皇子イワン」

Iván el Terrible y su hijo, por Iliá Repin.jpg
出典:イヴァン4世 - Wikipedia

 

19世紀後半に活躍したロシアの画家、イリヤ・レーピンによる歴史画です。

レーピンはウクライナ第二の都市であるハリコフに生まれました。

 

ロシアでもいわくつきの皇帝である雷帝イワン

彼には、誤って息子を殺したという史実がありました。

 

黒い服を着た老いた男が、血まみれの壮年の男の頭を抱えています。

雷帝ことイワン(イヴァン4世)は、強大な権力でロシアを統治し、反対者を次々と粛清しました。

 

皇太子イワンの妻エレナを打ち据えていた雷帝イワンを止めるため、皇太子イワンが間に割って入りました。

激高した雷帝は、息子を錫杖で撃ち殺してしまいます。

画面手前にあるのが、雷帝が息子を撃ち殺した錫杖ですね。

 

ロシアの歴史の闇の部分をよく表す絵画ではないでしょうか。

 

 

「忘れえぬ女」

Portrait of an Unknown Woman

 出典:見知らぬ女 - Wikipedia

 

イワン・クラムスコイ作の「忘れえぬ女」。

「見知らぬ女」という邦題もありますが、「忘れえぬ女」のほうがこの絵画を的確に表しているように感じます。 

 

イワン・クラムスコイも19世紀半ばの画家でした。

小市民の家に生まれたイワン・クラムスコイは、当時ロシア画壇の主流だったイタリア風の絵画に反発。

ロシア帝国芸術アカデミーから追放されてしまいました。

 

木彫りグマは最初にこの絵を見た時、強い衝撃を受けました。

馬車に乗り、毛皮のコートに身を包んだ女性。

馬車の座席という高い位置にいるせいか、絵画を見る人を上から見下ろすような視線。

毛皮の細かなディテールや、馬車の座席の皮まで生々しく描く画家の画力。

 

まさに、「忘れえぬ女」となりました。


自宅で、このような形で名画を見られるというのも現代ならではという気がします。

 

絵画の技法や美術的な価値は、正直なところしっかりとわかっているわけではありません。

しかし、この女性の持つ何とも言えない強い印象は今でもしっかりと脳裏に焼き付いています。

 

さいごに

西洋絵画の中でも、ロシア絵画は日本人にとってまだまだなじみがないものかもしれません。

 

近くて遠いロシア。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

「平清盛はなぜ太政大臣まで出世した?」「清盛の祖父や父はどんな人?」「清盛がおこなった日宋貿易とは?」わかりやすく解説!

平清盛はなぜ太政大臣まで出世した?

清盛の祖父や父はどんな人?

平清盛がおこなった貿易とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

 

平清盛は彼一人の力で出世したのではなく、祖父の正盛、父の忠盛が蓄えた力によって前人未到の大出世を遂げました。

清盛は伊勢平氏の努力の積み重ねで出世したのです。

 

今回は、清盛出世の基盤となった正盛、忠盛の事績や清盛自身の活動、清盛がおこなった日宋貿易などについてまとめます。

平安時代全体の流れについて知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/816743">アイコねえ</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

伊勢平氏三代の出世物語

平清盛が政権を握り、日宋貿易を進展させる前、平正盛平忠盛は、上皇が行う院政に結びつき平氏の力を強めていました。

清盛の祖父、平正盛

平安時代後期、世の中の権力は摂関政治を行っていた藤原氏から、天皇家の長として天皇を補佐する上皇の手に移っていました。

 

上皇というのは天皇を引退した元天皇のこと。元天皇である上皇が、院という場所で政治を行い、天皇や朝廷に指示を出す仕組みを院政といいます。

 

今でも、社長を辞めた人が陰から権力を握って会社を動かすことを院政などといったりしますよ。

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正盛を出世させた白河上皇

引用:白河天皇 - Wikipedia

院政という政治の仕組みを考えたのは白河上皇でした。

 

白河上皇摂関家の力を抑える一方、院近臣とよばれる自分の側近たちを使ってこれまでの政治家よりも強い権力で政治をおこないます。

 

院近臣として取り立てられた人物の一人が清盛の祖父である平正盛でした。

 

正盛は院の警備を行う北面の武士になり、京都の治安維持を行う検非違使や諸国の盗賊を討伐する追捕使として活躍します。

 

平正盛は現在の鳥取県東部にあたる因幡国国司となります。

 

1107年、正盛は隣国である出雲国島根県西部)で暴れる源義親の討伐を命じられました。1108年、正盛は源義親の討伐に成功します。

 

白河上皇はことのほか喜び、兵庫県北部にあたる但馬国国司に任じました。白河上皇は正盛だけではなく、子供たちにも官職を与えます。 

 

清盛の父、平忠盛

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白河上皇鳥羽上皇の信任を得て出世した平忠盛

引用:平忠盛 - Wikipedia

平安時代、朝廷を悩ませたものの一つは大寺院による強訴でした。強訴とは、大寺院が神社のみこしを担いで朝廷に要求を突きつけること。

 

明治時代に神仏分離が行われるまでは、大寺院は神社と結びつくのが当然でした。

 

たとえば、比叡山延暦寺の僧兵は日吉神社祇園社などの神輿を、興福寺の僧兵は春日神社の神輿などを担いで朝廷に要求を突きつけます。

 

神輿を担ぐ僧兵は寺院に所属する僧侶兼兵士といってもいい存在。

 

一番わかりやすいのは、武蔵坊弁慶でしょう。 忠盛は1113年に興福寺の強訴を防いで白河上皇の印象を良くしました

 

1119年の賀茂臨時祭では華やかな装いで舞い、参列者を驚かせます。白河上皇にひきたてられた忠盛は備前守となり、出世街道を歩み始めました。

 

白河上皇が亡くなり、最高権力者が鳥羽上皇になっても忠盛は出世を続けます。

 

1147年、清盛の家来が祇園社(今の八坂神社)とトラブルを起こしたとき、祇園社のバックにいた比叡山延暦寺は清盛と父の忠盛の流罪を求めて強訴しました。

 

この時は、鳥羽法皇の信任があり流罪を免れます。1153年、忠盛は公卿の地位を目前にこの世を去ります。忠盛が築いた地位や地盤は息子の清盛に受け継がれました。

太政大臣に出世した平清盛

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武士ではじめて太政大臣まで出世した平清盛

引用:平清盛 - Wikipedia

忠盛の跡を継いで伊勢平氏の棟梁となった平清盛鳥羽上皇に奉仕することで順調に昇進を果たします。

 

1156年、最高権力者(治天の君)だった鳥羽上皇が死去しました。鳥羽上皇の後に治天の君になるのは誰か、鳥羽上皇は明確に定めずに亡くなったため権力争いが起きます。

 

治天の君の座をめぐって争ったのは崇徳上皇後白河天皇でした。平清盛後白河天皇に味方し、崇徳上皇を支持する勢力と戦います(保元の乱)。戦いは後白河法皇側の勝利に終わりました。 

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1159年、今度は後白河上皇の側近同士で内紛が起きます。清盛は信西入道を支持しますが、藤原信頼源義朝ら反信西派の奇襲により信西が討ち取られてしまいました。

 

熊野詣で京都を留守にしていた清盛は直ちに京都六波羅にあった平氏の本拠地に戻ります。

 

清盛は後白河法皇二条天皇を信頼派の手から脱出させました。清盛は後白河法皇仁和寺に行かせ、二条天皇六波羅の屋敷に迎え入れます。

 

官軍となった清盛は六波羅の館で信頼派を迎え撃ち、これに勝利します(平治の乱)。

 

保元の乱平治の乱で勝利した平清盛は朝廷内での地位を確たるものにします。

 

二つの乱の前後に、瀬戸内海交易の重要地点である播磨国国司と九州太宰府の副長官(太宰大弐)に就任し交通の要衝を抑えました

 

その後、1167年に太政大臣に任官します。これまで、太政大臣になることができたのは天皇の一族か藤原氏のみでした。

 

武士である清盛の太政大臣就任は歴史的快挙だったのです。

 

清盛が行った日宋貿易

平清盛は日本と中国の貿易である日宋貿易を盛んに行った人物でした。

 

これまで、日本と中国の貿易は国同士の正式な交渉が中心でした。しかし、中国で唐が滅び、日本でも律令国家が崩れてからは国同士の正式な貿易は途絶えます。

 

その一方で、民間レベルの貿易はとても活発に行われていました。清盛は、民間貿易を活発化させることで利益を上げようとしたのです。

瀬戸内海水運の要所を抑えていた平清盛

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瀬戸内海

引用:瀬戸内海 - Wikipedia

物を運ぶ時、陸上を運ぶのと海上を運ぶのではどちらが一度に大量の物資を運ぶことができるでしょうか。答えは海上交通。船は現代でも最も安く大量に物資を運ぶ手段です。

 

平安時代、京都の平安京に西日本各地の物資を運ぶのに大活躍したのが瀬戸内海の水運でした。

 

瀬戸内海沿岸の港で詰め込まれた各地の年貢や特産品は、船によって神戸・大阪方面に運ばれます

 

そこから、淀川をさかのぼり京都に運び込まれました。中国や朝鮮半島からの物資は博多に到着後、瀬戸内海航路で京都に運ばれます。

 

清盛は保元の乱平治の乱の活躍で播磨守と太宰大弐に任じられていました。

 

ということは、瀬戸内海の入り口である太宰府(博多)と京都への入り口である播磨の支配者ということになりますよね。

 

瀬戸内海の入り口と京都への入り口を抑える清盛は、瀬戸内海交通で大きな影響力を行使することができるのです。

博多港大輪田泊の整備

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大輪田泊を修築した平清盛

引用:平清盛 - Wikipedia

博多は九州の玄関口となる場所です。九州全土を管理する太宰府は、中国や朝鮮半島との外交を担いました。博多は太宰府の玄関口と考えるとよいでしょう。

 

1161年、平清盛博多に日本初の人工港である袖の湊を建設したとされます。

 

博多には中国人商人たちが軒を連ねていたとの記録も残されており、清盛が何らかの拠点を博多に置いていた可能性は高いでしょう。

 

現在の神戸にあたる地域には、清盛以前から港がありました。清盛は大輪田泊を整備し、大型船舶が入港できるよう設備を整えます

 

これにより、中国(宋)からやってきた大型船が直接、大輪田泊に入港できるようになりました。

 

日宋貿易の始まり

1126年、中国では靖康の変が起きました。中国北方にあった金が宋の軍を破り、都の開封を占領し皇帝を連れ去ります。宋の皇族の一人が長江の南に逃げ宋を復興します(南宋)。

 

金の支配から逃れた人々は南宋に集まりました。南宋が都をおいた華中・華南は急速に経済発展を遂げます。

 

そのため、木材などの需要が急増しました。南宋の商人たちは豊富な森林資源を持つ日本に注目し、交易を求めて日本にやってくるようになります。

 

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宋銭

引用:宋銭 - Wikipedia

日本側が一番欲しかったのが中国の貨幣(宋銭)でした。

 

日本でも貨幣を作っていたことはあったのですが、経済が未発達だったせいで貨幣はあまり一般で使われることなく、いつのまにか、作られなくなります。

 

平安時代後期になると、日本でも経済活動が徐々に活発化。物々交換では不便だと思う人々が増えていました。

 

そこに登場したのが日宋貿易で日本に入ってきた宋銭です。

 

東アジアの中心国家である中国の銭ということもあって、宋銭は日本でも信用され流通するようになりました

 

貨幣を使う一番のメリットは、商売がやりやすくなること。物々交換は、各地に相手と交換できるかどうかわかりません。

 

貨幣だと、モノの値段が数字で表されるので、お互いに取引がやりやすくなったでしょう。

 

モノの価値をはっきり示すことは貨幣の最も得意なこと。生産力が増え、モノが余り始めていた(余った生産物を余剰生産物といいます)。

 

人々は、モノを「売る」ことで、自分が必要な別のモノを「買う」ことができるようになります。

 

こうして、日本全国でモノの売り買いが盛んにおこなわれるようになりました。清盛が導入した宋銭は鎌倉時代にも引き続き使われます。

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信長の旗印にもなった永楽通宝

引用:永楽通宝 - Wikipedia

室町時代には宋銭にかわって明銭が使われるようになりました。信長の旗印として有名な永楽通宝は代表的な明銭ですね。

永楽通宝は永楽帝の時代につくられた銅銭でした。

永楽帝について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ。

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さいごに

平清盛は祖父や父の築いた基盤をもとに出世し、最終的には太政大臣までのぼりつめます。

 

彼の力の源は武力だけではありません。日宋貿易で得た財力、これが清盛のもう一つの力の源でした。

 

武士であり、政治家であり、経済人としての力もあった平清盛。時代は違いますが、先見性という点では織田信長に通じるものがあるかもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

「好景気、不景気って何?」「好景気、不景気の基準とは?」「政府が行う景気対策とは?」わかりやすく解説!

好景気って何?

不景気って何?

好景気や不景気の基準とは?

政府が行う景気対策とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

 

好景気(好況)とは、経済活動が活発で金回りが良い状態のことです。

 

不景気(不況)とはその反対で、経済活動が鈍く金回りが悪い状態です。

 

好景気や不景気の基準は様々ありますが、もっともわかりやすいのが内閣府が出す景気動向指数」です。

 

この指数が一定の基準よりも上回っていれば好景気、下回っていれば不景気と判断されます。

 

今回は、好景気、不景気など景気について少し掘り下げて考えて見たいと思います。

 

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好景気とは

 

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好景気、好況とは、経済活動が好調な状態です。

 

具体的には、たくさんモノやサービスが売れ、従業員の給料も上がり、会社も儲かっている状態ですね。

 

自分が勤めている会社の商品が沢山売れると、会社は利益を得ます。

 

会社は得た利益から、次に商品を作る材料費や借金の返済、次の生産に必要な設備の購入(設備投資)などをおこないます。

 

そして、従業員のやる気を出してもらうため、賃金を上げることが多いです。

 

賃金・給料が上がった従業員は、今まで以上に欲しいものを買います。(消費の増大

 

すると、商品が売れ、その商品を作っている会社に利益がもたらされます。

 

こうして、社会全体でモノやサービスが売れることで、会社が儲かり、従業員の給料が上がっていくのですね。

 

一番わかりやすい好景気は、高度経済成長でしょう。

 

第二次世界大戦の敗戦から立ち上がった日本は、朝鮮特需などで景気が回復。

 

その後も、岩戸景気オリンピック景気などが続き、日本人の給料は10年で倍以上に増えました。まさに、右肩上がりの成長だったんです。

 

不景気とは

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では、不景気とはどのような状態なのでしょうか。

 

まず、不景気になるきっかけはモノやサービスが売れなくなること。わかりやすいのは「モノ」の場合ですね。

 

売れると思って沢山の商品を作ってみたものの、当てが外れて売れ残り(在庫)が発生してしまう。

 

それ自体は、経済現象として珍しいことではありません。

 

しかし、多くの会社が在庫が増えるとなると話は別です。在庫を売るため、会社は値引きをします。

 

それでも売れなければ、商品を廃棄することもあるでしょう。

 

そうなれば、会社は利益どころか損失を出してしまいます。当然、給料も良くて現状維持、悪くすれば、減給になってしまいます。

 

それでもダメなら、会社がつぶれてしまうこともあるでしょう。

 

会社がつぶれる、あるいは、従業員をクビにすると言うことがおきると、失業者が増えてしまいますよね。

 

失業中の人は、沢山買い物をするでしょうか?普通は、買い物を減らすでしょう。

 

そうすると、会社はモノやサービスが売れなくなり、更に値下げ・倒産・リストラを迫られます。

 

日本だと、バブル崩壊後の「平成不況」が代表的な不景気と言えるでしょう。

 

つぶれないと信じられた都市銀行がつぶれ(拓銀ショック)、四大証券の一つだった山一證券も破綻しました。

 

日本では物価が下がり、企業が利益を上げにくくなります(デフレ)。

 

あまりに不景気が長く続いたので、「失われた10年」と言われることもありますね。 

 

景気判断の基準となる「景気動向指数」とは?

景気動向指数とは、内閣府が発表する総合的な景気指標です。

 

指数には景気の転換点を見る「DI」と景気変動の大きさをはかる「CI」がありますが、主に取り上げられるのは「CI」です。

 

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景気動向指数「ダイヤモンドオンライン」より引用 

diamond.jp

例として取り上げたグラフでは、2004年や2005年のあたりが100なので、この数値が基準となります。

 

そして、これより数字が大きいと(2004年に比べ)好景気、小さいと(2004年に比べ)不景気となります。

 

好景気や不景気のとき、政府や中央銀行はどうするの?

好景気が行過ぎれば、物価が高くなりすぎるインフレの発生や、お金が増えすぎることによるバブルを招きかねません。

 

行過ぎた好景気を抑えるため、政府は増税を実施し、中央銀行金利を引き上げてお金が出回りにくくします。 

 

では、不景気のときはどうするのでしょうか。みんなが買い物をしたいと思うように、お金が沢山出回るようにします。

 

その代表が減税ですね。アメリカのトランプ大統領がしばしば減税を行うのは、それによって景気を良くしたいという考えがあるから。

 

もうひとつは金利を下げて、お金を借りやすくします。

 

今回のコロナショックで、アメリカのFRB(連保制度準備理事会)は銀行に貸し出す金利を極めて低く据え置く「超低金利」の金融政策を行っています。

 

これで、少しでも景気を良くしようとしているわけです。 

コロナショックに対する各国の対応

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新型コロナウイルスが2020年の初めから猛威を振るっています。世界各国で、感染を押さえ込むため経済活動を制限しました。

 

人々の動きを止め、感染を抑えようというのです。

 

しかし、経済活動を制限すれば、モノが売れなくなります。現に、観光産業やレストラン、外食産業で倒産するところも出始めました。

 

各国の対応を一言で言えば、「政府がお金をどんどん出すから、コロナが収まったらみんなで使って景気を良くしよう!。

 

つぶれそうな会社は政府が助けるよ」という感じです。

 

アメリカは全世帯にお金を配りました。動きを止めて休業させる代わりに、経済的に支えてあげようというわけですね。

 

日本でも10万円の定額給付が実施されました。

 

2022年になると、アメリカでは金利の引き上げが検討されるようになりました。

巨額の出費の副作用で、インフレが加速したからです。

このように、経済政策は状況によって大きく変化します。

 

今後の景気はどうなるの?

今後の景気動向については、大きく二つの可能性が指摘されています。

 

ひとつは、ワクチン接種などにより新型コロナウイルスのショックが比較的短期で収まり、景気が急回復するという可能性。

 

もうひとつは、新型コロナウイルスのショックが長期化し、不景気が長引く可能性。

 

今回、各国政府は不景気になる前にたくさんお金を出すことを決めました。これは、今までなかったことです。

 

先にお金を出すことが、吉と出るか今日と出るか、まだまだ予断を許さないと思います。

 

ただ、金融緩和の影響で株価は空前の高値を付け、実体経済とかなりかけ離れているという指摘もあります。

 

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

『徒然草』「あだし野の露消ゆるときなく」の本文、や現代語訳、京都の三大風葬地についてわかりやすく解説!

徒然草』の「あだし野の露消ゆるときなく」の訳が知りたい!

無常観って何?

京都の三大風葬地とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんなことをお考えかもしれません。

 

「あだし野の露消ゆるときなく」は『徒然草』の一節で、人の世のはかなさや無常観について吉田兼好が語っている部分です。

 

徒然草は』冒頭分の「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、元の水にあらず」という言葉が有名ですが、今回取り上げる「あだしのの露消ゆるときなく」も非常に有名ですね。

 

現代に比べ、死が身近だった鎌倉時代。中でも、吉田兼好が『徒然草』で取り上げた「あだしの」や「鳥辺山」は、古くから京都の墓所として有名な場所でした。

 

今回は、「あだしの露消ゆるときなく」をとりあげ、本文や現代語訳、京都の三大風葬地について紹介します。

 

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<a href="https://www.photo-ac.com/profile/632078">IORI</a>さんによる<a href="https://www.photo-ac.com/">写真AC</a>からの写真

 

「あだし野の露消ゆるときなく」の本文と現代語訳

 

あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。

世は定めなきこそいみじけれ。

 

化野の露は消える時がなく、鳥辺山から立ち上る煙は立ち去らないでいるように、人が死なずに住み続けるならば、どうして、もののあわれがあるだろうか。(いや、ない)。

世の中は永遠ではない(無常だ)からこそ趣深いのだ。

 

 

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。

つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。

 

命があるものの中で、人間ほど長生きなものはない。

カゲロウならば夕べを待たず、セミならば春や秋を待つことなく死んでしまうというのに。

しみじみと一年を過ごす人間は、こよなくのどかなものではないか。

 

 

飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。

住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて、何かはせん。

命長ければ辱多し。

長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。

 

人生に満足せず、生きていること(時間が過ぎること)を惜しいと思えば、千年過ごしたとしても、一夜の夢のように感じるだろう。

いつまでも生きて住み続けることができないこの世で、醜い姿になっていったいどうしようというのか。

長くても、40前に死んでしまうほうが、みっともなくなくてよい。

 

 

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交じらはんことを思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

 

40歳を過ぎてしまえば、自分の外見を恥じる心もなくなり、世の中に出て人と交わろと思い、夕日のように先の短い身でありながら、子孫を愛し、子孫が栄えるのを見るまで生きることを期待し、ひたすら世の中で生きることをむさぼる心だけが深くなってしまうと、もののあわれもわからなくなって、全く嘆かわしい存在となるのだ。

 

作品中に現れる「無常観」

平安時代から鎌倉時代の日本は、今よりも政情が不安定で、いつ死んでもおかしくないと言えば大げさですが、今よりも死が身近に感じられる時代でした。

 

世の中は常に移り変わり変化するという「諸行無常」を日々実感する生活だったかもしれません。

 

世の中には永遠のものなどない。だからこそ、趣深いという逆説的な考えは、仏教思想と結びつき、当時の知識人たちの心をとらえたのでしょう。

 

桜は散るから美しく、雪は融けるからはかなく、生きているものはいつか死ぬからこそ、生きている時間が大事なのだと主張している感じですね。

 

京都の三大葬送地

 

平安京が遷都して以来、1000年にわたって都が置かれた京都は多くの人の死を見てきた町でもあります。

 

平安時代に京都で亡くなった人は、化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)、蓮台野のどこかに遺体が放置されました。

 

庶民の多くが風葬とされたのは、火葬する薪代が捻出できなっかためでもあります。

 

化野(あだしの)

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引用:化野念仏寺 - Wikipedia

 

京都の西にある嵯峨・嵐山方面にある小倉山

この山のふもとが「化野」です。

 

あだしというのは、違う、はかない、変わりやすいといった意味の古語。

あだしのは、はかない野という意味で、はかなくなった人、すなわち死者の野という意味でしょう。

 

古くは風葬地、江戸時代以降は火葬地として知られていました。

化野には化野念仏寺という浄土宗の寺があります。

弘法大師空海が野ざらしになっていた風葬遺体を埋葬したのが念仏寺の始まりでした。

 

現在、念仏寺の境内にある8000を超える石仏・石塔は、明治時代に周辺から掘り起こされ集められたものです。

石仏などが並ぶ西院の河原は、あたかも、あの世の光景のようにすら感じられますね。

鳥辺野(とりべの)

鳥辺野は、化野とことなり、明確な地域指定はありません。

しいて言えば、清水寺などがある京都東山周辺です。

 

鳥辺野は平安時代からの風葬地で、『徒然草』や『源氏物語』にも登場します。

有名な割に、場所が特定されていないというのは意外ですね。

蓮台野(れんだいの)

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引用:引接寺 (京都市) - Wikipedia


京都の北部の風葬地が蓮台野です。

平安京朱雀大路の延長線上にある場所で、古代からの葬送地である船岡山に通じる途中にありました。

 

蓮台野の入り口にあるのが引接寺(いんじょうじ)

引接とは、仏が民衆(衆生)を極楽に往生させること。

引接寺とは、いわば、あの世の入り口の寺という意味になりますね。

 

引接寺の別名は「千本ゑんま堂」。

地獄の裁判官である閻魔大王の像が祭られていることから、そうよばれます。

親たちは閻魔像の前で子供らに、「悪いことはするな」「うそはつくな」などと教え諭すのが通例となっていました。

 

京都にはほかにもたくさんの名所があります。

ありきたりな観光に飽きた方にオススメなのがこの本。

「裏魔界」の名にふさわしいそうそうたる名所が紹介されています。

三大風葬地や六道珍皇寺の井戸の話なども収録されていますよ。

 

さいごに

 

昨今、昔に比べると死亡率が低下し、長寿になった日本人は、死と直面する機会が減少しました。

 

2020年の新型コロナウイルスの流行は、私達に思いもよらず、死というものを思い起こさせる機会になっているかもしれません。

 

諸行無常、いつ、今の平穏な生活が打ち切られ、病との闘いが始まるとも限りません。病魔が去り、平穏を取り戻した暁には、今の生活をもっと大事にしたいと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「朱元璋(洪武帝)ってどんな人?」「朱元璋はどんな顔?」「朱元璋はどうやって成り上がった?」わかりやすく解説!

朱元璋洪武帝)ってどんな人?

朱元璋はどんな顔?

朱元璋はどうやって成り上がったの?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

 

朱元璋は14世紀後半の元末に活躍した人物で、農民反乱の中から頭角を現し出世しました。

 

その出世には彼の「顔」が深くかかわっていました。

 

大勢力を築き上げた朱元璋は農民反乱を鎮圧する側に回り、江南を中心に勢力を拡大します。

 

そして、居並ぶ群雄との戦いに勝利し弱体化していた元王朝を北京から追放。あらたに明を建国します。

 

しかし、建国後はすさまじい粛清を行い権力基盤を固めました。

 

今回は「異相」で貧農からの下剋上を成し遂げた朱元璋についてまとめます。

 

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農民から成りあがった朱元璋劉邦

朱元璋は中国史上、最も低い身分から下克上を果たした人物です。

 

漢の高祖劉邦でさえ、自作農の家の子でした。朱元璋は、貧農で、しかも乞食坊主にまで身を落とした末の逆転劇です。

 

朱元璋がチャンスをつかんだきっかけは、彼にしかない「異相」を評価されたことでした。朱元璋が頭角を現すまでを見てみましょう。

 

貧農に生まれた朱元璋

朱元璋は濠州、現在の安徽省北部に生まれました。朱元璋の家は貧しい農民で、日々の食にも事欠く暮らしだったといいます。

 

朱元璋が生まれた元王朝の末期、国の政治はめちゃくちゃになっていて、ひとたび飢饉や干ばつが起きれば、多くの人がなすすべなく死んでいきました

 

朱元璋が幼いころ、病や飢えのため家族がすべて死んでしまいます。身寄りのない朱元璋は皇覚寺の托鉢僧となりました。

 

托鉢僧といえば聞こえはいいですが、要するに、乞食坊主で、かろうじて毎日の食を托鉢出て命をつなぎます。 

 

朱元璋と同じく、農民から皇帝になり天下を取った漢の劉邦

中国の歴史上、農民から天下を取った人物は2人。一人は明の朱元璋、もう一人は、漢の高祖劉邦です。

 

劉邦は漢の時代に自作農の子として生まれました。農民の子でありながら農作業が大嫌い。

 

秦の地方役人である亭長になりますが、工事現場に人足を連れて行くのに失敗し、自分自身も逃亡してしまいました。

 

その後、劉邦蕭何張良韓信といった優秀な人材に支えられ、楚の項羽との戦いに勝利。漢王朝の初代皇帝になりました。

 

朱元璋は貧しいながらも寺にいたので読み書きはできました。

 

もしかしたら、朱元璋は『史記』などの古典に目を通したかもしれませんね。

 

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器の大きさ大陸一! 漢の高祖 劉邦

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人と違う顔で出世した朱元璋

紅巾の乱に参加した朱元璋は反乱軍内部でメキメキと頭角を現します。

 

かつて、南朝の都がおかれた建康を攻め落とし本拠地を得ると、最大のライバルである陳友諒に鄱陽湖の戦いで勝利し江南を統一します。

 

地盤を固めた朱元璋は、北伐を開始し、元王朝万里の長城の北に追い払いました。

 

元末に起きた紅巾の乱

元の時代、漢民族の間で大きな力を持った宗教団体がありました。その名は白蓮教

 

白蓮教は極楽浄土に往生することを願う浄土教をベースとした宗教でしたが、そこに弥勒菩薩への信仰やマニ教が加わることで、新たな宗教となります。

 

白蓮教徒たちは、世の中が乱れたとき、弥勒菩薩の生まれ変わりがあらわれ、人々を救済してくれるとときました

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人々を救済すると考えられた弥勒菩薩

引用:弥勒菩薩 - Wikipedia

 

弥勒菩薩の下生は56億7千万年後とされますが、いつからとはいわれません。

 

だから、「今が、56億7千万年後で、自分が弥勒菩薩の生まれ変わりだ!」と主張することも可能だったんですね。

 

1351年、元王朝が農民達に黄河の氾濫で決壊した堤防を無償で修築せよと命じられ、農民達がキレました。

 

農民達は白蓮教のリーダー韓山童をおしたてて、反乱を起こします。これが、紅巾の乱です。

 

反乱軍は頭に紅い頭巾をかぶっていたので、紅巾の賊と呼ばれます

 

紅巾の乱は全国のに拡大。乞食坊主だった朱元璋も紅巾の乱に参加します。

異相でチャンスをつかみ、本拠地を確保

反乱軍に参加した朱元璋は、地元の濠州で挙兵した郭子興の軍に参加しました。

 

最初、朱元璋はスパイとして間違われ処刑されそうになります。

 

このとき、首領の郭子興は朱元璋の異相が気に入り、幹部として取り立てました。いい方を変えると、あまりの「ブサイク」が相手に強いインパクトを与えたのでしょう。

 

反乱軍の部将として活動する中で、朱元璋は彼の仲間となる徐達李善長らと出会います。

 

李善長は、朱元璋と漢の高祖劉邦がともに農民出身であることに着目。朱元璋に、劉邦のようにふるまうことを勧めました。

 

郭子興の死後、郭軍団を掌握した朱元璋は大都市である建康を制圧し、自分の本拠地とすることに成功。

 

朱元璋は占領した建康を応天府と改名しました。

 

三国志演義』の赤壁の戦いのモデルとなった鄱陽湖の戦いで勝利

 

このころ、江南は応天府の朱元璋湖北省江西省を本拠地とする陳友諒、蘇州を本拠とする張士誠の3人が三巴になって争っていました。

 

なかでも、もっとも強大な陳友諒は張士誠と手を組み朱元璋を滅ぼそうとします。

 

1361年、陳友諒は朱元璋の本拠地である応天府に攻め込みました。

このとき、朱元璋は部下の一人である康茂才を偽って陳友諒に投降させます。

 

康茂才は、わざと陳友諒に応天府攻撃をせかしました。康茂才の偽りの進言に惑わされ、拙速な応天府攻撃を行ってしまい失敗。

大損害をこうむって西へと引き上げました。

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決戦の舞台となった鄱陽湖

引用:鄱陽湖 - Wikipedia

1363年、形勢挽回を図った陳友諒は、大型戦艦を主力とする水軍を率い、朱元璋に決戦を挑みます。

 

朱元璋は陳友諒と決戦すべく鄱陽湖に出撃しました。朱元璋率いる船団は、陳友諒に比べ小型でしたが、火力では優れていました。

 

はじめ、戦いは陳友諒の優位に進みます。

 

しかし、徐々に遠征の疲れが出始めた陳友諒の船団に対し、機動力と火力で勝る朱元璋の船団が襲い掛かり、陳友諒の1隻1隻、炎上させていきます。

 

戦局が決定的となったのは、東北の強風が吹いた瞬間でした。

 

朱元璋は7隻の決死隊を陳友諒の船団に突入させます。風を避けるために密集していた陳友諒の船団はまたたくまに火だるまになりました

 

この辺の描写は、『三国志演義』の赤壁の戦いとかなり似ていますね。

 

編者の羅漢中朱元璋の同時代人ですから、鄱陽湖の戦いのことを伝え聞いていたのかもしれませんね。

 

陳友諒は鄱陽湖の戦いで戦死。戦いに勝利した朱元璋は蘇州の張士誠も滅ぼし江南を統一します。

 

どうも、このあたりで朱元璋は白蓮教徒と縁を切り、弾圧に転じたようですね。

 

支配者の立場に立てば、クーデタを容認しかねない白蓮教はとても危険な宗教だったので、朱元璋が弾圧に転じたのも不思議ではありません。

 

 

北伐の開始と中国統一

江南を統一した朱元璋は1368年に皇帝として即位します。国号は明と定めました

 

朱元璋はいまだに華北を制している元と雌雄を決するため、歴戦の勇将徐達に命じて北伐を開始させました。

 

徐達率いる北伐軍は黄河流域の中原を制圧。一気に、元の首都大都に迫りました。

 

元の皇帝である順帝は大都を放棄し、モンゴル高原に撤退します。北に逃れた元は北元と呼ばれるようになりました。

 

朱元璋は国内の対立勢力や雲南方面、北元の残存部隊などに勝利し、明の天下を盤石のものとしていきました。

 

統一後の粛清

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かなりの「異相」で描かれた朱元璋

引用:朱元璋 - Wikipedia


元を追い出し、中国を漢民族の手に取り戻した朱元璋は新たな政治システムを作り上げます。

 

それは、政府機関にあたる六部を全て皇帝に直結させる皇帝専制のしくみです。

 

全権力を皇帝に集中させた朱元璋は、少しでも怪しいそぶりを見せる臣下たちを次々と粛清します。

 

その始まりは1376年の空印の案です。地方官の不正をただすことを口実に、力を持ち始めていた官僚たちを更迭しました。

 

次の胡惟庸の獄では宰相の胡惟庸らを謀反の罪により処断します。

 

その後も初代宰相となった李善長をはじめとする建国の功臣たちも次々と粛清されていきました。

さいごに

朱元璋は、一回の乞食坊主から明を建国し皇帝の座に上り詰めました。

 

農民が、龍にもたとえられる皇帝になることなど、滅多にあることではありません。

 

即位後も、朱元璋は非凡さを見せますが、同時に残虐な性質もあらわになりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「土地制度の移り変わりとは?」公地公民から荘園、太閤検地、地租改正までわかりやすくまとめます!

日本の土地制度はどんなふうに移り変わった?

公地公民って何?

荘園とは?

太閤検地のポイントは?

地租改正とは?

 

このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。

 

日本では公地公民制度が出来上がって以後、荘園制度、太閤検地(一地一作人の原則)、地租改正と時代に合わせて土地制度が移り変わりました。

 

今回は日本の歴史に大きな影響を与えた公地公民や荘園、太閤検地、地租改正の重要ポイントについてわかりやすくまとめます。

 

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土地と人民は天皇のもの!公地公民

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ヤマト政権の中心だった奈良盆地畝傍山

引用:畝傍山 - Wikipedia

 

昔々、日本は有力な豪族たちがゆる~い連合をつくって国を治めていました。その連合のことを「ヤマト政権」といいます。

 

ヤマト政権は、大王を中心に豪族たちが寄り集まって政治を行いました。

 

ヤマト政権のトップである大王(おおきみ)は、一番偉いとされていましたが、豪族たちの土地から勝手に税をとることはできません

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中央集権化を推し進めた中大兄皇子天智天皇

引用:天智天皇 - Wikipedia

 

聖徳太子中大兄皇子は、中国(隋や唐)の制度である律令を取り入れ、国がすべての土地と人民を支配する仕組みを目指します

 

この仕組みを、公地公民といいました。

 

公地公民は戸籍の編成とセットで行われます。戸籍にもとづき、政府は人々に口分田を与えました。そのかわりに税を徴収しようとしたのです。

 

人民の居場所をつかみ、土地の所有者や納税者を決め、全国各地から税を集めようという試みですね。

 

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蘇我入鹿を排除した乙巳の変

引用:乙巳の変 - Wikipedia

 

公地公民や律令の仕組みを強力に推し進めたのは天智天皇天武天皇です。

 

天智天皇は、天皇になる前、中大兄皇子と名乗っていたころに、乙巳の変蘇我氏を排除しました。

 

天武天皇は、古代史上最大の内乱である壬申の乱に勝利。強力なリーダーシップで律令の制定と公地公民制を推し進めます

 

701年、大宝律令が出来上がることで、公地公民は完成しました。 

 

「脱税」から生まれた荘園

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天智天皇天武天皇が苦労して作り上げた公地公民は、奈良時代の中頃に早くも崩れ始めました。

 

公地公民で土地に縛り付けられた人民は、重い税金を嫌って、あらゆる手段で「脱税」を試みます

 

たとえば、僧侶が非課税だったことを利用し、勝手に僧侶になる私度僧

 

あるいは、女性の税負担が軽いことに目を付けた、戸籍の偽り(偽籍)。

 

または、土地を捨てて行方不明になる逃亡

 

国よりも税負担が少ない貴族や寺院の土地に逃げ込む浮浪など、さまざまな脱税が試みられました。

 

脱税の横行により、税収が減った政府は、土地制度の改正を迫られました。

 

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盛んに荘園を開墾した東大寺

引用:東大寺 - Wikipedia

 

743年、政府は墾田永年私財法を出します。

 

公地公民で、「すべての土地は天皇のモノ」と定めたのを改め、貴族や寺院、一般人が土地を私有することを認めました

 

墾田永年私財法は、資金力がある貴族や寺院に有利です。彼らは、競って各地を私有地(荘園)にしていきました。

 

平安時代になると、脱税は本格化します。

 

上級貴族ほど、免税しやすいという仕組みを利用し、自分の土地を上級貴族の所有地にしてしまうものが現れました

 

といっても、土地を上級貴族にプレゼントするわけではありません。名前だけ借りて、本当の土地の所有者は荘園の管理者(荘管)となりが土地を支配しました。

 

日本全国の土地は、貴族や寺社の私有地である荘園と国司の管轄する公領に分けられます、(荘園公領制

 

こうして、土地の制度はどんどん複雑に、ややこしくなっていきます。

 

平安時代後期に現れた武士は、自分の土地を守ることに命を懸けた

 

平安時代の後半、上級貴族たちは地方政治に関心を示さなくなりました。彼らにとって、地方は自分たちに富をもたらす、いわばATMのようなものです。

 

収入は欲しいですが、地方で発生するトラブルなどには対処したくありません。

 

そこで、国司(今でいう県知事)として赴任する中下級貴族に地方政治を任せてしまい、自分たちは収入だけを受け取る仕組みを考えました

 

そうなると、困るのは地方に住む人々。

 

国司になった中下級貴族は、上級貴族にお金を渡すことで地位を得ていたため、元を取るために地方に重税を課すこともあったからです。

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地方の統治が乱れ、強盗などが出現するようになると、地方の有力者は自分の土地や財産を守るために武装するようになりました。

 

これが、武士の始まりだといわれます。

 

武士たちは、自分の土地を文字通り命がけで守りました。だから、一所懸命という言葉が生まれます。

 

最初は社会的地位が低かった武士ですが、鎌倉幕府ができると地位が一気に向上。地頭や守護になって、貴族や寺社が持っていた荘園を侵略します。

 

これにより、ただでさえややこしくなっていた土地所有の関係は、めちゃくちゃになってしまいました。

 

豊臣秀吉による太閤検地で、土地所有関係がスッキリ!

織田信長の家臣として出世し、明智光秀を討伐することで天下人となったのが豊臣秀吉でした。

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太閤検地で辣腕を振るった石田三成

引用:石田三成 - Wikipedia

 

秀吉は、自分の家臣の中で計算に強い石田三成らに、日本全国の土地を測量するよう命じます。

 

秀吉の目的は、土地の所有者をはっきりさせることで、誰が税金を払うべきなのかを明確にすることでした。

 

三成らは全国各地の土地を綿密に調査(検地)。誰が、どの畑を現在耕しているかなどを割り出しました。

 

その上で、秀吉は過去の複雑な権利関係は考慮せず、今耕しているものが、その土地の所有者であり、土地の所有者が税を払うと取り決めます

 

太閤検地によって成立した一地一作人の原則は、土地に絡む様々なトラブルを強引に解決してしまいました。

 

もちろん、太閤検地に反対する一揆は各地で起きましたが、秀吉は武力で鎮圧します。

 

江戸時代に入り、幕府や藩が全国を支配するようになっても、基本的には秀吉がつくったシステムを利用して土地や農民を支配しました。

 

現金収入を得るため、地租改正を実行

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引用:戊辰戦争 - Wikipedia

 

江戸時代末期、薩摩・長州などを中心とする新政府が、戊辰戦争で旧幕府勢力に勝利しました。

 

新政府が行ったいろいろな改革をひっくるめて、「明治維新といいます。

 

明治政府には大きな悩みがありました。それは、現金収入が少ないこと。

 

江戸時代まで、経済の中心は米だったので、幕府も藩も農民から取り立てるのは米をはじめとする農作物でした。

 

しかし、外国から技術を導入し、新しい機会を買うには外国人も受け取ってくれる「お金(金や銀)」が必要となります。

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土地の所有者に発行された地券

引用:地券 - Wikipedia

 

困った明治政府は、土地制度や税金の制度を変えることで現金収入を得ようとしました。それが、地租改正です。

 

土地の所有者を確定し、その人に税を払わせるというのは公地公民や太閤検地と同じでした。

 

違っているのは、土地の値段を決定(地価)し、地価の3%を現金で国に納めるとしたことです。

 

農民たちは農作物を販売し、現金を得て、それを納税しなければならなくなりました。

 

農作物が高く売れるときはいいのですが、不景気などで農作物の値段が下がると地租を払うのが大変になります。

 

中には、地租を払えなくなり、土地を他人に売って都市に出る人も現れました。

 

明治時代後半から昭和の初期にかけて、地方の土地は大地主によって買い占められます。

 

大地主は、土地のもとの所有者や新しく雇った農民を小作人として使い、自分が働かなくても収入を得られる仕組みを作ります。

 

これを「寄生地主制」とよびます。 

 

寄生地主制を解体した戦後の農地改革

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昭和天皇と会見したマッカーサー

引用:ダグラス・マッカーサー - Wikipedia

 

第二次世界大戦で日本が敗れると、マッカーサーをトップとするGHQ連合国軍総司令部)が日本政府に命令を出す間接統治が始まりました。

 

GHQは、寄生地主などの古い仕組みが日本を戦争に導いたと考えます。そのため、農地改革を実行し、寄生地主から半強制的に土地をとりあげました

 

とりあげた土地は小作人らに安く売り渡します。なので、近年まで、日本の農家は規模が小さい家族中心の農業となったのですね。

 

いま、かつての農民のように税を負担しているのはサラリーマン。

 

戦後、日本は高度経済成長を経て、工業や商業が中心の国になりました。かつては、人口の8割以上を占めていた農民は、今では数%にすぎません。

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政府は、圧倒的多数になったサラリーマンから、所得税などを取る仕組みを作りました。

 

政府がサラリーマンから確実に税をとるために作った仕組み、それが、源泉徴収です。給料を支払う前に、会社から税金分を天引きするやり方のこと。

 

源泉徴収を使うことで、政府はサラリーマンから効率よく税をとることができます。

 

いつの時代も、政府は税をとるということに対し知恵を絞ってきました。いずれ、フリーランスなどからも効率よく徴税できる方法を編み出すかもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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